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「ありのまま」の自己観 vs 性別による秩序 2軸のコンフリクトを見つめるジェンダー史研究

  • 社会学研究科講師田中 亜以子

2021年7月1日 掲載

画像:田中 亜以子氏

田中 亜以子(たなか・あいこ)

2007年京都大学農学部森林科学学科卒業、2009年京都大学大学院人間・環境学研究科共生人間学専攻修士課程修了、2016年同博士課程単位取得退学。2017年博士(人間・環境学 京都大学)取得。関西学院大学社会学部・関西大学社会学部他非常勤講師を経て、2021年一橋大学社会学研究科講師に就任。著書に、『男たち/女たちの恋愛――近代日本における「自己」とジェンダー』勁草書房、2019年(第34回「女性史青山なを賞」受賞)、『セクシュアリティの戦後史』京都大学学術出版会、2014年(共著)などがある。

ジェンダー史研究における「ジェンダー」とは何か

私は、ジェンダーをテーマとした歴史的研究を行っています。ジェンダーの歴史研究ときいて、多くの人がまず思い浮かべるのは、男らしさ/女らしさ、あるいは、男の役割/女の役割の歴史的変容といったところではないでしょうか。男女の「らしさ」や「役割」が、歴史的・社会的につくられたものであり、決して不変でも普遍的でもないことは、今やよく知られるようになってきました。実際、私も研究をはじめた当初は、男女の役割規範の変容に最大の関心を寄せていました。

しかし、現在、私が歴史的考察の対象としているのは、「らしさ」や「役割」の内実だけではありません。「らしさ」や「役割」の基盤に存在すると考えられている性別という観念そのものを歴史的考察の対象としているのです。性別を歴史的に考察するとはどういうことか。頭に「?」が浮かんだ方もいるかもしれません。性別(セックス)とは生物学的領域に属する不変のものではないのか、と。

この点については、後段で説明することにして、まずは私がジェンダー研究と出合った経緯、そして、これまでの研究についてお話ししたいと思います。

「個性」と「女らしさ」のはざまで

自分の成長過程を振り返ったとき、学校や家庭において「個性的であれ」というメッセージを受け取ってきたように思います。注意が必要なのは、そこで求められる「個性」には、「社会に貢献できる」という前提条件が課されていることです。私よりも若い世代では、「個性的であれ」と言われて困った経験をしたことのある人は、わりと多いのではないかと思います。しかし、私自身は「個性的であれ」というメッセージ自体に違和感を覚える以前に、それがもうひとつ別のメッセージと克ちあってしまうことに戸惑いを覚えていました。別のメッセージとは、「女らしくあれ」というものです。

「個性」言説を内面化し、自分のしたいことをして、発言したいことを発言し、着たいものを着て・・・どんどん個性を伸ばしていくことをよしとする自分がいる一方で、内面化された「女らしさ」の基準によって、それを押しとどめようとする自分もまた存在したのです。

後にフェミニズムを勉強することで、これは人間としての評価と女としての評価が異なるがゆえに生じるジレンマの一つであり、自分もまたフェミニズムにおいて古くから指摘されてきたジレンマを経験していたことを知りました。

恋愛のなかに潜むジェンダー規範

人間としての評価と女としての評価のずれ、これを私がもっとも強烈に体験することになったのが、恋愛という領域です。私が大学生くらいになるまでもっていた、とても未熟な恋愛観では、理想の恋愛とは「男らしい男」と「女らしい女」のするものでした。特に異性の恋人との性行為においては、男性がリードするもので、女性は受け身でなければならないという規範を強く内面化していました。青少年の性行動全国調査報告を見ると、私のように感じている若い女性は、今でも決して少数ではないことがわかります。

男性と女性とは平等であり、女らしさに捉われずに「自分らしく」生きるのがよいという建前と、異性愛領域における強固なジェンダー規範。ここで私はもっとも強烈な形で、先ほど述べた「人間と女のジレンマ」を経験したのです。

もちろん、当時こんなにすっきりとした説明ができていたわけではなく、ただただどうすればよいのかわからず、もやもやとしていました。そして、その「もやもや」に言葉が与えられたのが、大学3年時に留学したカナダ・トロント大学で受けたジェンダー論の授業の中だったのです。男性=能動、女性=受動というジェンダー役割には、いかなる権力関係が潜んでいて、その背後にはどのような社会構造があるのか...。最前列で講義に耳を傾けながら、私はジェンダー研究の道に進もうと決めたのです。

恋愛にはなぜ、相反する価値観が埋め込まれているのか

帰国後に京都大学大学院に進学し、私が取り組んだのは、異性間の性愛関係や恋愛のなかにあるジェンダー規範の形成過程を明らかにする研究です。なかでも力を入れたのが、恋愛に焦点を絞った研究です。

恋愛においては、先に述べたように、男性は背が高くなければ、女性は可愛くなければなどのジェンダーに関する規範がとても強いですよね。しかし、私がとても面白いと思うのは、他方では、恋愛は、ジェンダー規範とは関係なく、お互いに「ありのまま」を肯定し、受け入れあう関係としても理想化されていることです。つまり、恋愛には相反する2つの価値観が、埋め込まれているのです。いったいこれはどういうことなのでしょうか。この点に着目して歴史的な探求を進めていくうちに、恋愛という観念には、それが形成されていった時代そのもののコンフリクトが刻印されていることが分かってきました。

明治期に入った日本では、身分制が解体され、職業選択、移動、結婚の自由等が打ち出されていきました。建前としては、誰もがやりたいことをできる、生き方の選べる社会が形成されていったのです。言い換えると、自分自身は「何者なのか」というアイデンティティを自分自身で形成していく社会です。しかし、そこにはある枠組みが課されていました。まさしく「性別」という枠組みです。身分秩序が取り払われても、「男は仕事、女は家事・育児」という性別という枠組みにのっとった秩序がつくられていったのです。そのことは、「結婚の自由」と言いつつ、そこに同性婚が含まれていなかったことや、「結婚しない自由」が保障されていなかったことに明らかですよね。

すなわち、一方では生まれに関係なく「本来の自分」の才能を開花させて生きていくことが理想化され、他方では性別に基づいた役割が課される。このような二重性が、恋愛という観念にも刻み込まれていったといえます。異なる二つの要請をうまく包み込むことで、そのコンフリクトを不可視化させたのが、恋愛であったともいえるかもしれません。異性間の恋愛という関係こそに「本来の自分」を見出すように誘導されることによって、そこで求められているジェンダー規範が不可視化されていったのです。「本来の自分」や「ありのままの自分」といった理想は、現代とりわけ強く求められていますが、先に触れた「個性」と同様、その理想にどのような前提が付与されているのかには警戒が必要です。

「普通」という物差しの下、誰かの足を踏んでいるかもしれない

さて、このように恋愛のなかにあるジェンダー規範に着目して研究を進めていったわけですが、そのなかで恋愛とは男女のペアでするものだという異性愛規範の形成過程も、明確に浮かび上がっていきました。そのことによって、研究をはじめた当初は、自分がどこかで異性間の恋愛を中心化して考えていたことに気がつきました。私自身は、異性愛のなかにあるジェンダーの役割規範に違和感を持ちこそすれ、異性愛自体は自明視していたのです。それはとりもなおさず、異性愛規範に苦しむ人たちの足を、私が無意識のうちに踏んできたことを意味します。恋愛研究は、自分の生きづらさに言葉を与えてくれるだけでなく、「他の人の生きづらさに自分が加担しているかもしれない」ということに気づかせてくれるものでもありました。

また、恋愛のなかに、男/女という区分が生じていく過程を検討するなかで、そもそも「男」「女」という性別観念自体が大きく変容していくことに気がつき、それが現在の研究テーマにつながることになりました。

日本における性別観の歴史へ

このインタビューの冒頭で、現在私は男女の「らしさ」や「役割」の内実だけでなく、その基盤に据えられている性別観念自体を歴史的考察の対象としていると言いました。性別(セックス)とは生物学的に不変のものであり、その歴史を探求するとはどういうことなのかと疑問に思われる方もいると思います。確かに、人間が有性生殖をする生物である以上、いつの時代にも性別現象は存在していたかもしれません。しかし、生殖に関わらない場面でも、すべて人間を男女の2つに分類する根拠をどこに見出すのか。身体なのか、「内面」なのか、文化なのか。男女の境界線をどの程度強固なものと理解するのか。境界線を越境することはどう考えるのか。いくつかの問いを挙げて見るだけで明らかなように、性別そのものをどう構築するのかということも、歴史的に不変でないのです。

特に私が明らかにしようとしているのは、近世から近代にかけての性別観の大きな転換です。明治期以降の身分制度の廃止、男女の領域の区分に基づく性別役割分業体制の形成、新たな自己観・人間観の登場とともに、性別観も大きな変容を遂げることになります。直接的な影響としては、西洋からの性科学的の知の流入が挙げられます。しかし、西洋から新たな性別観が入ってきて定着しましたというだけの単純な話ではありません。新たな知の影響を受けながらも、在来的な価値観も残存していったことが研究の過程で見えはじめています。両方の側面がどのように作用したのかを見究めて、日本における性別観の歴史を描くことで、今を生きる私たちが、どのような性別観を社会の基礎に据えているのか、相対化することを目指しています。(談)