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植民地主義的な関係性に身を置き、そこで生まれる表現を見つめる

  • 言語社会研究科准教授井上 間従文

2020年12月24日 掲載

画像:井上 間従文氏

井上 間従文(いのうえ・まゆも)

1999年米国カリフォルニア大学バークレー校 College of Letters and Science卒。2005年米国南カリフォルニア大学 College of Letters, Arts, and Sciencesにて修士号を取得。2012年Ph.D. in Comparative Literature(南カリフォルニア大学)。2008年琉球大学法文学部講師を経て、2012年一橋大学言語社会研究科准教授に就任、現在に至る。

トランスナショナルな統治体系の中で、
芸術表現が持つ批判的可能性について

私は美学・感性学(Aesthetics:エステティクス)を専門分野として、「パックス・アメリカーナ」(アメリカの覇権による平和)と呼ばれるトランスナショナルな統治体系の中で、芸術表現が持つ批判的可能性について研究しています。

具体的には......と話を進めたいところですが、そもそもエステティクスとは何かという点についてお伝えする必要があるでしょう。そこでまず、私がアメリカの大学院で学んだ「比較文学」について紹介し、エステティクスの研究へと進んでいった経緯から、現在の研究や受講生の様子についてお伝えします。

ナショナリズムや権力の不均衡に対して
敏感であり続けようとする比較文学

私は2003年にUSC(University of Southern California)で比較文学の一貫制博士課程に入りました。

私が選択した比較文学は、第二次世界大戦後に発展した学問領域です。当初は、ファシズム直後の世界で各国における文学の最良の部分を比較し、ヒューマニティを守るという使命を帯びていました。実際、ヨーロッパからアメリカに亡命した知識人たちが切り開いてきた分野でもあります。ただ、比較をすればするほど、国民性などといった作られたイメージの違いが助長されるため、ナショナリズムを許容する装置になりかねない危険性が、指摘されはじめました。

1980年代に入ると、アメリカの比較文学はジャック・デリダ、ミシェル・フーコーといったヨーロッパの哲学者たちの受け皿となり、人文学一般の理論的視座を考える場所となりました。私が修士課程に入った頃には文学をジェンダー理論で読み解く、小説を都市論で分析し、文学以外の芸術やポピュラー文化も扱うなど学際性が成長。まるで、文学を中心にどんな研究もできる避難場所のようでもありました。

もちろん英語中心主義に陥らずに多様な文化・世界に開かれていると同時に、狭い想像力での比較を通して観察主体と観察客体との関係性を固定すること-言い換えればグローバルな世界に横たわる「権力の不均衡」-に対してつねに敏感な学問領域でもあります。

「植民地主義的な関係」を見つめる時に
エステティクスが必要となる

「権力の不均衡」の典型例が、植民地と宗主国の関係です。私はそれを「植民地主義的な関係」と呼んでいます。

2000年代のアメリカの比較文学という空間で学んでいた私は、当たり前のこととして「植民地主義的な関係」の中に身を置いて学んでいたと言えます。「植民地主義的な関係」を成り立たせるものは何かと問うた時に、文学表現のみならずエステティクス、つまり美学・感性学の水準を視野に入れるべき、と考えるようになりました。

人が人と出会う中で、「あなたは○○人/私は○○人」「あなたのジェンダーはこれ/私のジェンダーはこれ」という対比を行うことで複数の主体の関係性が決定されますが、それを固定する器官はまずは五感です。植民地主義以降の世界を見た時、人々の美的・感性的な経験を通して、人種・国民性の差異やヒエラルキーが決定され、助長されてきました。

しかし私は、差異やヒエラルキーは感性において助長されるだけではなく瓦解する瞬間もある、と考えていました。特に日々の局地的な、微細な経験においては、差異やヒエラルキーが崩れ変容し、支配的な言説とは異なる人間たちの関係性が発生する瞬間がたくさんあります。芸術表現はこの経験の非決定性に開かれていると考えました。

境界を脱境界化していく経験

私は仙台にある私立高校を卒業後、カリフォルニア大学バークレー校(University of California, Berkeley)で学んでいました。

在学中、寄宿舎の食堂で働いたりもしましたが、そこでメキシコ・クエルナバカ出身のいわゆる労働者層の人たちと友人になりました。大学ではトリン・T・ミンハさんなど、当時の人文学において他者を表象することの権力性などを解きほぐすラディカルな研究者や表現者に出会いましたが、実際に人種やジェンダー、さらには言語能力などによって人々が分断される場で共に働くという経験が自分の糧になりました。

また、UCバークレーはいわゆる「赤狩り」後のアメリカにおける公民権運動、フリースピーチ運動、そしてベトナム反戦からマイノリティの運動への拠点でもありましたが、これらの学生運動の成果が大学のカリキュラムに今も反映されています。学生が教員抜きに独自のテーマ設定で行う授業の一環として、オークランド市の貧しい地区に住むベトナムのエスニック・マイノリティ出身の中学生たちのチューターもしました。

ほかにも映画研究、女性学・ジェンダー学、エスニック研究といった専攻が1960年代末までのいわゆる「ニューレフト」運動の成果として大学の中に制度化されました。学生が教える授業、学生が自分でデザインする専攻、そのほか様々な社会運動・活動への支援があるのはUCバークレーの特徴ですが、いつか日本の硬直化した大学カリキュラムにも活かすことができればと思います。

沖縄から一橋大学に研究拠点を移し、
「植民地主義的な関係」を見つめ続ける

人種・国民性の差異やヒエラルキーが決定されると同時に、非決定性を内包する様子をアカデミアの中と外で同時に経験してきましたが、「植民地主義的関係性」が具体的に展開する場でキャリアの次の段階を踏みたいと考えていました。比較文学の空間では当然とされている学際性をクリティカルに活かしながら、映像を含む詩的テキストの可能性を考えたく、琉球大学英米文学専攻でのポジションに応募し、幸運なことに採用が決まりました。

沖縄では、やや年上の気鋭の学者たち、運動家たち、やや若い研究仲間たち、そして同世代の芸術家の友人たちにも恵まれました。またタクシーの運転手の方や、70代の詩人の方など多くの人たちとの交友関係にも支えられて来ました。

その後、2012年春に研究拠点を一橋大学に移し研究を続けています。

具体的には、20世紀以降のアメリカと東アジアをめぐる記憶のポリティクスを、ナショナルではないものへと開くために必要とされる美的想像力や感性のあり方とはどのようなものか。テオドール・アドルノ、ジャン・リュック・ナンシー、酒井直樹といった先鋭的な理論家たちの仕事も参考にしながら、「パックス・アメリカーナ」と呼ばれるトランスナショナルな統治体系の中で、芸術表現が持つ批判的可能性について考察しています。

特に、沖縄を含む日本とアメリカで制作された詩的文学や映像作品などがどのような「共感域」を構想してきたかという点に着目。昨年はこの分野の主要な研究者たち12名と共に Beyond Imperial Aesthetics:Theories of Art and Politics in East Asia という英語論文集を香港大学出版から刊行しました。現在は英語単著を準備しており、自分が今主に仕事をしている英語圏の研究者たちとの知的交流も続けていきます。

教員は、受講生にとって
リソースの中継点となるべき

人文学のつぼともいえる言語社会研究科内の私の研究室の宝物といえるのは、幅広いテーマと経験の広さ・豊かさを備えた受講生の皆さんです。

受講生は一人ひとり"何か"を持っています。その"何か"を開花させるのは、教員ではありません。できるだけ実例をたくさん見せて、受講生にセルフパーミッションを与える=自分で自分に「こうあって良いのだ」と許可を与える機会を提供する。つまりリソースの中継点になることが教員の仕事である、と私はとらえています。

したがって上に述べたような自分の研究内容そのものについては、あまり教えません。博士後期課程の学生さんには研究者として独り立ちするための実践的援助を惜しみませんが、彼女ら、彼らがおこなう芸術や社会をめぐる研究からは常に学ばせてもらっています。修士課程で社会に出る方たちとは、人文学が行ってきた支配的社会との創造的な格闘と葛藤をいかにして楽しく続けていけるかを思考します。

教える、教えられるという関係性そのものの権力性に敏感でありたいとバークレー以降常に考えてきましたが、この関係性の非決定性の中から、さまざまな知的発見を共有する授業づくりを目指しています。(談)