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人類とテクノロジーの相互作用がもたらすもの

  • 大学院社会学研究科准教授久保明教

2019年6月5日 掲載

久保明教

久保明教

2003年大阪大学人間科学部卒業。2006年大阪大学大学院人間科学研究科博士前期課程、2010年同研究科後期課程単位取得退学、東京大学総合文化研究科所属(学振特別研究員PD)。2013年東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所(ジュニア・フェロー)、龍谷大学社会学部非常勤講師。2014年一橋大学大学院社会科学研究科専任講師を経て、2016年同研究科准教授に就任、現在に至る。近著に『機械カニバリズム―人間なきあとの人類学へ』(2018年/講談社)、『ロボットの人類学―二〇世紀日本の機械と人間』(2015年/世界思想社)がある。

テクノロジーと人間がともに影響を与えながら変化していく過程に注目する

「人類にとってテクノロジーとはいかなるものであり、いかなるものでありうるのか」――これが私の研究テーマです。
 具体的には、ロボットやAIといった先端技術の産物が、日常生活の中で人々といかに相互作用しているかについて、科学と文化を横断する視点から分析することを試みてきました。これまで、エンタテインメントロボット「aibo(アイボ)」の開発と受容の過程、ロボットをめぐる機械工学・計算機科学及びマンガ・アニメ表現の軌跡、将棋電王戦におけるプロ棋士と将棋ソフトの相互作用、家庭料理史における技術と倫理の共生成過程などについて、研究を行っています。
 単に便利な道具やインフラとして身のまわりの技術をとらえるのではなく、技術と人間がともに影響を与えながら変化していく過程に注目する。「科学と文化」、「理系と文系」の区別を自明視することなく、テクノロジーと結びついたこの世界がいかなるものであり、いかなるものでありうるかを探究しています。

人文社会科学の言語を科学技術に開くために

 テクノロジーは、私たちの社会や生活に大きな影響を与えている。一般にそう思われています。しかし私たちの社会生活を扱う社会科学では、テクノロジーは主な研究対象ではありませんでした。それは、テクノロジーが社会の「外」にあると思われているからです。例えば、日本の伝統的な踊りはテクノロジーとは関係ないのだろうか? 科学的に考えることはできないのだろうか? というと、もちろんそんなことはありません。たとえば、ワイヤーフレームを使って日本舞踊の踊り方を解析する――そんな研究も実際にあります。
 私たちは、普段は日本舞踊とテクノロジーを全然違うものだと思っているのに、ワイヤーフレームやコンピュータ・グラフィクス(CG)となると、急にテクノロジーだ!と思ってしまう。それは後者を自分たちの「外」に置いているからです。逆に言えば、前者を文化や社会の内側に置いている。普及した技法や技術は、その内実ではなく、むしろ技術を使う個人や集団、それを規定する社会や文化の構造が問題にされます。
 新しい技術は人間の社会や文化の「外」に置き、普及した途端にそれらの「内」に置いて正面から分析しなくなる。それで現代の世界をきちんと捉えられるのだろうか、というのが私の問題意識です。社会と科学、人間とテクノロジーのどちらかに軸足を置くのではなく、「両者の相互作用」を正面から捉えること。それによって、人文社会科学の基礎的な分析概念や分析手法を科学やテクノロジーに対しても開かれたものにしていくことが、私の研究の基本的な方向性です。

現代の神話とポケモン

 かつてクロード・レヴィ=ストロース(フランスの人類学者)は南北アメリカ大陸の先住民が語ってきた膨大な神話を分析しました。その多くは、世界の起源において人間と動物の間に明確な境界は存在しなかったことを語ります。例えば、人間がコヨーテに変身してコヨーテの村に行き、コヨーテの妻をめとり、火の扱い方、植物の育て方などの技術を学んで村に帰ってくる、といったエピソードですね。
 一方、近代社会はずっと「人間とそっくり同じ機械がいつか作られるのでは」という発想にとらわれています。人間と似た人間以外の存在(動物や機械)が過去ないし未来において人間と同じものとして捉えられるという点で、近代社会を生きる私たちもまた非近代社会の人々と極めて似たような神話を生きているのではないか。そうした発想をもとにして、調査や分析の対象としてきたのが「aibo」のようなロボットであり、あるいは、「ポケットモンスター(ポケモン)」シリーズに出てくる「ピカチュー」のようなポケモンたちです。
「ポケモン」というゲームは、テクノロジーの進展にあわせてその内容や形式を常に変えてきました。しかしその基礎にあるのは、ゲームの内側において、ポケモンが生き物であると同時に機械的に処理されるデータでもあるということだと考えています。ゲーム「ポケモン」の開発者たちは都市郊外に生まれ、少年期は開発が進む前の自然環境のなかで「虫取り少年」として育ち、中学高校になるとアーケードゲームを基盤から解析できるほどの熱狂的な「ゲームフリーク」になっていきました。彼らが幼少期に親しんだ生き物と青少年期に親しんだゲーム内のキャラが結びつくことで、「生き物=データ」としてのポケモンが生まれたわけです。
 1990年代には、「たまごっち」や「aibo」などの「電子ペット」が、「機械のペットを生き物の替わりにするのはおかしい」という倫理的な観点から批判されました。しかし「ポケモン」シリーズは、むしろ生き物でもあるし機械的なデータでもありうるような存在と人間がどう共生していけるのか、という問いを具体的に展開することで、そうした批判を――良くも悪くも――すり抜けたのではないかと考えています。大学で講義をしていると、今の20代~30代の人たちにとって、「ポケモン」との関わりは、想像力や思考の重要な参照軸になっているようにも感じます。それを私は、動物と機械と人間の三項関係を軸にした「神話」を私たちが現在も生きている事例として研究している、ということですね。

人間の能動性は、人間以外のものへの受動性によって生みだされる

 ここで注意しておきたいのは、「そもそも技術は人間が作りだすものだから、人間が完全にコントロールできるはずではないか」という考え方には何の根拠もない、ということです。
 たとえば畑は人間だけではつくれませんよね。土や水が必要ですが、それは人間がゼロから作ったものではない。機械にも材料が必要ですが、人間はそれらの材料、つまり人間以外の存在をゼロから作ったわけではありません。技術というのは、人間以外の存在と人間の相互作用の産物だ。そういうふうに考えれば、原発事故後の放射能問題や食品リスク問題のような現象も、単にどうコントロールするかという問題ではなく、両者の相互作用の重要な具体例として捉えることができるようになります。
 たとえば今私が受けているこの取材も、服、机、カメラ、レコーダー、ノート、ペン......こういったモノがなければ成立しないものです。インタビューを受けている表情一つとっても、こうした様々なモノがあるからこそつくれるものですよね。そう考えると人間は、自ら作りだしたモノを制御しているようで、制御されてもいる。
 ただし、「では、本当はどちらが制御しているのか?」とか「人間が制御を取り戻すにはどうすればいいのか?」などと問いはじめると堂々巡りになってしまいます。むしろ、私たちが様々な人間以外の存在を能動的に観察し制御できているように見えるのは、特定の仕方でそれらとの受動的な関係を取り持っているからだ、と私は考えています。人間以外の存在との受動的な関係が、いかに能動的な「私たち人間」のあり方を生みだしているのかを分析することで、「私たち人間」がいかなるものであり/いかなるものでありうるのかを探求できる。それが、テクノロジーを人類学的に研究することの一つの意義だと思います。

家庭料理――生活や社会の中でテクノロジーの具体的な働きを見つめる

 文化/社会人類学において重要なことは、具体的な状況の細部を注視し、既存の発想を相対化しながら再構成する筋道を探ることです。身近な例として、最後に家庭料理についての研究を紹介します。
 例えば「我が家の味」、「手作りの味」という言葉がひろまったのは、1960~70年代にインスタント食品や冷凍食品が爆発的に普及した後のことです。つまり、食品産業によって工場で機械的に作られた食品によって家庭内の料理が全てまかなえる。そういう選択肢が広まることで、そうではないものとして「手作り」や「我が家の味」を想定することがはじめて可能になったわけですね。
 でも、工場で作られているコンビニエンスストアのお弁当も人間が手を使って詰めているのだから「手作り」だとも言えます。家庭で「肉じゃが」を作ったとしても、そこにはメーカーが長年の研究をもとに加工した調味料や、農家が品種改良を重ねたジャガイモが使われています。家庭料理もまた、コンビニエンスストアのお弁当と同じように既に加工された食品を再加工したものにすぎないとも言えてしまう。しかし、私たちは「手作りは良いものだ」という漠然とした倫理観を簡単に手放すことはできないように思います。しかも、その倫理観はまさにここ数十年の技術や産業の進展に伴って生じてきたものです。インスタント食品や冷蔵庫や電子レンジやレシピや食材といった人間以外の存在との受動的な関係を通じて、「手作りは良いものだ」と能動的に考え、家庭での「手抜き」を批判するような私たちのあり方が生まれてきた、ということですね。
 このように、テクノロジーを漠然とイメージして社会や文化の「外」に置くのではなく、日常的で具体的な状況から技術と人間の関わりについて考えていくこと。それは、現代世界における「私たち人間」について考えるうえで、大変に難しくも面白い課題だと考えています(談)