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冷戦解消後の世界が向き合う集団安全保障の問題を国際法の観点から検証・分析する

  • 法学研究科教授佐藤 哲夫

2013年秋号vol.36 掲載

佐藤 哲夫

佐藤 哲夫

1978年一橋大学法学部卒業後、法学修士、法学博士の学位を取得。第24回安達峰一郎記念賞受賞。フレッチャー法律外交大学院法律外交修士取得(フルブライト奨学生)。1984年より一橋大学法学部助手、講師、助教授、教授を経て、大学院法学研究科教授。著書に、『国際組織の創造的展開』(勁草書房、1993年)、EvolvingConstitutions of International Organizations(KluwerLaw International,1996)、『国際組織法』(有斐閣、2005年)など。国際法学会雑誌編集主任・理事、世界法学会理事、日本国際連合学会理事、アジア国際法学会日本協会理事などを務める。

集団安全保障:国際社会の公権力を育てる

私の研究対象である国際法は、主権国家どうしが紛争・戦争に至ることなく共存するための仕組み、法秩序です。民法や刑法などいわゆる国内法とはかなり違う構造を持っているため、一般の方々にはなじみが薄いというイメージがあります。一般社会への浸透については、最後に吟味しましょう。
国際法を運用する国際組織としては国際連合(国連)が有名です。国家間の共通の利益や国際社会にとっての一般的な利益、つまり「公の利益」を担う機関として期待されています。そして「公の利益」の対極にある侵略や内戦などの「私(わたくし)の利益」を抑えこむために、安全保障の領域があります。特に冷戦解消後は、集団安全保障の観点から「国連常設軍」の必要性が唱えられており、私自身も世界法学会において「見果てぬ夢、国連常設軍」という論文を発表しました(『世界法年報』30号、2011年)。
国連が各国の行政府から派遣された人員によって運営されているように、仮に国連常設軍が設置されたとすると、加盟国(特に有力な軍事大国)から派遣された軍隊によって構成されることになるでしょう。しかし残念ながら、どの国も自国の軍隊を国連のコントロール下には置きたがりません。国民に対して納得のいく説明ができないからです。
軍事行動をとれば死傷者が出ることは覚悟しなければならない。自国が侵略を受けているときは、軍事行動について国民の理解は得やすいでしょう。でも地球の裏側で起こっている、名前も知らない国どうしの紛争だったらどうでしょうか。国民のほとんどは、「そんなところで自国の兵士(あるいは自分の家族)に死んでほしくない」と考えるでしょう。しかも派兵を決めるのが国連となれば、各国政府が自国の国民の理解を得ることはますます難しくなります。ですからどの国も二の足を踏んでいて、国連憲章第43条で規定されている兵力分担等を定める「特別協定」を締結した国は一つもない。機能不全状態なんです。
しかし機能不全とはいえ、「私の利益」追求がひき起こす私的暴力を放置していいのか。たとえば1990年のイラクによるクウェート侵攻がそうです。手をこまねいていればクウェート併合が既成事実とされかねない状態でした。そこで国連は、中東に利害関係を持つためにイラクの侵攻を望ましくないと考えており、かつ派兵の準備もある国を中心とした多国籍軍の編成を承認しました。それが国連憲章第7章に基づく《安保理決議678》です。軍事的強制措置とも評価できる湾岸戦争によってイラクを撤退させた事実からみれば、国連は、不十分ではあっても一定の方向づけができたといえます。ある程度は公の機能を果たしたわけです。
私はこの「ある程度の成功」を重要視しています。国連が存在すらしない状態を0点とし、国連常設軍がいつでも駆けつけられる状態を100点とします。0点から100点に一気に行くのはやはり難しいんですね。だからまずは50〜60点でよしとする。「100点満点じゃないけど、0点よりはいいでしょう」というスタンスです。現在の国際社会の状況をみれば、先はまだまだ長い。着実に点数を上げていく姿勢が大切なのではないでしょうか。

《保護する責任》という重要な発想の転換

冷戦解消後、国家間の紛争のほかに、民族・宗教紛争、政府による国民の弾圧・大量虐殺(ジェノサイド)も増えてきています。かつては特定の国家に国際社会、とりわけ国連が介入することはタブー視されていました。「国家主権の侵害である」というのがその理由です。しかし状況は進展していきます。
たとえばユーゴスラビア政府がアルバニア系民族を弾圧していたコソボ紛争では、1999年、NATO(北大西洋条約機構)が政府軍による弾圧の停止を目的に空爆を行いました。これは国連安全保障理事会(安保理)の承認という裏づけがない軍事行動です。親ユーゴ政府の常任理事国、ロシアと中国による拒否権の発動が予想されたため、NATOの独断で決行されました。安保理の承認がないので国際法の観点からは違法です。一方で「人道的観点からは正当性が高いのではないか」という声もあり、ねじれた評価となっています。ここでも問題は、ジェノサイドを前に、「国際社会は手をこまねいているしかないのか?」という点です。状況の打破に動いたのがカナダ政府でした。2000年に《干渉と国家主権に関する国際委員会(ICISS)》を設置し、「保護する責任」という概念を打ち出したのです。これは画期的な概念で、私も10年以上関心を持って動きを注視しています。
「国家主権の侵害」という文脈で使われるときの「国家主権」は、今までずっと「統治権」を意味していました。つまり権力ですね。しかし統治権としての国家主権の裏側には、自国の国民を守る責任=「保護する責任」がセットでなければならない。その責任が果たせない(果たす能力がない・果たす意志がない)のであれば、統治権のみの主張は認められない。したがって当該国の国民を守るため、国際社会は内政不干渉原則に優先して介入することができるーー。主権と責任は同じコインの裏表なのだ、というのがICISSの提唱した概念です。これは重要な転換点でした。
その後、緒方貞子さんが参加したハイレベルパネルでの報告書や当時のアナン事務総長による報告書、2005年に国連首脳会合で採択された成果文書など、いくつかの国連文書において徐々にその概念が認められつつあります。このような概念を実施に移すためにはさまざまな困難があり、予断を許しませんが、重要な転換点であることに変わりはありません。
何が重要かといえば、この概念が国際社会において支配的なものになれば、たとえば、安保理の常任理事国に圧力をかけられる点です。冷戦解消後の国際社会では、人権や民主主義が支配的な価値になり、国際組織もその正当性が鋭く問われるようになっています。先述のコソボ紛争、最近ではリビアやシリアの内戦も同様ですが、今まではロシアや中国などの拒否権発動により、国連としての制裁や強制措置を断念せざるをえませんでした。しかしそれは統治権の重視、内政不干渉原則をよりどころにして切られたカードです。「保護する責任」を果たしているか?という観点が加われば、ユーゴスラビアもリビアもシリアも果たしているとはいえません。にもかかわらず安保理決議が採択されず、手をこまねいていれば、「安保理は何をしているのか」という圧力になりえます。一決議にとどまらず、正当性の観点から安保理自体の存在意義すら問われるでしょう。存在し続けるためには、平時から各国の情勢をしっかり意識して、弾圧・虐殺が起こらないように未然に処理できる体制を整えるしかない。国連常設軍の創設が難しい現状においてもっとも重要な概念として、私は今後の動向に注目しています。

国際法への貢献は日本にとってメリット

最後に、国際法は私たちの暮らしにとってあまり縁がないものかどうか、吟味してみましょう。結論を急げば、そのようなことはないのです。たとえば日本は数多くの人権条約の当事国となっており、国内での実施状況につき提出した報告書に対して条約上の機関が下した批判的な評価がしばしば新聞にも載ります。京都議定書などの地球環境保護の条約は企業などにも大きな影響を与えます。世界貿易機関(WTO)のパネルの裁定も同様です。このように、人権のほかにも経済、環境に関する数多くの条約が締結され、日本国内に浸透することで、国際法とのかかわりはむしろ深まっているのです。
そもそも国際法は、立法機関が「上から目線」で制定した国内法と違って、国と国の間で決めて運用していきます。1998年の国際刑事裁判所(ICC)設立のためのローマ規程採択において外務省が尽力したように、日本には国際法の発展に寄与する能力と余地が十分にあります。
18〜19世紀に欧米主導で発展した国際法は、欧米各国に有形・無形の利益をもたらしました。21世紀以降の国際法で日本が主導権を握る領域が広がれば、日本にとって確実にプラスに作用します。その認識が広まれば、国際法はさらに身近なものになるでしょうね。(談)

(2012年10月 掲載)