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令和6年度 大学院学位記授与式 式辞

令和7年3月18日
一橋大学長 中野 聡

 皆さん、大学院学位授与・卒業おめでとうございます。

 大学院学位を授与される皆さんのご両親、ご家族、ご親族そして関わりの深い方々にも、教職員一同とともにお祝いを申し上げます。

 ここに集う皆さんが取得した学位は、修士、専門職学位、博士と多様であり、またその専攻する学問領域も多方面に渡っています。キャンパスも国立、千代田と分かれていて、今日まで顔を合わせたこともなかった皆さんも多いことでしょう。学位取得までの期間も課程により人により様々であって、1年で修了する皆さんもいれば、長い時間をかけて博士学位を取得した皆さんもいます。そして一橋大学では、世界各国の皆さんが学び、研究しています。このように文字通り多様な皆さんですが、一橋で、そして大学院生として、多くの経験を共有してきたのではないかと思います。

 晴れて兼松講堂で学位授与の日を迎えるまでには、色々な悩みごとを抱えたり、焦りを感じたり、家事・育児などとのワーク・ライフ・バランスの危機に直面した方々も居たことでしょう。皆さんの学位取得を応援してきたご家族など周りの皆さまも含めて、あらためて、お疲れさまです、と申し上げたいと思います。

 さて、本年、一橋大学は創立150周年を迎えます。そして2年前の2023年4月に発足したソーシャル・データサイエンス研究科が、初めて修士号を皆さんに授与するという意味でも、記念すべき学位授与式です。来たる4月には同研究科に博士後期課程が設置されます。社会科学とデータサイエンスの融合による新領域創成をめざすソーシャル・データサイエンス研究科・学部には、すでに本学の研究科・学部・研究所との間で生まれている素晴らしいケミストリーを、これからますます発展させていくことに心から期待したいと思います。

 一橋大学のミッション・ステートメントである研究教育憲章は、自らを「市民社会の学である社会科学の総合大学」と名乗っています。これは、最も広い意味において、現実の社会をある種の冷静さを基礎として見るという意味での科学的な姿勢と、社会の改善に向けた志を示した名乗りと考えて下さい。またそれが、社会科学とともにきわめて高い研究教育水準を誇る人文科学や、これからの一橋を共に担うソーシャル・データサイエンスをはじめとする文理融合領域をも包含するステートメントであることは言うまでもありません。

 そのような立場から見逃すことができない状況が、いま世界を覆いつつあります。とりわけ政権交代後のアメリカからは、毎日のように驚天動地のニュースが発せられています。そのなかで、鳴り響く貿易戦争の号砲ほどには注目されていませんが、科学、大学、対外援助・国際交流等に対する連邦資金提供の停止・削減や大学基金への課税強化の検討といったニュースも相次いでいます。

 これらのニュースには、改めてこれまでいかに巨額の資金がアメリカの高等教育や研究開発に投じられていたかを再認識させられる一方、これらの措置がそのまま実施されれば、大鉈を振るうというような生やさしい言葉では到底済まないような破壊的な影響を、まずはアメリカの高等教育や研究開発に、さらにはグローバル・ヘルスや国際学術交流などを通じて世界各国にも及ぼすことが懸念されます。

 このようにアカデミアに深刻な影響を及ぼしつつあるアメリカの例をはじめとして、世界各国で極端な結果につながりかねない政治的選択が行われたり、その可能性が高まったりしています。その背景として、グローバリゼーションに対する反動や、移民問題・多様性をめぐる民意の分裂、経済的格差や社会的分断の深まりなどと共に、SNSにおける偽情報や陰謀論の氾濫が指摘されていることは言うまでもありません。

 私は、偽情報や陰謀論の氾濫と、ある意味でコインの裏表のような関係にある要素として、「この世界の複雑さ」に対する忍耐を人々が失いつつあり、そのなかで専門家やキャリア官僚が敵視されがちな空気が醸成されていることが見逃せないのではないかと考えています。そして、もしこの私の見方が正しいのだとすれば、私たち専門家・アカデミアこそが忍耐を失わずに、「この世界の複雑さ」を考究し続けるとともに、その研究成果を社会に正しく「伝える努力」を怠ってはいけないと思うのです。

 社会科学の総合大学である一橋大学において、専門職学位にせよ、修士・博士にせよ、皆さんはそれぞれの領域において複雑系(コンプレクス・システム)を学び研究してきたと言えるでしょう。学びや研究が高度化すればするほど、その対象は、人々に、あるいはアカデミアでも専門外には容易に捉えられない内容となるはずです。だからといって私たちは、研究をより一層高度化していく営みを止めることはできないし、その成果を人々に「伝える努力」を怠ることもできないのです。

 そして、私たちの「伝える努力」のまわりには思いがけない罠や誘惑があることも忘れるわけにはいきません。「世界の複雑さ」を分かりやすく人々に伝えようとしているうちに、いつの間にか、複雑な世界を単純化して分断や対立を深める営みに加担してしまう危険が、専門家が社会と関わっていくなかではしばしば生じます。オールド・メディアにも、SNSにも、いつの間にかその罠にかかってしまった姿を見ることが少なくありません。

 この問題に正解はありません。これから高度職業人、専門家として、あるいはアカデミアとしての道を歩んでいくなかで、ひとりひとりが、しっかりと足元を見ながら、「この世界の複雑さ」を考え続け、忍耐と敬意をもって人々に「伝える努力」を続けていただきたいと願っています。

 そして皆さんが、それぞれの世界で、思いきり活躍することによって、皆さんのような人材、社会科学・人文科学・文理融合科学の高度な学識と深い教養を備えたスペシャリストが、この日本と世界には、もっとたくさん必要だ、そのようなコンセンサスを、アカデミアの外の世界に、ぜひ広めて下さい。そしてそのためにも、皆さんが各自の専門性をいっそう深めると同時に、他の分野にも関心を拡げ、仕事で、研究で、様々なコラボレーションを拡げて下さい。

 気候変動による災害の激甚化、生成AIがもたらした衝撃、量子コンピュータ開発の加速、人口減少社会など、二一世紀の日本と世界が直面する諸課題は、そのいずれもが、これまでになかったような異分野諸科学・諸領域の融合によるイノベーションを求めています。皆さんには、是非、自らの専門領域のコンフォート・ゾーンから出て、知見を広げると共に、異分野の様々な人々とネットワーキングして、社会科学・人文科学・文理融合科学の力を見せていくことをお願いしたいと思います。

 皆さんのこれからの進路はまさに多様です。コロナ禍がそうであったように、これからも、戦争、災害、気候変動、政治の激動など、予想のつかない出来事が、世界の現実が、皆さんひとりひとりのこれからの歩みに大きな影響を与えていくことでしょう。活躍する場はそれぞれですが、皆さんがこれから関わっていく社会、企業、国家などとの関係で自らを厳しく問われる局面も訪れるかもしれません。そのようなときに、国立キャンパスで、千代田キャンパスで自らのものとした学問が、必ずや皆さんを支えることを願っています。

 そして、どの分野に進んでも、また世界の何処に居ても、皆さんは、一橋コミュニティの一員であり続けることを忘れないで欲しいと思います。建学以来、本学の名声の基となってきたのは、本学が生み出してきた人材に対する高い評価と期待です。皆さんが拡げていくネットワークに大いに期待しています。そして活躍する皆さんが本学を再訪するときを、国立キャンパスで、千代田キャンパスで私たちは待っています。

 皆さん、あらためて学位取得・卒業おめでとうございます。ご静聴ありがとうございました。




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