プリント

令和4年度 大学院学位記授与式 式辞

令和5年3月17日
一橋大学長 中野 聡

皆さん、大学院学位授与・卒業おめでとうございます。

大学院学位を授与される皆さんのご両親、ご家族、ご親族そして関わりの深い方々にも、教職員一同とともにお祝いを申し上げます。

今年は4年ぶりに、大学院卒業生の皆さんのご両親・ご家族にも国立キャンパスの杜にお出でいただき、兼松講堂の二階席にもお入りいただくことができました。未だ予断を許さぬとはいえ、コロナウイルス感染症2019の長いトンネルからの出口に向けて社会が歩みを進めるなか、皆さんと、この兼松講堂で卒業式を行えることを、心から喜びたいと思います。

ここに集っている皆さんが取得した学位は、修士・専門職学位・博士と多様であり、またその専攻する学問領域も社会科学・人文科学の多方面に渡っています。皆さんが主に学んだ場所・空間も、国立キャンパス、千代田キャンパスと分かれていて、今日まで顔を合わせたこともなかった皆さんも多いことでしょう。学位取得までの期間も課程により人により様々であって、一年で修了する皆さんもいれば、長い時間をかけて博士学位を取得した皆さんもいます。そして日本でもっともグローバル化した大学院のひとつである一橋大学では、世界各国の皆さんが学び、研究しています。

このように文字通り多様な皆さんに対して、一橋大学を代表して申し上げたいこととして、昨年は、ロシア連邦によるウクライナに対する侵略戦争に関してお話をしました。ここでは繰り返しませんが、まったく同じことを述べなければならない現状であることは大変に残念です。

そして多様な皆さんであるからこそ、共に考えて欲しい課題が、もちろん、まだたくさんあります。なかでも地球環境の将来は、誰も避けて通れない問題でしょう。このことに関連して、本日、皆さんを送り出すにあたって、是非共有しておきたい問題があります。グレート・アクセラレーション、大加速という言葉をめぐる問題です。

1987年に発足し、2015年まで約30年間にわたって継続した、「地球圏・生物圏国際共同研究計画」略して「IGBP」という国際共同研究プログラムがあります。地球環境問題に対する大きな危機感を背景にして、自然科学者コミュニティを幅広くモビライズすることに成功し、70カ国1万人を超える研究者が参加して、地球環境の変動を学際的に探究する地球システム科学の成立と発展に大きく寄与しました。グレート・アクセラレーションとは、彼らの議論が進む中で語られるようになった概念あるいは歴史認識を表す言葉です。

今日の地球環境問題は、その原点はもちろん18世紀後半にイギリスで始まった産業革命に遡ります。工業化と経済成長、人口の増加がもたらす人間活動(ヒューマン・アクティヴィティーズ)の加速はここから始まりました。ただ、それが地球環境に直ちに影響を与え始めたわけではありません。

IGBPは、人間活動を示す12の指標を選んで、その総和(サムネーション)を縦軸に、1750年を原点とする時間軸を横軸にとったグラフを作成しています。20世紀前半までは、曲線は確かに右肩上がりではありますが、その増加速度は緩慢です。これに対して、20世紀後半は、あらゆる指標が指数関数的上昇を示します。これらの急激な上昇曲線を指して、彼らはグレート・アクセラレーションと呼んだのです。IGBPはさらに大気・海洋・地表の状態などについても、12の指標を選んで人間活動と同様のグラフを作成しています。これらも、大気中CO2濃度をはじめとして、やはり20世紀後半から地球環境の破壊と危機を示す方向に雪崩を打ったように不可逆的な変化が生じてきたというのが、地球システムをめぐる科学者コミュニティの認識です。2004年、彼らはこう述べています。

「20世紀後半は、人類が地球上に存在した歴史の中でも特異な時代である。多くの人間の活動が二〇世紀のある時期にテイクオフし、世紀末に向けて急加速してきた。過去50年間は、間違いなく、人類史上最も急速に自然界と人間の関係が変化した時期なのである。」

「グレート・アクセラレ―ション・グラフ」で画像検索すれば、一目で彼らの問題提起が理解できますので、是非ご覧下さい。なお、2015年、IGBPはその活動を締めくくり、後継プロジェクトであるフューチャー・アースに移行しました。その際、2010年までアップデートしたグラフとデータを公開しています。ほとんどの指標において「大加速」が継続していることが、それらのグラフには示されています。

皆さんにこれ以上、地球環境問題を語るのは釈迦に説法でしょうから止めておきます。ここでその意味を考えたいのは、彼らが「グレート・アクセラレーション・大加速」という言葉を使った意味です。興味深いことにその呼称はカール・ポランニー1944年の著書『グレート・トランスフォーメーション・大転換』へのオマージュなのです。

彼らは次のように語っています──『大転換』でポランニーは、市場経済が近年の構築であると共に、経済学は社会的文脈を見落としてはならず、経済を社会の伝統・習俗・知的習慣に埋め込まれた存在として捉える必要性を主張している。全く同様に、人為的な地球規模の生態学的変化の背後にある駆動力もまた、社会とその伝統に埋め込まれており、人類の全歴史は生物地球環境の展開に埋め込まれている。このような認識から、『大転換』を念頭において「大加速」の呼称が提唱されたというのです。

私は「大加速」が『大転換』へのオマージュだとすれば、その含意は右の指摘に留まらないと思います。よく知られているように、ポランニーの『大転換』は、19世紀ヨーロッパにおいて生成・発展した自由市場経済が金本位制と共に世界を覆うに至ったとしたうえで、その行き過ぎや自動調整機能の限界に対して、20世紀前半に社会が自らを防衛するために自己調整的市場原理を放棄した一連の結果として、政治体制としての社会主義・ニューディール・ファシズムを捉えることができるという世界史認識を示しました。

そのうえでポランニーは、来るべき「複合社会」においては、社会の統治権力が市場の行き過ぎを規制・管理する強制力を持つべきだと主張します。そしてそのような権力・強制と──市場経済自由主義と結びつけて理解されがちな──市民的自由との両立が課題であるとして、予想される自由主義者からの批判に応答しています。

「大加速」論もまた、その根底にある問題関心は、地球環境を圧倒する存在となった人間活動の過熱と専横を管理・制御する必要性であり、地球環境と共存する持続可能な発展を可能にするような「地球システム・ガバナンス」の構築です。そこではポランニーが「複合社会」で語るように、一定の強制力や、権利と自由の制限が問題とならざるを得ません。それが民主主義体制と両立し得るのかが問われています。

欧米・日本の資本主義諸国が第二次世界大戦後に等しく採用したいわゆる修正資本主義的な政策、言い換えれば高度化された市場経済の社会的マネジメントが、これら諸国において「複合社会」を現実のものとしてきたという指摘もできるでしょう。しかし、果たして地球システム・ガバナンスにおいて同じようなコンセンサスを形成し得るでしょうか。この問いは、各国の政治においても、国際関係においても、極めてチャレンジングな課題であり続けています。

以上に述べた意味において、まさに「グレート・アクセラレーション」は「グレート・トランスフォーメーション」へのオマージュであると言えるでしょう。そしてこのような問題こそ、立場や目指すものが異なる諸君が、学問の自由と安全が守られた環境のもとで意見を戦わせ、互いを鍛え、対話の質を高めていくべき課題であると思い、ここに紹介させていただいた次第です

皆さんのこれからの進路はまさに多様です。そして、コロナ禍、戦争、気候変動など、世界の現実は皆さんひとりひとりのこれからの歩みに大きな影響を与えていくことでしょう。活躍する場はそれぞれですが、皆さんがこれから関わっていく社会、企業、国家などとの関係で自らを厳しく問われる局面も訪れるかもしれません。そのようなときに、国立キャンパスで、千代田キャンパスで自らのものとした学問が、必ずや皆さんを支えることを願っています。

そして、どの分野に進んでも、また世界の何処に居ても、皆さんは、一橋コミュニティの一員であり続けることを忘れないで欲しいと思います。建学以来、本学の名声の基となってきたのは、本学が生み出してきた人材に対する高い評価と期待です。皆さんが拡げていくネットワークに大いに期待しています。そして活躍する皆さんが本学を再訪するときを、国立キャンパスで、千代田キャンパスで私たちは待っています。

皆さん、あらためて学位取得・卒業おめでとうございます。ご清聴ありがとうございました。

参考
International Geosphere-Biosphere Programme (2015) “Great Acceleration.”
http://www.igbp.net/globalchange/greatacceleration.4.1b8ae20512db692f2a680001630.html Retrieved: 17 March 2023.
Steffen, Will, et.al. (2004) Global Change and the Earth System: A Planet under Pressure. Springer.
Steffen, Will, et.al. (2015) “The trajectory of the Anthropocene: The Great Acceleration”. The Anthropocene Review, Volume 2, No.1. DOI: 10.1177/2053019614564785
ポランニー、カール著、野口健彦・栖原学訳(2009)『大転換──市場社会の形成と崩壊』東洋経済新報社。



Share On