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令和4年度 学部入学式 式辞

令和4年4月3日
一橋大学長 中野 聡

新入生の皆さん、一橋大学入学おめでとうございます。また、ご両親、ご家族、ご親族そして関わりの深い方々にも、教職員一同とともにお慶び申し上げます。

皆さんは、コロナ禍での高校生活や受験勉強、そしてオミクロン株の流行により大きな影響を受けた今年の入試など、さまざまの困難を良く乗り越え、今日こうして満開の桜の祝福を受けて新たな一歩を踏み出そうとしています。  

一方でコロナ禍は続いており、この入学式も二回に分けて行っています。皆さんのご家族が、この美しいキャンパスにお入りいただけないことも大変に残念です。また、様々の事情から望んでもこの式に参加できない皆さんがいます。ライブ配信を通じて、できるだけ多くの方がこの場を共有していただけていることを願っています。

経済格差や社会的分断の深刻化、地球環境・気候変動問題、さらにはパンデミックなど、二一世紀の世界は、人類の未来に不安を感じさせる状況に囲まれています。そのような現在だからこそ、社会が抱える課題解決の担い手としてやがてこの一橋から巣立つことが期待されている皆さんには、学部学生としてのキャンパス・ライフを心から楽しんで欲しいと思います。そして、皆さんが安心して学び、生活を送れるように、私たち教職員一同、全力を尽くします。そのような私の思いをいっそう強めたのが、国立大学前期日程試験を目前に控えた二月二四日にウクライナで始まった戦争でした。

ロシア連邦によるウクライナに対する侵略は、国際関係における武力による威嚇又は武力の行使を禁じる国連憲章に明確に違反する行為であり、決して許されてはなりません。ヨーロッパの歴史では第二次世界大戦以来となる大規模な地上戦によって、多くの非戦闘員・市民が犠牲となっており、すでに四百万人に達する難民が国外に脱出し、人道危機が深まっています。ウクライナの戦争は、いま、直ちに停止されなければなりません。

連日の報道を通じて今までになく戦争を身近に感じた人、まだまだ遠い世界の出来事のように感じている人、皆さんの思いも様々でしょう。しかし、皆さんが大学生、とりわけ一橋大学生となった現在、ウクライナの戦争はもちろんのこと、アフガニスタンやミャンマーにおける人権・人道上の危機など、次々と国際社会を襲う紛争や対立は、もはや決して他人事では済まされません。なぜなら大学は、とりわけ一橋大学は、そこに世界があり、また世界とつながっているからです。

日本の大学はウクライナ、ロシア、アフガニスタンやミャンマーをはじめ、紛争や対立を抱える世界の各地域から多くの留学生・研究者とその家族を受け入れています。もっともグローバル化した国立大学のひとつであり、社会科学における世界最高水準の教育研究拠点を目指す一橋大学も、その例外ではありません。これまでにも一橋大学には、国や体制の違いなどで立場や背景の異なる学生諸君が学び舎をひとつに学業に励んできました。国際人流が激減したコロナ禍の昨年度においてさえ、一橋大学には、学部二〇四名、大学院五三八名、あわせて七四二名の留学生が学びました。全学生の一一%余りになります。

皆さんの中には、このようにグローバルな環境で学ぶのは初めてだという方もいるでしょう。そのような皆さんにまず心に銘じて欲しいのは、大学とは、立場や背景が異なり、あるいは学びを進めるなかで多様な見方を育んだ諸君が、臆することなく、また安全に、議論を交わせる場でなければならないということです。そして、「学問の自由」の名の下に行われる議論は、勝敗を決したり異論の拒絶に終わったりするのではなく、不同意に同意し、互いを気遣い、互いのより良い未来を願い、互いを高め合うものであるべきです。

そのような対話を通じて、また学友として卓越した素晴らしいコミュニティの経験を共有することによって、多様な背景をもつ学生同士の間で培われていく友情は、長い目で見た平和の創造に大きく貢献してきたし、これからも貢献していくと、私たちは自負しています。一橋大学は、あらゆる分断をのりこえて、平和を創造する学術コミュニティであり続けなければなりません。

一橋大学が平和を愛するというとき、決してそれは月並みな決まり文句ではありません。一橋大学の起源は、一八七五年、のちに初代文部大臣となる森有礼が、当初は私塾、私設の学校として銀座尾張町に開いた商法講習所に遡ります。このとき、勝海舟とならんで建学を支援し、終生を通じて本学の発展に尽力したのが、日本資本主義の父とも呼ばれ、昨年の大河ドラマ主人公ともなり話題となった渋沢栄一でした。渋沢は、晩年まで毎年のように本学に足を運んで卒業式などで講演を行い、また多数の講演・著書を通じて、自らの思いを社会に説き続けました。

本学の後見人として渋沢が一貫して説き続けたのは、近代日本建設のためには、武士を頂点とする江戸時代の身分意識を引きずる官尊民卑の気風を克服して、商業・経済の担い手である民間人を、倫理観に基づく全人的素養を兼ね備えた誇り高い指導的人材として育成することの必要性でした。その熱意が実って本学は、一九二〇年、官立大学に昇格して、一橋大学の直接の前身である東京商科大学が発足したのです。

ちょうど同じ一九二〇年、渋沢は、第一次世界大戦の反省から生まれた国際連盟を支援するために、同志と共に日本国際連盟協会を創立して、その会長に就任しました。「戦前最大の平和運動」として今日評価されているものです。その会長講演で、渋沢は、当時としては大変に思い切った平和論を展開し、悪化する日米関係と日中関係に心を痛め、軍備が過半を占めていた当時の国家予算を批判して、「経済戦」という言葉についても、「経済は戦争とは全く違う、経済とは相互に利する譯のもので、戦争によって双方が利することは絶対にあり得ぬ、この言葉は間違っております」と断じています。このような議論には、渋沢自らが青年期を送った幕末維新の時代に、戊辰戦争や西南戦争などを通じて、親族・親友を含めて多くの有為の人々を戦争で喪った体験が影響を与えているのではないかと私は感じています。

渋沢の願いも空しく、一九三一年、渋沢が満九一歳でその生涯を終えた直後に始まった満州事変から、日本は長い戦争の時代に入りました。本学からも多くの卒業生が出征しました。国立西キャンパスの南に隣接する一橋大学佐野書院には、如水会会員をはじめとする卒業生の篤志により二〇〇〇年に建立された「戦没学友の碑」があり、昭和の戦争により亡くなった卒業生八一七人の名前が刻まれています。(註 式後、一橋いしぶみの会より、毎年新しく判明した戦没学友を加え、現在記名碑には八三六人の名前が刻まれているとご教示いただきました)国立大学のなかでも本学は文系に特化していたことから、軍隊入隊者の比率は、他の理系・医学系をもつ大学の場合が三割台に留まったのに対して、約八割と抜群に高く、それだけ多くの戦没者を出さざるを得なかったこともつけ加えておきたいと思います。

戦後、戦争から生還した卒業生は、恐らくは渋沢とも共通する、喪われた命に対する思いや平和への願いに駆り立てられて、戦後日本の復興と成長に大きな役割を果たしてきました。このように平和を愛する一橋大学の歴史は、建学の恩人である渋沢栄一から、戦争の時代、戦後、二一世紀へと刻まれてきたのです。

そして、その歴史を通じて、本学が生み出す人材に対する高い評価と期待こそが、本学の名声の基となってきました。その意味では、先輩卒業生こそは皆さんにとっての最高のロール・モデルです。本年は、素晴らしい先輩卒業生二人からメッセージをいただくことができました。ご期待ください。

最後になりますが、新入生の皆さんには是非、教えておかなければいけないことがあります。私たち教職員一同とともに、この国立キャンパスでは、たくさんの神獣(人によっては、妖怪とも呼ぶかもしれない不思議動物たち)が、皆さんの学生生活を見守ってくれています。もう気がついていますか?あたりを見回してみてください。この兼松講堂ホールの中だけでも、すぐには数えきれない数の不思議動物たちが、皆さんを見守っています。

これらは、九五年前に落成したこの兼松講堂を設計し、キャンパス全体の設計・建築にも関わった日本建築界の巨匠・伊東忠太が、建物と共にデザインしたものです。伊東の他の作品たとえば築地本願寺などにもありますが、一橋大学は、伊東の作の中でも、また明治以後に日本で作られたいわゆる西洋館の中でも、空想動物の種類の豊富さではこれにまさるものはないと言われているのです。兼松講堂を出たら、今度は是非キャンパスをめぐって伊東忠太の不思議動物めぐりを楽しんで下さい。私も毎日キャンパスを歩きながら、これら空想動物たちが、皆さんが学生生活を安心して過ごせるように、結界を張りめぐらして守ってくれているのだと想像しています。

皆さん、あらためて入学おめでとうございます。これからの充実した学生生活を通じて、次代の担い手に君たちが成長していくことを、心から期待しています。

ご清聴ありがとうございました。

参考(参照順)
橘川武郎・島田昌和・田中一弘編著『渋沢栄一と人づくり(一橋大学日本企業センター研究叢書5)』有斐閣、二〇一三年。
岩本聖光「日本国際連盟協会~三〇年代における国際協調主義の展開~」『立命館大学人文科学研究所紀要』八五号、二〇〇五年。
渋沢栄一「人類の平和と将来(国際連盟協会に於ける演説)」渋沢栄一著、蘆川忠雄編『青淵実業講話』大日本図書、一九二三年。
伊東忠太・藤森昭信・増田彰久『伊東忠太動物園』筑摩書房、一九九五年。



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