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平成27年度学部卒業式における式辞

2016年3月18日
一橋大学長 蓼沼宏一

 卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。また、ご臨席賜りました卒業生のご両親などご家族の方々にも、ご来賓の皆様及び教職員一同とともに心よりお祝い申し上げます。
 皆さんがこの卒業の日を晴れて迎えられたのは、何よりも皆さん自身の努力と研鑽の賜物ですが、ご家族など身近な方々の支え、指導教員や友人からの助言や励ましもなくてはならないものであったことでしょう。さらに、一橋大学が長年にわたり蓄積してきた優れた教育研究環境、本学の諸先輩が築かれてきた伝統、同窓会組織である如水会から受けた恩恵、そして、自由に勉学に打ち込むことを可能にしてくれた社会のサポートにも思いを至らせていただきたいと思います。
 本日、卒業する皆さんに、まず、これからの人生が実り豊かなものであるよう、お祈りいたします。一橋大学を巣立つ皆さん一人ひとりが、それぞれの道で、自ら豊かな人生設計をされ、それを実現されることを心から願っています。

 さて、今年は、東日本大震災から5周年を迎えました。未曾有の大災害で被災され、今なお大変なご苦労をされている方々がいらっしゃることには、心が痛みます。しかし、この5年の間にも、様々な災害や争いが起こり、数多のニュースが次々重なる中で、大震災の記憶も、深刻な諸問題も風化し、忘れてはならない教訓までも置き去りになってしまいかねない時代です。また、日本経済に目を向ければ、バブル崩壊後の1990年代以降、長期停滞からなかなか抜け出せない状態が続き、近年やや良い兆候は見られるものの、不安定な状態に変わりはありません。少子高齢化の進行は止まらず、医療・介護と社会保障は最大の社会経済問題になっています。世界では、経済の急速な自由化とともに、グローバル化が社会のあらゆる面に及び、社会の実相は大きく変化しようとしています。所得と富の格差は拡大し、その中で政治的、経済的、あるいは思想的な対立の溝は埋まることがありません。
 これらの日本および世界の諸問題の解決に向けて貢献することは、「真の実学」、すなわち社会に実りをもたらす学問としての社会科学の使命であるとともに、今日、社会科学の研究総合大学である一橋大学を卒業する皆さんの責務でもあります。若い皆さんは、次の時代を担う立場にあります。大きな転換点を迎えている世界に漕ぎ出し、ぜひ、社会の改善に貢献する働きをしてほしいと思います。
 一橋大学研究教育憲章は、本学のミッションを「日本及び世界の自由で平和な政治経済社会の構築に資する知的、文化的資産を創造し、その指導的担い手を育成すること」と掲げています。商法講習所として出発した本学は、伝統的にCaptains of Industryの養成を掲げてきましたが、Captains of Industryとは、単に実業を切り盛りするだけではなく、実業を通して「日本及び世界の自由で平和な政治経済社会の構築に資する」リーダーでなければなりません。Captain――船長――とは、世界の荒海の中で未知の問題に直面しても、自分の船の特徴を知り、周囲の状況を的確に把握し、進路を見出していく者です。そのCaptainのスピリットは、企業経営や経済に限られるものではなく、法、政治、社会、学術などのあらゆる分野に生かされるべきものです。
 日本および世界の諸問題の解決には、社会科学の英知が不可欠です。私は、社会科学を学んだ皆さんの中から、諸問題の解決に貢献するリーダーが生まれることを大いに期待しています。
 しかし、社会改善への貢献とは、リーダーとなることだけを意味するものではありません。社会の諸問題の解決は、政治家、官僚、経営者、あるいは学者等の立場にある人だけが取り組めばよいというものではないのです。一人ひとりの市民が問題に関心を持ち、解決への道筋を考え、他者との関わりの中で議論を経て、社会的価値判断が形成されてこそ、社会はより良い方向へと動き出すのです。
 社会とは人間の集合体です。人にとって、社会とは自然と同様に客観的な観察対象であるとともに、自分自身がその構成員であるという二重の構造を有しています。社会における選択は、結局は個人による選択の集積に他なりません。社会経済システムは、長い歴史の中で人々の相互作用を通して生成されてきたという進化的な側面と、社会を構成する人々の選択によって改変可能であるという社会選択的な側面の両方を備えています。自然界と異なり、社会は人間自身が構成要素であるが故に、ときには社会的選択による大きな変革も可能なのです。
 社会科学を学び、変化の激しい時代に生きていく皆さんには、社会的な選択の場において的確な判断を下し、社会を正しい方向に導いていってほしいと望みます。そのためには、理論と実証に基づく冷静な現状認識と優れた規範的判断の双方が必要です。

 皆さんは、一橋大学の伝統である少人数ゼミナールなどで、専門分野を深く学び、社会科学的思考の修練を積んできたことと思います。どの学問分野も、混沌とした現実の問題を把握し、概念化し、論理的思考によって問題の解を見出すための方法・フレームワークを作り出してきました。専門分野を勉強する目的の一つは、知識を豊かにすることですが、それ以上に、汎用性の高い思考方法を習得することが重要なのです。皆さんは専門分野の勉学を通して得られた思考の方法とフレームワークを、これから大いに活かしていってほしいと思います。
 よりよい社会を築いていくためには、問題を客観的に把握し、論理的かつ実証的に分析するだけでは十分ではありません。優れた道徳感覚をもって、何が社会的に望ましいかという最終的な判断をしていかなければなりません。何が社会的に望ましいかという判断を行うためには、その判断の拠って立つ基本的視座を確立していかなければなりません。それには、社会とは何か、ひとの幸せとは何か、といった根源的な問いにまで戻る必要があります。
 社会は一人ひとりの人間から構成されているのですから、ひとの福祉、すなわち幸せを高めるものが社会的にも望ましいと言えます。では、ひとの福祉の水準は何によって測るべきでしょうか。
 私たちは日々、働いてお金を得、それによってモノやサービスを購入して消費し、ある水準の充足感を得ています。経済学は、モノやサービスの取引量に注目するとともに、長く功利主義を基礎として、ひとの福祉は各人の効用、つまり欲望の充足によって測られると考えてきました。これに対して、ノーベル賞を受賞した経済学者であり、哲学者でもあるアマルティア・センは、ひとの福祉の水準をお金やモノ・サービスの量で測ることにも、また個人の欲望充足によって測ることに対しても強い批判を展開しました。彼はまず、功利主義に対しては、欲望の強さはその人のおかれた現実的状況に依存することを指摘します。たとえば、豊かな先進国で相対的には裕福ではないが、必要な生活の質は維持している人の欲望充足感のほうが、貧困国でわずかに恵まれた立場にある人よりも低いということがあり得ます。これでは、それぞれの人の客観的状態を見誤ることになるとセンは批判するのです。
 一方、センはモノやサービスの量でも人の福祉水準は適切に測れないと主張します。同じモノやサービスを得ても、それぞれの個人の属性や社会的環境によって、その人が実際に達成し得ること、あるいは状態は異なります。たとえば、栄養摂取力の弱い人は、同じ食べ物からも低いレベルの栄養しか摂ることはできません。また、社会的慣習によっては、実際に身に付けることのできる衣服が制限されることもあるでしょう。
 センは、それぞれの人が実際に行い得ること、成り得ることを「機能(functionings)」とよび、ひとの福祉は機能のレベルによって測られなければならないと主張しました。さらに、センのいう機能の中には、自由であること、コミュニティの中で尊重されていることなども重要な要素として含まれています。
 センの「機能」の考え方は、私たちが様々な状況において社会的選択を行っていく上で、重要な視座を与えるものです。たとえば、東日本大震災後の5年間にわたり投入された巨額の復興資金は、人々の実際に行い得ることの改善やコミュニティの復活などのために真に効果的に使われてきたか、費用対効果も含めて冷静に検証される必要があります。また、世界における貧困の問題の解決は、単に資金を援助するだけでは不十分であり、生活インフラや医療、教育といった、人々の機能水準の向上に結び付く施策が総合的に為されなければならないのです。
 一方、社会的決定は常に資源の制約の下でなされなければなりません。限られた成果を分け合わなければならない状況では、すべての人の福祉を同時に向上させることは不可能であり、人々の間に利害の対立が生じます。それぞれの人が個別の利害を主張し合う中からは、対立を乗り越えて社会的解決に導く道は開かれません。利害対立の状況を解決し得る規範は正義です。正義に適う分配のルールとは何か。私たちは自分の利害や現実的状況から一旦離れて、可能な限り普遍的な立場で思考し、他者との議論の中で、場合によっては自らの判断を修正していく柔軟性も求められます。
 ジョン・スチュアート・ミルは、『自由論』の中で次のように述べています。

人は議論と経験によって自らの誤りを正すことができる。経験のみで正されるわけではない。議論がなくてはならない。それによって経験をいかに解釈すべきかが示される。誤った意見や行動は、事実と議論によって徐々に改められていく。しかし、事実と議論ははっきりと示されない限り、人の心に何の効果も及ぼさない。事実のうち、それを見ただけで意味が分かるものはほとんどない。その意味を明らかにするには、解説が必要なのである。

 ミルの語る「事実の意味」を得るにあたり、現代においては、インターネットなどの情報伝達手段が格段に進み、情報が溢れかえって混乱し、事実を見出せないという問題が起きています。どの情報も事実の一面を切り取って解釈したものに過ぎず、情報の荒波の中で、逆に真の事実が見えにくくなっています。様々なメディアやネットという表に出た情報の裏に、たくさんの事実があることを知らなければなりませんが、それは大変な困難と労力を要します。私たちが真の事実を知るためには、個の能力を超えて、他者との議論が必要です。次の時代を担う皆さんは、冷静な現状認識と普遍的な規範的判断という視座に立ちつつ、相互尊重に基づく他者との関わりの中で、説明と議論を経て真の事実を見出し、対立の超克へと導くことに貢献してほしいと思います。

 本学の卒業生の皆さんは、大学での勉学をもとに社会へ出て、あるいは研究を続け、これからいろいろな経験を積もうという意欲を持っている人が多いと感じます。その卒業生にとって、一橋大学は「港」のような存在でありたいと私は考えています。さまざまな社会経験を経て、多くの課題に気づく時、現場での知識や経験のみでは切り抜けられず、正しい判断をするために基礎となる学問が生きてくることもあるでしょう。そして再び学び思考を深めたいと考えた時、思う存分学ぶことができる、そのような場を大学は提供し続けていきたいと思います。そして大学は、基礎的研究が机上で孤立したものではなく、世の中で抱えている課題を背負った時に生かされるよう、努めていくべきです。
 ですから私たちもまた、社会に出た卒業生が、それぞれの現場で見出した問題意識を再び大学に投げかけてくれることを期待しています。学問にゴールはありません。学問とは、事実を把握するために人間が作り出した思考の枠組であり、それは常に新しい経験に晒されることによってプラッシュアップされていかなければならないものなのです。
 大学は、社会をよりよくするための知的資産を創造する場です。経験と理論がぶつかり合う中から、新たな知が生まれてきます。その創造のプロセスを、これからも共に歩もうではありませんか。

 皆さんは、それぞれの選んだ職に就いていきます。何よりも自分が自分らしくあり、社会で生き生きと活躍の場を与えられることほど、幸せなことはないでしょう。しかし、はじめから理想や夢を掲げ、それを実現できたと思える人は、ごく稀です。「随処に主となる」、すなわち、どのような場にあっても日々の職務を主体的に、かつ誠実に実行するなかで、徐々に天から自分に与えられた使命が何であるかが見えてくるものなのではないでしょうか。
 最後に、『論語』の中の次の言葉を贈ります。

仁者は憂えず、知者は惑わず、勇者は懼れず。

皆さんは、これからあらゆる分野で世界という広い海に漕ぎ出していきます。その前途は洋々としていますが、ときとして困難もあることでしょう。しかし、徒に憂えず、己の「知」を駆使して、懼れることなく道を切り開いていってください。
 そのエールを送り、私からの餞の言葉とさせていただきます。



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