一橋教員の本

ヘイトスピーチの何が問題なのか:言語哲学と法哲学の観点から

ヘイトスピーチの何が問題なのか:言語哲学と法哲学の観点から

本多康作, 八重樫徹, 谷岡知美編(三浦基生[ほか]執筆)
法政大学出版局 2024年3月刊行
ISBN : 9784588151361

刊行時著者所属:
三浦基生(法学研究科)

著者コメント

 本書は、ヘイトスピーチと呼ばれる、集団・属性に対する差別的表現について、言語哲学・法哲学・情報学・文学の観点から検討する論文を収めたものです。 

 本書に含まれる論文の多くは、2020年2月にR・M・シンプソン先生(ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)[イギリス])を日本にお呼びして行った、公開講演会・研究会での議論がもとになっています。私(三浦)は、UCLで学んだ経験があったこともあり、シンプソン先生の公演のKeynoteや研究報告のコメンテーター(と質疑応答における通訳)を努めたきっかけで、本書に論文を1本寄せています。

 私は2024年2月に勁草書房より出版された拙著『法と強制:「天使の社会」か、自然的正当化か』第4章でフレデリック・シャウアーというアメリカの憲法学者・法哲学者のThe Force of Law (Harvard University Press, 2015)という研究書について詳しく紹介しました。このシャウアーという研究者は、もともとはアメリカ合衆国憲法とりわけ修正1条(表現の自由)についての研究で知られていますが、そればかりでなく、Free Speech (Cambridge University Press, 1982)という本では憲法解釈を超えて(あるいはその根元を掘って)〈そもそもなぜ表現の自由が大事なのか〉についても検討をしています。もっとも、私が同書について紹介する章を本書に収めたのは、(たまたまシャウアーつながりでFree Speechという本を手に取った偶然以外に、)ちゃんと理由があります。それは、統治者が表現を評価することに長けていないのだ、というシャウアーの諦念的な主張は、シンプソンの議論(本書第7章)とはある意味で対局にあるものだからです。二つを読み比べることでそれぞれがこの問題にアプローチする仕方がどう違うかが際立つでしょう。どちらが優れているかについて論じることも重要かもしれませんが、著者の一人としてはむしろ本書全体が扱おうとしている問題の多面性を考える助けになれば嬉しいです。

 私以外の方が書いた部分も含めた、本書全体の面白い点についても少し紹介させてください。本書の内容は、ヘイトスピーチという主題そのものについての哲学的検討に加え、ヘイトスピーチとマイクロアグレッションとの違いは何か、文学と規制される表現(例えば「わいせつ」とされる表現など)の間にはいかなる差があるのか、オンラインでなされる表現が引き起こす害悪とどのように向き合うべきか、など幅のあるものになっています。一言でまとめることは難しいですが、他者との間でのコミュニケーションにおいて発生しうる問題を多角的に検討した本だと言えるでしょう。関心を持つ皆様にお手にとっていただければ幸いです。



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