hq38_1_main_img.jpg

世界経済危機の連鎖から考える 1929年大恐慌下の中国を事例として

  • 経済学研究科教授城山 智子

2013年春号vol.38 掲載

はじめに

2007年夏の米国サブプライム住宅ローンの表面化(住宅ローンの停滞)に次いで、2008年9月0015日、アメリカの巨大証券会社であったリーマン・ブラザーズが破綻した。以後、同社と取引関係にある企業への経営不安の波及や、原則として企業の自力更生を求めるというアメリカ政府の対応への不安などから、金融危機が世界的規模で拡大していった。所謂、リーマン・ショックは、世界経済の一つの転換点となったとされる。更に、2009年のギリシャの財政不安に端を発して、ユーロ圏を中心とした金融市場が動揺する中で、財政への懸念は、アイルランド、ポルトガル、スペイン等へも拡大した。2013年2月現在、世界経済は景気回復基調にはありながらも、いまだ不安定な状態にある。
数年に及ぶ経済危機の連鎖が明らかにしたのは、世界各地の経済が如何に緊密に結びついているかであった。経済のグローバル化は、政府の政策や、大企業の経営だけではなく、一般市民の生活にも大きな影響を与えている。こうした、現代社会における通貨・金融をめぐる、市場と政府、或いは、国家と地域との間での対抗関係と、それに関する様々な議論を念頭に置きつつ、もう一度、世界経済の展開を数百年という時間幅で振り返って見た時、各地域経済間の密接な相互依存関係は、必ずしも新奇な現象ではなく、また、過去にも人々の意識に上っていたことに気づく。実際に、2008年世界金融危機の際には、1929年大恐慌が、同じく先進国発の大規模な危機の連鎖として、大きな注目を集めた。それでは、単に類似の事例や事象を探すことを超えて、過去から何らかの知見を得ようとするなら、何をどのように考えることができるのであろうか。ここでは、1929年大恐慌の下での中国経済を事例に、こうした問いに考察を加えてみる。

金の中の銀
20世紀初頭中国と国際通貨システム

1929年10月24日(木曜日)、ニューヨーク証券取引所では株価の大暴落をみた。後に、「暗黒の木曜日」と呼ばれることになるこの事件は、未曾有の経済危機となる大恐慌の始まりを告げるものであった。証券取引所での大暴落は、投資家に巨額の損失を与えたのみならず、ニューヨーク市場を中心として機能してきた金融システムの流動性を大きく損なった。金融ネットワークを通じて世界的にデフレーションが伝播するのに伴い、各国市場の購買力は大きく低下し、世界貿易は顕著に縮小した。アメリカを始めとする先進工業国が、保護主義によって事態に対応しようとしたことが、結果的には、第一次産品産出国にも圧力を掛けることになった。1930年に入っても、商品価格の低落は続き、また新規融資を受けることは不可能であった。それらの国々の中で、金・外貨準備を使い果たしたものは、市場が付けるどのような価格でも在庫を整理しなければならず、デフレーションは螺旋状に進行した。
しかし、大恐慌の最初の2年間、中国だけは、大きな物価の下落を見ずにいた。これは、中国が、金本位制を基軸とする戦前の国際通貨システムの中で、殆ど唯一銀本位制を採っていたことと大きく関係している。
16世紀以降、銀を共通の媒介として、アジア、南北アメリカ、ヨーロッパを含む広域交易圏が形成された。そこでは、各地の商人が関与して多様な商品が取引され、その結果、複数の形状の銀が移動した。中でも、中国は、銀を主要な価値の尺度と交易の媒介とする銀遣い圏として、16世紀以降の世界的な銀流通を大きく左右した。当時、中国産品への世界的な需要によって、中国の対外貿易は顕著な輸出超過であり、大量の銀が流入した。しかし、1808年から1856年まで、インド産アヘンの輸入増加の一方での、中国の主要産品である茶と生糸の輸出不振などの為に、一転して、海外へ大量の銀が流出し、中国は深刻な危機に直面することとなった。この状況に端を発して、清王朝はイギリスとの間でアヘン戦争を行うことになった。
19世紀半ばから、世界的な銀供給が回復すると、中国・インドを中心とするアジアに銀が再び流入し始めた。しかし、中国と銀を媒介とする交易圏をめぐる世界的な状況は、大きく変化しつつあった。カリフォルニアとオーストラリアで金鉱が発見され、金の生産量が増加したことから、1860年代から70年代に掛けて、ヨーロッパ諸国でそれまでの金銀複本位制から、金本位制への移行が進んだ。続いて、アメリカや日本も金本位制を採るようになり、また、欧米の宗主国と深い経済関係を有するその世界各地の植民地も、本国の幣制に倣って貨幣制度を改めた。金を媒介とした国際通貨システムが形成されていく中で、中国は、銀を貨幣価値の基準とし、銀地金の価値に基づいて様々な形状の銀塊・銀貨が流通するシステムを採り続けた。歴史的に、中国では貨幣への信認、すなわち、支払い目的および価格表示目的の両方で現状の価値のまま取引相手に受領されると考える根拠は、銀地金によって担保されてきた。貨幣への信認は、20世紀初頭の中国では、極めて重要な問題であった。1911年の清朝終焉後、各地で軍閥や財政基盤の弱い地方政府が乱立し、財政拡張を目的として、必ずしも十分な通貨準備金の裏付けのない紙幣の発行を繰り返し試みるという状況の下では、紙幣の兌換要求は、政治権力の不当な通貨制度の操作を防ぐ重要な手段であった。
19世紀末から1931年まで、第一次世界大戦期とそれに続く1920年代初頭を除いて、金本位制が世界各国の通貨システムを結びつける紐帯として機能した。各国の通貨は一定量の金に兌換可能であるとされ、その結果、通貨間は一定の固定為替レートで結びついていた。殆ど唯一、銀を通貨システムの基礎としていた中国は、国際通貨システムの中で特異であった。中国の外では、銀は国際商品であり、その価格は中国経済には直接関係のない様々な要因によって左右された。また、中国では外国為替取引、すなわち、銀本位制に基づく中国通貨と、金本位制に基づく諸外国の通貨との取引に、何ら制限が無かった。こうした条件の下では、中国の金融市場は国際銀市場と密接に繋がると同時に、中国の対外国為替レートは、国際銀価の変動の影響を受ける。その為、銀本位制を採る中国だけは、1929年から1931年まで、銀価が金本位制の通貨建てで大きく下落した為に、大きな物価の下落を見ずにいたのである。

大恐慌の衝撃

イメージ図-星

1929年の大恐慌の衝撃を受けて、国際通貨システムは大きな転機を迎えた。深刻な不況からの脱却を目指す過程で、各国は通貨の価値を一定量の金に結びつけ、紙幣と金との兌換を保証していた金本位制を離れ、自国の通貨を切り下げた。1931年9月にイギリスが金本位制を離脱しポンドを切り下げたのに続いて、その植民地であるインドと海峡植民地が、そして同年12月には日本も金兌換を停止した。そして、1933年3月にはアメリカも金本位制を停止した。各国の通貨システムを結びつけていた金本位制の終焉は、銀本位制を採っていた中国にも大きな影響を与えた。各国の通貨切り下げと景気拡大政策によって世界的に銀価が上昇すると、中国元の為替レートも引き上げられた。結果として、輸出が停滞する一方、華僑送金や海外からの投資は減少した為、貿易赤字は貿易外収支の黒字で相殺されず、1932年以降、国外へ現銀の流出が始まり、同時に、国内の物価も下落した。
1934年6月19日にアメリカが公布した銀買い上げ法は、中国経済の不況を一層深刻化した。政府が銀を買い上げるとする法令は、アメリカ国内の銀産出地域の要請を受け、不況対策の一環として銀の値段を吊り上げることを目的としていた。しかし、アメリカ政府は銀の大部分を市場で買い付けた為、国際市場の銀価格は高騰し、銀本位制下にあった中国の通貨・金融システムに大きな打撃を与えた。アメリカの法令公布直後から、大量の銀が中国から流出し始めた。そこでは、政府は元切り下げの圧力を受ける一方、市場では、切り下げへの不安と通貨と金融政策に関する見通しが立たないことから、一層の資本逃避が行なわれていった。現銀の流出が進行する中で、金融機関は、貸し出しを引き締め、一方、一般市民も預金の引き出しと銀の退蔵を行なった。上海金融市場は、極めて逼迫した状況に陥っていった。
1934年から35年にかけての通貨・金融危機の同時進行は、銀と外国為替の自由な売買を柱とする通貨供給のシステムが、深刻な危機を招きうることを明らかにしていたが、同時にそうした既存のシステムの欠陥に関する認識が、直ちに政府による通貨管理への支持に結びついてはいないことも示していた。こうした市場との対応関係の下で、新たに政府が発行・管理する通貨に対して、如何に信認を獲得するかが、幣制改革を立案・施行していく際の命題となっていた。
1935年11月3日、中国政府財政部は幣制改革の施行を発表し、世界恐慌発生以来の国際市場における銀価格の変動が、中国経済に深刻な危機をもたらしたことに鑑みて、政府は経済復興を達成するために、通貨準備を確保し、貨幣・金融の恒久的な安定を図ると宣言した。同時に、1935年11月4日以降、中央・中国・交通の政府系3銀行が発行する紙幣を以って法幣とすること、3銀行以外の銀行が発行していた紙幣は法幣によって回収すること、銀貨・地金等は、その銀含有量に応じて法幣と兌換されること、そして、法幣の対外為替相場を現行のレートで安定させる為に、中央・中国・交通の3銀行は、無制限に外国為替の売買に応じること、が発表された。しかし、この時点で、法幣が一般市民に受容され、しい通貨システムが機能するか否か新が、政府にとってさえも不明であった。当時の上海銀行界の中心人物であった、陳光甫(上海商業儲備銀行総経理)や張公権(前中国銀行総経理)らは、通貨システムの改革を進める上で、銀に替えて外貨によって法幣の価値を担保すること、即ち、法幣の外貨への兌換を維持しつつ、為替レートを一定に保つことが、極めて重要であったと指摘している。中国政府による為替レートのコントロールに関して注目されるのは、当時の中国金融市場では外国為替管理がなされていなかったことである。通貨の安定性に不安を覚えるならば、誰でも市場で元を売り、外貨に換えることが出来た。外貨管理がなされない条件下で、一定の為替レートを維持するには、政府系銀行が為替基金を用意し、常に外貨の売り買いに応じることが求められる。実際に、まず、幣制改革の直後の11月11日には、米ドル125万ドル相当の元が市場で大きく売り進まれたが、政府は、手持ちの3000万ドルを使って買い支えた。以後、数次にわたるアメリカへの銀の売却によって、中国は1937年までに1億ドルの外貨を獲得した。その間、広東・広西の政治不安(1936年5月)や西安事変(1936年12月)の際などは、政情への不安を反映して、元売りが進んだ。しかし、政府系銀行は、これらの危機に際しても、外貨基金によって為替相場のターゲットを維持することによって、法幣に対する信認を高めることが出来た。
新しい通貨システムを運営するには、国内的には、財政・金融政策との協調が求められた。財源確保の目的での紙幣の増発は、避けられなければならなかった。その為には、中央銀行の独立を始めとする金融制度の整備、そして支出の引き締めと財政均衡の達成が必要であることが、政府内部でも認識されていた。政府が、対外的に開かれた金融市場に於いて、通貨を介して市場と対峙している限り、その財政・金融上の裁量権は、制限されなければならなかったのである。

現代中国における大恐慌期の意義

通貨・金融システム、貿易、労働力移動、送金・投資というあらゆる面で、19世紀末から20世紀初頭の中国経済は国際市場と密接に結びつき、またそれぞれの部門が緊密に連関していた。こうした世界経済との結びつきの為に、中国経済もまた大恐慌の影響を避けることはできなかったのである。そして、当時の経済政策形成に携わった人々は、そうした中国と世界経済の密接な結びつきを、良く知っていた。1935年幣制改革時の議論に見られるように、政府官僚達は、外国からの資金流入が途絶えた場合、中国経済が重篤な危機に陥ると認識していた。その為に、たとえ財政政策の自律性を犠牲にしても、為替レートの安定によって、市場の法幣に対する信認を獲得することを選択した。
このように、歴史上初めて、中央政府が統一的に紙幣を発行し、通貨をめぐる市場との緊張関係に入るに至った、という意味で、大恐慌とそれへの施策としての幣制改革は、重要な意味を持つ。19世紀半ばから現在までの長期の射程で、中国(経済)と世界(経済)との関係を見る時、中国が世界と密接な関係を有していた時期と、外部に対して閉じていた時期とに、比較的はっきりと分けることができる。上に見たような20世紀前半の「開いた」時期に続いて、1937年7月に始まった日中戦争が、太平洋戦争を経て、1945年に終結すると、国共内戦という新たな戦乱が始まった。1949年10月に、中国共産党の下で、中華人民共和国が建国されると、新政権は貿易やサービスの取引、人の移動をそれまでの政権に比べて遥かに厳しく管理した。国内における統制と海外からの孤立は1960年代から70年代初頭にかけて、毛沢東が主導した文化大革命で頂点に達した。現代中国経済を考える時のキーワードである、「改革開放」の重要性は、この「閉じた」中国との関係で理解することが出来る。1978年以降、鄧小平の下で、中国はそれまでの政策を大きく転換し、徐々に、対外経済開放を進めていった。
通貨をめぐる政府と市場との関係から、こうした対外経済関係の長期的展開をどのように考えることができるであろうか。金融市場を対外的に開放すること、為替レートを一定に保つこと、そして金融政策の自律性を保つこと、を同時に達成することは難しいとされる。こうした経済の対外開放性と政策形成の自律性とのトレード・オフ関係を念頭に置くならば、1940年代以前と1980年代以降「開いた」時期と、それらに挟まれた1950年代から70年代までの「閉じた」時期との間の一見大きな政策転換は、両者の間の何処に最適点を見出すか、という一つのルール上での選択の問題とも捉えられる。政治体制やイデオロギーは、選択を規定する重要な要因である。1950年代以降、対外的に「閉じる」ことによって、経済政策の自律性を高め、社会経済全体を統制しようとする選択は、成果をあげることが出来ずに、中華人民共和国は新たな選択肢の模索を迫られた。中国経済の対外開放が進むに伴って、中国政府の官僚は、再び国内経済政策の立案に際しても世界経済の要因を考慮する必要に迫られるようになった。
例えば、1994年1月1日、中国元の公定レートを当時の外国為替交換所のレートの近似値である1ドル8・7元にまで切り下げた上で、政府は公定レートと交換所レートとを統合した。以後、数回の調整を経て、1997年10月までに為替レートは1ドル8・28元とされ、以後、2005年7月21日に人民元改革が施行されるまで、ごく狭い幅での変動はあるものの、このレートで固定された。人民元の為替レートは、一貫してアメリカ・ドルに連動しており、ドルの価値の上昇に伴って、1995年半ばから2002年初頭までの間に24%切り上げられた。一方、2002年2月を転換点として、ドルの価値は下落へと反転し、中国元の価値も引き下げられ、2005年半ばまでに、10%の下落を記録した。中国の輸出部門の生産性の向上が2001年以降も続いているとするならば、為替レートの下落と相まって、人民元は20%余りも過少評価されていると推計される。結果として、2002年から国際市場における中国産品の競争力は著しく高められ、中国の貿易と経常収支は多額の黒字を計上するに至った。このことは、中国からの輸入が大きな割合を占めるアメリカの経常収支の赤字とも関係付けられて注目され、中国が不当に為替レートを過少に操作しているとの批判が他国政府から寄せられた。
2005年7月21日、中国政府は、中国人民元の為替レートが、従来のドル・ペグ制を離れて、以後、複数の通貨からなるバスケットのレートを参照して決定されるようになることを宣言し、同時に、人民元の為替レートを、1ドル8・28元から8・11元へと2・1%切り上げた。以後、2008年末までに、政府は人民元の為替レートを17〜20%引き上げた。しかし、2007年11月の為替レートの過少評価の割合は依然として26%と試算される。2005年の政策転換以降も、為替レートの動向から看取される中国政府による恣意的な操作に対しては、引き続き批判が寄せられ続けている。
こうした、外的な圧力のみならず、為替レートを現行のレベルに保ち、過少評価を続けることは、中国の経済政策全体に大きな影響を及ぼしている。2000年半ば以降、中国が世界的な輸出・生産基地として発展するのに伴い、貿易黒字及び直接投資といった実需に加えて、投機資金も加わり、巨額の資本が流入し始めた。これに対し、中国人民銀行は、為替レートの安定を維持するために、ドル買い・人民元売り介入を行い、外貨準備を積み上げる一方で、市場に流動性を放出した。流動性調整に関わる、高い預金準備率や、低利の国債引き受けは、国内金融機関に大きな負担である。更に、中央銀行による金利引き上げの余地が限られている為、銀行の貸付金利も当然低利となる。これらの低金利、或いはマイナス金利は、不動産や債券市場に過剰な資金が流れ込み、リスクを伴った〝ブーム"が生じる主要な要因となっていることが指摘されている。こうした金融セクターの状況は、胡錦涛政権が標榜した、「調和のとれた社会」(和諧社会)に繋がるものとは考えにくい。投資と輸出から個人消費へと経済成長の源を再調整していこうとするならば、何らかの通貨・金融政策の調整が必要であると考えられる。
しかし、2008年のリーマン・ショック以降の世界的な金融・経済危機のもとで、政策の転換は、従前に比べて困難になった。世界的に需要が落ち込む中で、輸出にブレーキを掛ける通貨の切り上げを選択することは難しい。また、対外貿易と投資の落ち込みを補うべく、中国政府は貸出金利、預金金利共に引き下げを決定し、又、積極的な財政政策を打ち出した。これらの政策は、2009年以降、景気の下支えに貢献した。しかし、2010年には、他国の低金利政策の影響を受けて海外から資金が流入したこともあり、中国政府は既に、過剰流動性への対応を迫られつつある。こうした状況下に、価値が低落しつつあるアメリカ・ドルに為替レートを追随させ続けることは、通貨・金融政策の転換を先送りし、それに付随した問題を処理するコストを、将来的にはより大きくする可能性が懸念される。奇しくも、1929年大恐慌以来、といわれる金融センターたるアメリカに端を発した世界的な金融危機の下で、中国政府は対外為替レートのレジームと経済発展戦略との整合性を、再び問われているのである。
今後、持続的な経済発展を目指す中で、どのような貿易・為替政策をとるのか、巨額な資本流入に伴う国内の流動性の増加をどの様に調整するのか、それらは国内の金融政策とどのように整合性を保つのか。再び、外に向かって開き、資金や技術を取り入れることは、その利益と引き換えに、経済政策運営上に一定の規制を受けることとなる。中国政府は、或いは、中国社会は、何処を最適と看做すのだろうか。20世紀前半の中国経済は、こうした問題を考える上で、極めて示唆に富む。

(2013年4月 掲載)