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大学の役割、社会科学の責任【対談】

  • LSE学長クレイグ・カルホーン氏
  • 一橋大学長蓼沼 宏一

2015年秋号vol.48 掲載

前号『HQ』Vol.47の巻頭に、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス・アンド・ポリティカル・サイエンス(LSE)の学長であるクレイグ・カルホーン氏と、蓼沼宏一一橋大学長との対談記事を掲載した。「グローバル時代の大学経営とは?」というテーマで構成した記事であったが、実際の対談では「社会科学の責任」などについても話題が及んだ。カルホーン氏の貴重な見解をうかがうことができ、また両名の有意義な意見交換も行われた。続編としてここにご紹介する。

カルホーン氏が、入学記念講演で示した「公共財としての知識」というコンセプトから始まった対談。「知識はいろいろな型を持っており、さまざまな利益のために使われている。知識を私的な利益のために利用すること自体は問題ではない。私的な利益を動機としてビジネスが回っていく一方で、公共の利益を損なってはいけないという社会的な認識や責任がある場合にビジネスは成功する。私たち大学は、知識を与えるだけでなく、公共の利益にもなるように知識を活用する責任についても教えなくてはならない」というカルホーン氏の言葉に、蓼沼学長は「アダム・スミスの『見えざる手』を思い出した」と発言。そこから話は、アダム・スミスを端緒に、社会科学全般の話題へと展開していった。

クレイグ・カルホーン氏

クレイグ・カルホーン氏

ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス・アンド・ポリティカル・サイエンス(LSE)学長

2012年ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス・アンド・ポリティカル・サイエンス(London School of Economicsand Political Science:LSE)学長に就任。マンチェスター大学で社会人類学を専攻し、オックスフォード大学で社会学、近代社会学及び経済史の博士号を取得。アメリカでは社会科学研究会議の議長を務め、ノースカロライナ大学、コロンビア大学及びニューヨーク大学で教鞭をとった。氏の多くの著書は、多岐にわたる学問領域の学術理論と経験主義に基づく研究を併せ持っている。

蓼沼:今のお話をうかがって、アダム・スミスの「見えざる手」を思い出しました。

カルホーン:アダム・スミスは、私の敬愛する思想家の1人です。現代社会では、「見えざる手」によって市場経済が維持されるメカニズムのほかに、欠陥商品に対して訴訟を起こす司法の仕組みや、政府が市場を規制する仕組みも存在します。大学はこれらの異なるメカニズムをバランス良く運用する方法を知的に示す必要があります。

蓼沼:そうですね。アダム・スミスは『国富論』の著者であるとともに『道徳感情論』の著者ですが、社会の働きの中で、人の道徳感情が重要であることを強調しています。

対談の様子1

カルホーン:私の意見では、道徳的視点と自己利益の視点とは必ずしも対立しません。短期的な価値ばかりでなく、より長期的な価値も認める、より啓発された自己利益もあります。長期的な利益や公共の利益を考える時、自己利益と道徳はより歩み寄れるのです。功利主義ではもちろんそれらは完全に一致するとされますが、時には公益のために利己主義の制限を要請する道徳的原理があると私は思います。
アダム・スミスはこの点についても非常に興味深い思想家です。『道徳感情論』に言及してくださいましたが、まさにその著作は彼のお気に入りでした。今では『国富論』のほうが有名ですが、スミスが多くの時間を費やしたのは『道徳感情論』でした。実際、彼は経済学ではなく道徳哲学の教授であり、一生を通し繰り返し『道徳感情論』を改訂しました。彼は『道徳感情論』は社会や人間の働きを理解するうえでの基礎だと考えていたので、何度もこの書物に回帰し続けたのです。
『道徳感情論』には、現代の経済学や社会全体にとって学ぶべき教訓がいくつか含まれています。たとえば利益がすべてではないということです。もちろん自己利益は必要ですが、それに加え、道徳、感情、感覚、情緒も必要です。これは、行動経済学の時代になり、いわゆる「アニマルスピリット」について議論されるようになったことで、私たちが経済学において近年再確認していることです。
この20年間、私たちが時に新しいと思ってきたこのようなコンセプトは、すでに過去に考察されたものなのです。「アニマルスピリット」という成句も、ジョン・メイナード・ケインズが20世紀前半に唱えたものです。しかし、アダム・スミスは『道徳感情論』の中で、感情の伴わない道徳は抽象的な道徳規範にすぎないので、うまく機能しないと言っています。何か行動を起こす場合、感情が呼び起こされたり気持ちが入っていたりしない限り、あまり効果は期待できない。だから、これこそが原動力に違いない、というわけです。こうした理由から、私たちは身近なものや効果が見えるものによって、もしくは親密な家族、友人、コミュニティなど実際に知っている人々によって、非常に強く動機づけられるとスミスは考えます。


カルホーン氏は、入学記念講演で「世界全体とローカルな状況を結びつける」という課題にも言及。対談はその重要性について展開された。


カルホーン:入学式の講演で強調した課題の一つに、「世界全体とローカルな状況を結びつける」ということがあります。もし私たちがその逆、すなわち自国と世界を対立させてとらえるとすると、ナショナリズムが危険なものになります。しかし、単に世界に目を向けるだけで、自国やコミュニティのことを忘れてしまうとすると、それもまた危険です。それはアダム・スミスが危惧した抽象的道徳のリスクを冒すことになるからです。私たちが問うべきは、どうすれば自国が自分たちにとってだけでなく、世界にとってもなり得る最善の国になれるか、また、どうすればこの二つの側面を結びつけることができるのか、ということです。

蓼沼:道徳が人々の感情と結びついていることは重要です。現代の世界経済においては、アングロ・サクソンの伝統的な道徳が支配的になっているように思えます。しかし、こうした支配は必ずしもローカルな人々の感情とは結びついていません。

対談の様子2

カルホーン:その点が重要だというお考えに同感です。哲学的伝統が違えば、概念も違ってきます。さらに付け加えれば、アングロ・サクソンの伝統においても競合する概念があります。西洋には多様性があります。西洋の支配的な見方は経済的自己利益、短期的思考、そしてある種の部分的功利主義などかもしれませんが、キリスト教や西洋哲学に見られるように、ほかの要素に重点を置いた別の伝統も存在します。私たちがアダム・スミスについて論じていること自体がそれを示しています。西洋思想の主流と緊密に結びついているスミスという人物においてすら、仏教的伝統などに見られるのと同じような、現行の支配的な立場を変革しようとする潜在的な可能性が秘められているのです。

蓼沼:なるほど、シンプルで統一的なアングロ・サクソンの哲学があると考えるのは正確ではないということですね。

カルホーン:そうです。日本の思想にも同じことが言えるでしょう。日本の思想は異なる伝統や新しい概念を組み合わせています。いかなる伝統についても一つの指導的な概念しかないと考えることにはリスクがあります。多くの場合、複数の概念が働いているのです。私が、知識は公共財であるということや、討論や議論に参加する必要があるということを強調する理由の一つはそこにあります。
日本では、神道、仏教、また西洋やその他の源泉に由来するいろいろな概念が組み合わさっていて、何かの課題について論じる時、これらの源泉のどれかが、場合によってはすべてが関わってきます。日本では、家族を重視するか、国家を重視するかという問題に答える場合、多くの源泉から知恵を引き出してくるでしょう。

蓼沼:ええ、その点は重要ですね。どのような問題も自由に議論されるべきであり、異なる伝統や考え方も受け入れるべきですね。

カルホーン:そう思います。


アダム・スミスの著作の論考から、話は自然科学と対比しつつ社会科学の特徴や性質へと展開した。


蓼沼:行動経済学はアダム・スミスまで遡ることができるとおっしゃいましたが、大変興味深いご指摘です。それは、社会科学の成果をどう評価するかという問題とも関連しています。『道徳感情論』と『国富論』は18世紀に出版されましたが、今でも経済学や社会科学の現在の研究に影響を与えています。

カルホーン:ええ。

蓼沼:200年以上も私たちの考え方に影響を与え、新たな発想を触発してきました。こうした社会科学の特徴は、自然科学とは異なります。社会科学の成果の性質やその豊かさについてどう思われますか。

対談の様子-カルホーン氏

カルホーン:自然科学や物理科学はより累積的な性質を有していますから、面白い対比ではありますね。けれど、それをどう考えるかについては気をつける必要があると思います。アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの有名な言葉に「自らの創始者を忘れ去ることを躊躇する科学は迷える」とあります。彼の言わんとする意味は、それぞれの世代が過去に改良を加えなければならないということです。先達を敬うだけでは知識は進歩しません。誰かが以前唱えたことを繰り返すだけだからです。重要なのは前に進むことです。自然科学や物理科学では、古い思想家の著作を再考察する伝統はありません。誰でもコペルニクスやガリレオやアイザック・ニュートンが偉大な思想家だったことは知っています。しかし現代の科学者は自分の研究を進めるにあたり、コペルニクスやガリレオやニュートンまで回帰することはありません。ニュートンを古典として読むことはあるでしょう。ニュートンは(ライプニッツとともに)微積分を発明しましたが、微積分を学ぶ時にニュートンを学ぶことはありません。現代の教科書を学ぶのです。
社会科学の一部の分野にもこれは当てはまりますが、完全に当てはまるわけではありません。私たちもしばしば古い概念を捨て、根拠が薄弱だとか、成熟していないとか、間違っていると、確信を持って言うことはあります。それでも依然として議論すべき問題や、時代の変化に強く影響を受けるような概念というものが残っていくのです。

蓼沼:なるほど。

カルホーン:自然は人間社会と比べ、それほど劇的に変化しません。物理の法則は200年経っても変化しないでしょうが、経済や社会は変化します。このことは、社会学や経済学の法則は歴史に根差しており、社会学者や経済学者などの社会科学者はこの持続的な特徴を、つねに変化する状況に関連づけることができなければならない、ということを意味します。
もちろん、物理的な世界にも変化はありますし、歴史地質学などの学問分野はこの一端を理解しようと取り組んでいます。たとえば気候変動の研究をきっかけに、自然科学者の間でも歴史的考慮への関心が再び生まれています。過去10年から100年における傾向しか見ないで、本当に気候について理解できるのか、あるいは1000年、2000年も過去を振り返ってみたり、別の研究資源を利用したりする必要が実際にあるのか、といった問題が提起されています。このように、自然科学や物理科学においても、社会科学ほどではありませんが、歴史的考慮の必要が意識されるようになっているのです。
哲学者であり物理学者でもあったトマス・クーンがパラダイムに関して指摘したことも頭に入れておくべきでしょう。自然科学の歴史には、特定の分野を理解するためのパラダイムに関する非常に強力な合意、たとえば物理学のニュートン的理解などが、その後の科学革命によって完全に覆されてしまう例があります。たとえば、アインシュタインとボーアが新しい物理学の道を開いた相対性理論の場合がそうでした。科学史のこうした側面を忘れるべきではありません。
しかし多くのエンジニアにとっては、アインシュタイン革命は起こらなかったのと同じです。土木技師にとっての物理学はいまだにほとんどの場合はニュートン力学です。橋を造る時、わざわざ相対性理論について考えませんよね。代わりに重力などの伝統的な物理学で考えるのです。宇宙を理解するには新しい、これまでとは違う理論が必要となりますが、それは私たちが理論の基本的真理をどう理解するかに影響を与えます。ですから、自然科学や物理科学についても、古典にまで遡って教えることがないからといって、まったく変化しないと決めつけないようにする必要があります。
最後に、社会科学ではどのように古典を扱うかということについて指摘したいと思います。アダム・スミスを読みさえすれば現代経済学の本を読まなくて良いとは言えません。アダム・スミスのこの二つの書物のように、本当に偉大な書物は、読み返すたびに新しい着想を与えてくれたり、忘れていたことを思い出させてくれたりします。たとえば、偉大な経済学者のアマルティア・センは『道徳感情論』まで立ち戻り、この書物は自分の研究に新たなインスピレーションを与えてくれたと言っています。しかし、それまでの社会変革に関する研究成果を捨て去り、全面的にアダム・スミスに立ち戻ったわけではありません。そうではなく、現代の課題を解決するための新たな視角、新たな視点を得るための助けとして、スミスを利用したのです。


両名が共通して立脚する社会科学。その可能性とともに、その責任についても話が及んだ。


対談の様子-蓼沼学長

蓼沼:社会は人で構成されていますから、社会科学者は人の行動について研究します。自然科学者はたとえば原子など自然界を観察しますが、その研究対象自体を変えることはできません。けれども、社会科学者は研究対象に影響を及ぼすこともできます。人は自ら考えて行動するからです。場合によってはそれが革命のような大きな変革をもたらすこともあります。
したがって、社会科学は社会の進歩について大きな責任を負っています。私たちは、社会に望ましい方向を指し示すよう努力しなければなりません。どの時代でも社会的選択は重要ですが、社会科学者は社会的選択の方向に影響を及ぼすことができるのですから。

カルホーン:おっしゃるとおりです。社会的選択はつねに重要です。したがって、それは専門家のみの関心対象で終わるべきではなく、もっと一般的に、中心的な問題として受け止められるべきです。蓼沼学長ご自身も、社会的選択について重要な研究をされており、この分野を熟知しているわけですが、社会的選択のパターンを理解しようとするのは複雑な作業です。特に、多くの人々が社会的選択に関与する場合には、公平な理由に基づいて合意に達するのはしばしば非常に難しいことだからです。社会的選択を理解しようとすると、ケネス・アローが示した有名な逆説など、いろいろな問題が絡んでくるので、細心の注意が必要です。
蓼沼学長が指摘された基本的なポイントはそのとおりだと思います。社会科学の重要性に関する基本的なポイントについて、若干補完しつつ、もう一度述べてみたいと思います。

蓼沼:ぜひお願いしたいところです。

カルホーン:社会科学は特別な責任を負っています。結果的に人々の考え方に影響を及ぼしたり、社会を変革したりすることも理由の一つです。一般的に、物理学者は研究対象である原子を変えることはありません。ですから社会科学者には特別な責任があるのです。
私たちがどう考えるか、あるいは何を想像するかということすら、社会に影響を与えます。たとえば、帝国や王国、あるいはそのほかの政治に対する考え方に対して、国家という概念が台頭したのが、近代ヨーロッパの特徴です。多くの点で、国家が存在するのは、国民とは何か、一体としてともに生きるとはどういうことなのかに関する理解の方法が変化したことが理由になっています。多くの哲学者や社会科学者などの思想は、国家建設に寄与する助けになりました。そのような想像の産物が非常にリアルなものの創造をもたらしたのです。
もう一つの例が、企業です。企業という概念は、法律や社会科学その他の思考様式の影響を受けています。しかし、一度この概念が出現すると契約が結ばれ、実際に企業が設立されます。企業は非常にリアルなものになるのですが、ここで次のような問いを発してみましょう。トヨタという企業はどこにあるのでしょうか。豊田にあるのか、名古屋にあるのか、世界中にあるのか。トヨタに触れることはできるのか、と。答えはすべて「ノー」です。トヨタの事業所や工場、ショールームはありますが、企業は社会科学や法律によってつくられた概念なのです。そしてその概念が、ある意味でこれらの具体的な物理的実体から切り離された存在を有しているのです。
私がこうしたことを強調するのは、それが、世界を今ある姿にしている非常に強力な概念だからです。国家も企業もない世界を想像してみてください。まったく違った世界でしょう。概念がなければ、国家も企業も存在しないのです。したがって、国家や企業は概念の力を示しているのです。社会科学者は、たとえば個人が消費活動をするうえでのさまざまな選択だけでなく、この世界全体の構造にも影響を与えます。これは大きな責任ですから、私も蓼沼学長の意見に同意します。

蓼沼:社会科学が、世界全体の構造とその認識にも影響を与えているという点は、大変重要なご指摘であると思います。

カルホーン:自然科学者や物理学者も大きな責任を負っていますが、その理由は社会科学者の場合と同じではありません。彼らが責任を負っているのは、原子の考え方を変えるからではなく、新素材をつくり出すからです。たとえば、化学系エンジニアは自然界になかった新素材を開発します。自然には生まれなかった新たな元素すら、つくり出すことができます。通常このような新しい元素の寿命は短く、長持ちしません。したがって、新元素で机をつくることはできませんが、それでも自然を変える潜在的な可能性はあるのです。
もちろん、社会は自然を変えます。人口の増加、産業や自動車を動かすための化石燃料の使用量の増加、その他諸々のことが気候に影響を及ぼします。ですから、気候は単なる自然だとは言えません。アントロポセン(人新世)の時代と言われるのはそのためです。人類が生物学者や大気科学者の研究対象である自然界を変える時代になっているのです。数千年に及ぶ人類史の影響は海洋を変えてきましたし、大気も変えてきました。したがって、自然界や物理的な世界を対象とするどのような研究も、このような社会的影響を考慮しなければならないのです。
もちろん、それでも基本的な法則はあります。熱力学の第二法則は社会変化の影響を受けません。しかし、生物学や物理学には社会的変化の影響を受けている多くの重要な事実があります。自然科学には、ある意味で社会科学と最も異なる物理科学だけでなく、少しばかり社会科学に近い生物科学も含まれます。生物学の一部は社会科学と極めて似通っています。生物学的有機体の集合もつねに変化しているからです。そして、そこには進化が適用されます。岩石に進化はありませんが、社会内部を含めてすべての有機生命体には進化があります。


経済学者が心理学との接点を発見した。


立ち上がって話し込む二人

カルホーン:学術分野として経済学が明確な形を持つようになったのは、19世紀後半の限界革命によってです。限界革命は基本的に思考方法や研究方法、計算方法などに関する方法論的な革命でした。そして、経済学は非常に強力な方法論的基礎を発展させ続け、一段と数学的になっていますので、その在り方は非常に独特です。しかし、経済学が対象としている主題は、交換を行っている人間であり、もちろん、人間はほかの学問分野の研究対象にもなっているわけです。
行動経済学の興隆は心理学との接点を再構築することから生まれました。経済学と心理学は1世紀近くもまったく違った方向に進んできましたが、実のところ、心理学者が経済学を発見したのではなく、経済学者が心理学を発見したのです。ジョージ・アカロフなど、何人かのノーベル経済学賞受賞者は、心理学の文献を読んだことが自分の研究の助けになったと言っています。
さて、ではなぜ彼らはそうしようとしたのでしょうか。それは、たとえば人々が不適切な情報や誤解を招く情報にどう対応するかなど、経済学で支配的だった視点の中にいては解決できない問題があったからです。そうした場合の対応のありようは、対応する人々の心理によって形成される部分があることに、経済学者は気づきました。また、方法論的な視点からすると、実験をすることもできるわけです。つまり、行動経済学の一部は、ほかの主題から方法論と概念の両方を取り入れることによって形成されているのです。
それは大変有益でした。別の専門分野になるのではなく、経済学を変えるということです。こうしたことは科学のあらゆる分野で行われていることであり、非常に重要なことだと思います。もし交流がなければ、これほど多くのことは学べませんし、新しいものを取り入れることもできません。


社会科学の大学を預かる立場の両名が、自然科学と対比しながらその可能性や責任を考量すれば、いかにその地位を向上させるかという問題に発展するのは当然の流れだろう。


蓼沼:大学の財政についてですが、我々にとって大きな問題の一つが政府の教育予算の配分です。ほかの国もそうかもしれませんが、日本では社会科学は工学や医学と比べると必ずしも厚遇されていません。より良い扱いを受けるために何をすべきだと思われますか。

対談の様子-カルホーン氏2

カルホーン:それはとても重要な質問です。多くの政治家や一部のメディアなどは、社会がどのように繁栄していくかについて誤解していると思います。彼らは、経済にとって非常に良いものだという思いから、新しい技術や新しい製品を重視し、工学を支援します。また、人は病気になったり、健康の増進を図ったりしますから、医学への公的支援も多くなります。しかし、政治家やメディアなどは往々にして社会科学のことを忘れています。その理由の一つは、自分たちがつね日頃から社会科学を利用していること、実際に社会科学が多くの政府省庁や貿易、ビジネスなどにとって必要な知識を提供していることを認識していないからです。社会科学者が生み出す知識に気づいていないのです。
私は立場上、英国政府の関係者とたびたびこの問題について話す機会がありますが、金融やシティ・オブ・ロンドンが英国経済にとってどれほど重要か改めて思い起こしてもらうようにしています。金融は最大かつ最重要な産業だからです。ほかにも、社会科学の中には高付加価値の経済財を生み出している分野があります。インターネットビジネスやウェブ、電子取引は新技術のみを利用して創出されるわけではありません。もちろん、技術も利用しますが、それはコミュニケーションの手段でもあり、多くの意味で社会的な現象でもあります。これらのビジネスは技術のみによって創出されるものではなく、技術の社会的利用について考えている人たちによって創出されるものでもあるのです。たとえばソーシャルメディアは、工学的な意味での技術であるだけではなく、社会的問題に対処するための技術利用でもあります。そして、社会科学者もこれらの企業に雇用されています。つい最近、グーグルが社会科学者や人文系大卒者を優先的に採用すると発表しましたが、それはこうした人材がもたらすアイデアが必要だからです。
私たち社会科学者は、社会科学がどのような形で貢献するのかをしっかり実証してこなかったことで損をしているのだと思います。技術の場合は生み出す製品を簡単に示すことができますが、社会科学の場合はその恩恵がそれほどはっきりとは見えにくいからです。社会科学の概念のいくつかは多くの人々に単なる常識と見なされています。たとえば、機会費用や比較優位といったよく知られている概念です。人々は、これらの概念が社会学や経済学から生まれたものだということを忘れています。私たちにとっては大きな課題ですね。
残念なことに、社会科学系の学問分野は、なぜその学問が有益なのかという議論に参加したがらない場合があります。学界内部の独自の感覚で業績を評価されたいと思っているのです。社会科学系のそれぞれの学問分野には、研究の美しさや説明力に基づいて誰が偉大な科学者なのかを認定する学界内部の名声システムがあります。しかし通常、その偉大な研究を外部の世界の人々に伝えるのは別の人たちであり、多くの場合、社会に対して大きな実際的影響を及ぼすのは、そうした人たちです。大学には、第1の種類の人たちのみを求め、第2の種類の人たちの重要性を忘れてしまう傾向があります。
先ほどノーベル経済学賞を受賞したジョージ・アカロフに触れたので、彼を例にとってみましょう。アカロフは、米連邦準備制度理事会(FRB)議長のジャネット・イエレンと結婚しています。イエレンは世界で最も大きな影響力を持つ実務派エコノミストの1人であり、アカロフは世界で最も大きな影響力を持つ経済学者の1人です。その2人が夫婦なのです。2人とも、以前はLSEの教授であり、私たちの仲間でした。2人の存在は、社会科学に対して何が求められているのかを如実に示しています。中央銀行のような職場で実務的な仕事をするエコノミストがいることも非常に重要ですし、大学で研究し、新しい知的展望を切り開く経済学者がいることも非常に重要なのです。

蓼沼:それは飛びきり優秀な夫婦ですね。

カルホーン:そのとおりです。

(2015年10月 掲載)