エコノミストが指摘するわが国最低賃金の論点
- 社会学研究科教授林 大樹
2013年冬号vol.37 掲載
都道府県別に国が定め、使用者が守らなければならない最低賃金は、労働者のセーフティ・ネットとして重要である。近年、賃金の低廉な非正規従業員が増大し、また地域別最低賃金の額が生活保護水準を下回る都道府県があることなどから、最低賃金の行方への注目度が上昇していると感じる。
筆者は現在、埼玉地方最低賃金審議会の公益委員として、地域別最低賃金と特定(産業別)最低賃金の改正決定の調査審議に携わっている。その審議において、労働者側と使用者側の議論に接する機会は多いが、労使双方の提出する論点はパターン化し、毎年同じような議論になることが少なくない。今回、インターネット上で最低賃金を巡って多くのエコノミストが多様な意見を公表していることを知った。わが国の最低賃金を巡る議論に関し前提となる若干の基礎知識を紹介した後、エコノミストの指摘を参考に論点整理を行ってみたい。
最低賃金の目的
最低賃金法は第一条で同法の目的を次のように述べている。「この法律は、賃金の低廉な労働者について、賃金の最低限を保障することにより、労働条件の改善を図り、もって、労働者の生活の安定、労働力の質的向上及び事業の公正な競争の確保に資するとともに、国民経済の健全な発展に寄与することを目的とする。」つまり、最低賃金を公定する目的には、①労働者の生活の安定、②労働力の質的向上、③事業の公正な競争、及び④国民経済の健全な発展という四つの側面があるということである。
最低賃金と生活保護施策との整合性
2007年に改正され、2008年7月1日に施行された最低賃金法は、その第九条第2項で地域別最低賃金の決定に関する3原則、すなわち、①労働者の生計費、②労働者の賃金、③通常の事業の賃金支払い能力を示し、さらに第3項で「前項の労働者の生計費を考慮するに当たっては、労働者が健康で文化的な最低限度の生活を営むことができるよう、生活保護に係る施策との整合性に配慮するものとする。」と定めている。
3原則の中で①労働者の生計費だけが生活保護との整合性という具体的な基準が明確にされたのであるが、この点について労働調査会出版局編『改訂3版最低賃金法の詳解』は「法律上、特に生活保護との整合性だけが明確にされた点にかんがみれば、これは、最低賃金は生活保護を下回らない水準となるよう配慮すべきであるという趣旨だと解される。」と述べている。
ただし、最低賃金と生活保護を比較して、いかなる場合にも最低賃金が生活保護を下回らないように最低賃金を決定することが実際には困難あるいは適当でない場合も想定される。前掲『最低賃金法の詳解』は次のように述べる。「具体的な整合性のありかたについては、最低賃金審議会で審議されるべき事項であるが、その結果、一定の仮定において算定された生活保護の水準を最低賃金額が下回っていなければ、また、仮にある年度で決定された最低賃金の水準が、一定の仮定において算定された生活保護の水準を下回るものであったとしても、最低賃金審議会が、この乖離を認識した上で、生活保護以外の要素も総合的に勘案して当該年度の最低賃金額を定め、更にこれを解消するための中長期的な道筋を示しているのであれば、本条第二項および第三項との関係では、特段の問題は生じないものと考えられる。」
生活保護と最低賃金の比較
中央最低賃金審議会は地域別最低賃金額改定の目安を提示するために、全ての都道府県における生活保護水準と最低賃金の比較を行っている。その手順は複雑だが、生活保護水準については若年(12〜19歳)単身世帯の生活扶助基準の都道府県内人口加重平均に住宅扶助の実績値を加えて算出している。図表は都道府県別に、最新データによる時間当たりの生活保護水準と2012年度に改定された地域別最低賃金(時間額)を示している。2012年度の改定後においても、東京、神奈川、北海道などでは最低賃金が生活保護水準を下回っていることが示される。
雇用戦略対話(2010年6月3日)における最低賃金引き上げの合意
雇用戦略対話とは、緊急雇用対策(2009年10月23日緊急雇用対策本部決定)に基づき、雇用戦略に関する重要事項について、内閣総理大臣の主導の下で、労働界・産業界を始め各界のリーダーや有識者が参加し、意見交換と合意形成を図ることを目的として設置された会議体である。2010年6月3日に開催された第4回雇用戦略対話において、最低賃金政策に関する政労使の重要な合意がなされた。それは「新成長戦略で掲げている『2020年度までの平均で、名目3%、実質2%を上回る成長』を前提として、「『2020年までの目標』の設定について、目標案としては、『できる限り早期に全国最低800円を確保し、景気状況に配慮しつつ、全国平均1000円を目指すこと』が考えられる。」とするものであった。この合意は、現在の最低賃金審議会の審議に強い影響を与えている。
エコノミストの指摘する論点
作家村上龍氏が編集長として発行するJMM(ジャパン・メール・メディア)は、村上氏が投げかける質問に金融経済のスペシャリストたちが回答するメールマガジンである。2012年7月31日には、「今週、今年度の最低賃金引き上げの目安額が決まるようです。11都道府県で生活保護給付水準を下回るという『最低賃金』についてどう考えればいいのでしょうか。」という質問に対し7人のエコノミストが回答した。その要旨を紹介する。
まず、最低賃金は労働者の生計を支える最低限の賃金であるという点に絞り込んだ意見から紹介する。
中島精也氏(伊藤忠商事チーフエコノミスト)の回答
「中央最低賃金審議会で目安額を算定する根拠」は「次の3つの要素、労働者の生計費、類似の賃金、そして事業主の賃金支払能力からなってい」る。成長力底上げ戦略推進円卓会議のレポート作成に関わったが、そこでの議論で「最も疑問に思っていたことは、最低賃金を決めるのに、事業主の賃金支払能力が入っていること」であった。そもそも最低賃金は労働者の生計を支えるに足る下限の賃金であり、それ以下の賃金は許されるべきではない。最低賃金は労働者の生計費のみで絶対水準を決めるべきである。
メディアの報道における文脈に注文を付け、改革に向けた議論の活発化を促す次のような主張もある。
北野一(JPモルガン証券日本株ストラテジスト)の回答
「生活保護の支給額と最低賃金の関係については、まず、次のように整理すべきで」ある。「(1)雇用形態の変化と不況の長期化により、病気等ではなく経済的な理由から、生活保護を受給する世帯が増加した。(2)生活保護には、もともと就労支援の発想はない。(3)就労インセンティブをつけるために、すなわち最低賃金が生活保護の給付水準を上回るように、最低賃金の引き上げが行われてきた。(4)こうした最低賃金の引き上げが、利潤そして雇用機会の減少をもたらしている危険性がある。」ところが、メディアは次のように報道している。「(A)最低賃金が生活保護の給付水準を下回る『逆転』地域が11都道府県になった。(B)生活保護の給付水準が最低賃金を上回ると、労働者の働く意欲をそぎかねないため、政府は逆転の早期解消を目指す。(C)経営者側は、最低賃金の上昇に反発している。」(A)から(C)という文脈の記事を読んだ読者がイメージできる選択肢は限定されたものになる。最低賃金が生活保護よりも低いのは不自然なので、とにかく早く最低賃金を引き上げろ、ということになる。それに対し(1)から(4)という文脈で考えるなら、選択肢は一気に増える。「改革のポイントは、非正規労働者に対するセイフティ・ネットの構築であり、雇用形態の見直しであり、もっと言うと、完全雇用を目指したマクロ経済政策ということになる」
若年層の雇用への影響と中小企業の雇用者の負担への対策に触れ、生活保護の給付水準の見直し、とりわけ医療扶助の問題を指摘する次の意見もある。
注1)最低賃金額は2012年度の地域別最低賃金の金額である。
注2)生活保護水準は最新データによる若年(12~19歳)単身世帯の生活保護実績(月額)を時間額に換算したものである。
注3)データは中央最低賃金審議会および埼玉地方最低賃金審議会の資料から筆者が抽出した。
金井伸郎氏(外資系投信投資顧問会社企画・営業部門勤務)の回答
「最低賃金の引き上げは、所得格差是正、特に貧困層対策としては一定の有効性を持つ」一方で、「若年層の雇用に与える影響が大きい」。「従って、最低賃金の引き上げに当たっては、若年層の雇用促進策などの対策を同時に手当てすることも必要となる」。
「雇用者側への影響としては、中小企業ほど最低賃金の引き上げの負担が相対的に大きくなる」。「これに対しては、中小企業が負担する賃金上昇分の価格転嫁を容認するなど、下請適正取引の推進が重要」である。
「生活保護給付水準と最低賃金水準における両制度間の整合性の問題については、生活保護の給付水準の柔軟な見直しが必要」である。
「さらに生活保護制度の維持のためには、モラル・ハザード対策が喫緊の課題」である。「具体的には医療扶助の問題」である。「今年度の保護費予算は3・7兆円となってい」るが、「この半分が医療扶助費とされてい」る。「生活保護対象者には医療費を自己負担なしの全額扶助としていることによる受給者の過剰受診というモラル・ハザードの問題、そして医療提供者側での生活保護対象者への過剰処方や患者の囲い込みなどのいわゆる『貧困ビジネス化』の問題がある」。
最低賃金よりも手厚すぎる社会保障制度の見直しを主張する意見もある。
中空麻奈氏(BNPパリバ証券クレジット調査部長)の回答
「下手に働くより、生活保護をもらったほうが裕福になれるなら、働く気力は失われ」る。「労働意欲をそぎ取るようなこの措置が、果たして、有効な制度なのか」疑問である。
「生活保護水準が高すぎるのか、それとも、最低賃金制度の水準が低すぎるのか、と考えると」、「やはり、生活保護水準があまりにも手厚いということなのではない」か。
「社会保障制度が充実し過ぎたことによって、国家財政は破綻の危機にあると問題を設定し直すと、日本の諸々の問題を比較的綺麗に整理することができ」る。「過剰な社会保障制度があることが、労働意欲を減退させ、ひいては労働市場に悪影響をもたらしている」。
「最低賃金が社会保障給付水準を下回っている現実は、社会保障制度にそろそろ見直しをしなければならない、という強いメッセージを発していると言えるのではない」か。
最低賃金制度の運用よりも、マクロな経済政策による経済成長を通じた問題解決を主張するのが、次の2人のエコノミストである。
津田栄氏(経済評論家)の回答
最低賃金と生活保護における逆転現象を解消するためには「経済を好転させ、デフレを解消して企業の収益が改善することが必要で」ある。「これまでの政府の対応を見ていると、硬直化した制度のもとで、小手先で問題を解決しようとしているだけで、根本的な問題であるデフレと経済低迷を解決して経済成長を図った上で生活権の保障を目指していく姿勢が見られないように思う」。
真壁昭夫氏(信州大学経済学部教授)の回答
「最低賃金と生活保護の逆転現象は、理屈から考えて合理性はない」ので、「最低賃金水準を引き上げて逆転現象を解消する必要がある」が、「地方の中小企業の経営者から、『最低賃金を引き上げると経営が成り立たない』という話をよく聞」く。経済専門家の中には「従業員に最低賃金を払えないような企業はなくなっても構わない」という議論があるが、そのロジックはやや乱暴だ。
「企業が強くなって、従業員に十分な給料を払うことができるようになれば、最低賃金を引き上げることにもそれ程の問題は生じない。」「現在の民主党政権を見ていると、経済全体が稼ぎ出すパイを如何にして分配するかばかりに目が行っているように見え」る。「そうしたポイントも重要であることは否定し」ないが、それ以上に国は「企業を強くして経済全体が稼ぎ出すパイをより大きくすることを考えるべきだ」。
日本の企業社会の構造的な問題がある以上、最低賃金だけをいじっても意味がないという意見もある。
水牛健太郎氏(経済評論家)の回答
「生活保護の給付水準は憲法の定める『健康で文化的な最低限度の生活』を保証する額であるはずなので、最低賃金はそれを上回るのが当然」である。「ただ、最低賃金というものには、実はそれほど意味がないのではないか。」「生活保護の給付水準よりも最低賃金が上回るべきだとする主張の背景には、『働いて苦労しているのに』という感覚があ」る。「要するに働くのは苦痛だから、その代償があるべきということで」ある。「働くのが楽しくて有意義なことならば、生活保護より給料が安くてもなお、働く方がいいはずで」ある。
「最低賃金にあまり意味がないかもしれないと思うもう一つの理由は、いろいろ抜け穴の手段もあるからで」ある。「日本の企業社会に構造的な問題がある以上、最低賃金『だけ』を上げたところで、どれほどの意味があるのかと思う」。
こうしたエコノミストの方々の意見は、いずれにも納得できる面がある。ただし、どれか一つの論点だけを取り上げて対策を講じても「もぐら叩き」のようになり、根本的な問題解決にはつながらないと思われる。労働者と企業の双方に配慮し、短期・中期・長期の各視点に立った雇用と産業の政策・戦略のパッケージが必要と思う。
(2013年1月 掲載)