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「失われた20年」と生活水準

  • 経済学研究科准教授川口 大司

2012年夏号vol.35 掲載

1990年代の初頭から続く低成長時代は「失われた20年」などといわれ、何か私たちがひどく暗い時代を生きているような印象を与えている。しかし、読者の中には20年前に比べて私たちの生活は豊かになったという実感をお持ちの方も多いかもしれない。ここでは主に労働の側面から統計数値と実感のずれが発生する原因を二つ指摘する。第一にこの20年の物価の下落が政府統計では完璧にはとらえられていないということであり、第二には余暇時間が増加していることである。

年収は横ばいでありながら、上昇する購買力

まず私たちの生活の豊かさを決める主因である賃金に目を向けてみよう。図1は賃金構造基本統計調査から計算される年収の推移を示している。広く指摘されているようにボーナスが2000年代に低下したことの影響で年収は2000年から名目では低下している。
この期間に物価が変動しているから、年収の購買力を知るためには物価水準を調整した実質年収を比較しないといけない。消費者物価指数は1985年から1995年にかけては増加していたが、その後ほぼ一定の値を取り2000年代に入ると下落するようになる。そのため名目年収が横ばいでも購買力は増加している可能性がある。しかし、この調整をしても1995年から2005年にかけての実質年収はほぼ一定である。
消費者物価指数を使って調整すれば、賃金の実質価値を計算することができたように思うが、微妙な問題が残る。実は消費者物価指数(CPI)にはほんの少しゆがみがあることが知られているのだ。これはCPIの上方バイアスと呼ばれている。

【図1】一般労働者の平均年収(単位:万円)
1985年-2005年、男女計

図1

注:厚生労働省『賃金構造基本統計調査』の「決まって支払われる現金給与総額」に12を乗じて、賞与等特別給与額を加えることで年収を計算した。企業規模10名以上で働く一般労働者の男女計の数字である。実質化に使ったのは総務省『消費者物価指数』である。実質年収は2005年価格。修正実質年収は1985年の実質年収が正しい数字だと仮定した時の系列である。

消費者物価指数は家計簿のデータから平均的な家計の消費バスケットを計算して、そのバスケットを購入するのにかかる費用の変化を追うことで計算されるのだが、人々は価格の変化に応じて消費行動を変えるから、バスケットの中身が価格上昇が大きい商品から価格上昇が小さい商品に置き換わっていく。このバスケットの中身の置き換えを統計調査では完全にとらえることができないので、どうしてもゆがみが出てしまう。また、価格を調査するにしても、同じ商品の品質向上をどうとらえるか、特売品の扱いをどうするのか、ディスカウントストアの扱いをどうするのか、などの問題があるために消費者物価指数の上方バイアスは避けえないものと考えられている。である以上、どれだけバイアスがかかっているかが問題であるが、年に0.5パーセントポイントという指摘から、1.8パーセントポイントという指摘まで幅がある。最近、一橋大学大学院経済学研究科の比嘉一仁は、これまでの手法とは別の手法を用いて、その大きさが0.5パーセントポイントであるという修士論文を提出した。
仮に消費者物価指数の上方バイアスを年0.5パーセントポイントとして、実質年収の系列を計算してみた。これによれば私たちの年収は1985年の412万円(2005年価格)から2005年には534万円まで上昇したことになる。消費者物価指数をそのまま用いると2005年の年収が487万円になるから、かなり大きな違いになる。
物価が下がっているから、年収が横ばいあるいは微減でも、購買力は上がっている。そのため、名目年収の動きをみるだけでは、私たちの生活水準の向上をうまくとらえられない。これが統計数値と私たちの生活実感のずれをもたらす第一の原因だといえる。

労働時間は減り、余暇時間が増えている

私たちの生活水準は主に消費水準と余暇時間の長さで決まっている。そのため、消費を支える実質年収の動きだけでは生活水準の変化をとらえるためには不十分で、余暇時間の変化もとらえる必要がある。余暇時間の変化を無視することが統計数値と私たちの生活実感のずれをもたらす第二の原因だといえる。図2に示すように15歳以上の男女すべてを含めた日本人の労働時間は1976年から2006年にかけて、1日当たり平均約350分から290分まで減少している。1日当たり約60分減少しているので、1週間で約7時間減少したことになる。
この労働時間の減少については、1987年の労働基準法改正の影響が大きい。労働基準法の改正によって法定労働時間は1988年4月1日より週48時間から46時間に減少した。さらに1990年4月1日からは44時間に、1994年4月1日からは40時間に減少した。このため、図2でも確認できるようにら1986年から1996年にかけての土曜日の労働時間の減少が著しい。1980年代半ばには土曜日に働いていたのが、1990年代の半ばには土曜日も休みになって、週休二日に移行したのを記憶している読者も多いと思う。

【図2】平均労働時間の変化
1976年-2006年、15歳以上男女計

図2

注:総務省『社会生活基本調査』の「通勤・通学」「仕事」「学業」「学習・研究」の時間を合計した。1981年は他の年と異なった形式で生活時間が聞かれており、比較可能性に乏しいため報告していない。

この労働時間の減少は、私たちの自由になる時間が増えたことを意味するが、余暇時間の増加を意味するわけではない。なぜならば、労働時間が減った分を家事や育児・介護といった活動に充てている可能性もあるためである。そのため、自由になった時間が何に使われているかを調べるという研究を米国テキサス大学のDaniel Hamermeshと韓国ソガン大学のJungmin Leeと行った。社会生活基本調査で調べた生活時間の変化は図3に示すとおりである。
この結果が示すように、家事・育児・介護などの家計生産の時間はほとんど変化していない。また、睡眠時間などの生命維持の時間もほとんど増加しなかった。よって、労働時間が減った分は、ほぼすべて余暇時間の増加となって表れた。読者の中には、高齢化が進んで引退した人が増えたためこのような結果が出たと思う人もいるかもしれないが、人口の学歴構成や年齢構成の変化を制御してもほぼ変わりのない結果を得ることができた。
もちろん、正社員とりわけ若年男性正社員の長時間労働が解消していないという指摘もある。しかし、経済全体でみたときに正社員の比率はほぼ30年の長期にわたり減少し続けている。その理由はともあれ、就業形態が変化したことも含めてさまざまな要因で日本全体での労働時間が減少し、余暇時間が増加してきたのは事実である。

【図3】平均生活時間の変化
1976年-2006年、15歳以上男女計

図3

注:総務省『社会生活基本調査』に基づく。家計生産は「家事」「介護・看護」「育児」「買い物」の合計時間である。生命維持は「睡眠」「身の回りの用事」「食事」「受診・療養」の合計時間である。余暇は「テレビ・ラジオ・新聞・雑誌」「休養・くつろぎ」「趣味・娯楽」「スポーツ」「ボランティア活動・社会参加活動」「交際・付き合い」の合計時間である。「移動」「その他」時間は各活動に按分した。「介護・看護」は1991年調査より導入されている。1981年は他の年と異なった形式で生活時間が聞かれており、比較可能性に乏しいため報告していない。

直面する課題の解決に向けて

「失われた20年」に実は生活水準が向上してきたことを示してきた。日本経済は今後、現役労働人口の減少を確実に経験するため、年金支給年齢の引き上げ、女性の就業率向上に向けた社会環境の整備、労働生産性の向上、といった困難な課題を一つひとつ解決していかなければならない。現状を極度に悲観してしまうと困難に立ち向かっていくための勇気が湧かないものだ。そんなときは、厳しかった「失われた20年」という逆境にあっても、私たちは着実に豊かな生活を手にしてきたということを思い出すといいかもしれない。

参考文献
Kazuhito Higa (2012) Estimating Upward Bias in the Japanese CPI Using the Engel's Law, Master's Thesis Submitted to Graduate School of Economics, Hitotsubashi University.
Jungmin Lee, Daiji Kawaguchi and Daniel S. Hamermesh (2011) Aggregate Impacts of a Gift of Time, NBER Working Paper 17649.
Jungmin Lee, Daiji Kawaguchi and Daniel S. Hamermesh (2012) Aggregate Impacts of a Gift of Time, American Economic Review: Papers and Proceedings 102 (3): 612-616.

(2012年7月 掲載)