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波多野聖氏×米倉誠一郎氏

  • 作家波多野 聖氏
  • 一橋大学名誉教授米倉 誠一郎

2017年春号vol.54 掲載

波多野氏の著書を読み、感銘を受けた米倉教授が「ぜひ『HQ』で対談したい」と呼びかけて実現した特別対談。
日本を代表する世界レベルのファンド・マネージャーとして鳴らした波多野氏のキャリア・ストーリーをベースに、就業論や日本の抱える構造的な問題、そして一橋大生への期待と話は広がった。

波多野 聖

波多野 聖

大阪府出身。1982年法学部卒業、同年に農林中央金庫に就業した後、野村投資顧問(現・野村アセットマネジメント)、クレディ・スイス信託銀行、日興アセットマネジメントにて株式ファンド・マネージャーとして活躍する。日興アセットマネジメントでは、業界初となる「藤原オフィス」という個人名を冠したセクションを持ち、後に独立。2010年に資産運用を引退し、小説家に。代表作に『銭の戦争(全10巻)』(ハルキ文庫、2012─2015年)、『メガバンク最終決戦』(新潮文庫、2016年)、『メガバンク絶体絶命』(同、2017年)、『悪魔の封印眠る株券』(ハルキ文庫、2015年)、『本屋稼業』(同、2017年)、フォーブスジャパンに『バタフライ・ドクトリン胡蝶の夢』を連載中。本名・藤原敬之としての著作に『日本人はなぜ株で損するのか?』(文春新書、2011年)、『カネ遣いという教養』(新潮新書、2013年)、コラム『カネ学入門』を週刊現代に連載中、文春オンラインにも寄稿。

米倉 誠一郎

米倉 誠一郎

経営学者(經營史)。2017年~一橋大学名誉教授。1997年~2017年一橋大学イノベーション研究センター教授。1977年社会学部卒業、1979年経済学部卒業。1981年一橋大学大学院社会科学研究科経営史専攻博士課程退学、1990年ハーバード大学大学院(GraduateSchoolofArts&Sciences=GSAS)歴史及び東アジア言語学科歴史専攻博士課程修了、博士(Ph.D.)(歴史学)。株式会社教育と探求社取締役、プレトリア大学ビジネススクール(GIBS)日本研究センター所長、認定NPO法人クロスフィールズスペシャルアドバイザー、認定NPO法人TeachForJapanアドバイザーなどを務める。

資料請求ハガキでつながった農林中央金庫に就職

米倉:波多野さんの『日本人はなぜ株で損するのか?』※1という、京都大学での講義録を大変面白く拝読しました。

※1 『日本人はなぜ株で損するのか?』:(2011年、文春新書)。著者名は、波多野氏の本名である「藤原敬之」となっている。

波多野:ありがとうございます。

米倉:紹介されていた「スクエア・ブロック・ルーズリーフ」※2は僕も早速使い始めていますよ。

※2 「スクエア・ブロック・ルーズリーフ」:9マスノートを使った情報整理術。

波多野:養老孟司さんや茂木健一郎さんなども使われてたと聞きました。ファンド・マネージャーとしていろいろな会社を訪問し、話を聞きながら頭の中を整理する最強の武器になりました。ぜひ活用してください。

米倉:ところで、波多野さんは1987年に一橋大学法学部に入られたのですね。

波多野:実は医学部に進みたかったのですが、高校2年の時に物理が苦手だと感じて文転したのです。3年になって突如理解できて、結果的に一橋大学は物理で受験したのですが(笑)。法学部を選んだのは、高校時代に見た「NHK特集」の為替ディーラーが「一橋大学法学部出身」とナレーションされていて、それが実にカッコ良かったからです(笑)。

米倉:法曹界に入ろうとは思わなかったのですか?

波多野:法学部に入ったからには弁護士や官僚も考えましたが、自信満々だった「民法総論」がB評価となって、その考えが冷めたように思います。それとともに、以前から好きだった映画をよく観るようになりましたね。一時は映画監督になりたいと思ったほどです。

米倉:映画『影武者』のエキストラのオーディションも受けたそうですね。

波多野:黒澤明監督の近くでその仕事ぶりが見られる貴重なチャンスだと思いましたから。しかし面接の当日、私は監督を怒らせることを言ってしまい、落ちました。面接は東宝の撮影所で行われたのですが、監督は「何でも好きなことを聞いてくれ」と。私は「監督の仕事を近くで拝見したいので、死体の役でもいいから使ってください」と言うつもりだったのですが、もの凄く緊張してしまい、そのセリフが全部飛んでしまったのです。そして、自分でも何を言っているのか分からない状態になり、最後に「ところで、監督は『影武者』で何をお撮りになりたいのですか?」と言ってしまいました。その場にいた全員が凍りつきましたね。そして、全員が一斉に監督のほうを振り向いた音がして、重苦しい空気の中「そんなもの撮ってみないと分からないよ」と監督の一言。あれほど緊張したのは、生涯2回だけです。もう1回は、ファンド・マネージャーとして任天堂の山内溥社長(当時)にお会いした時です。迫力、オーラが違いました。

対談風景1

米倉:黒澤監督の面接、それだけ緊張したんですね。それで映画の道はあきらめ、金融界に進んだわけですね。どういった経緯があったのですか?

波多野:就職先は給料が良くて楽な会社がいいと思ったのですね(笑)。当時、給料が最も良かったのが銀行でした。そこで、送られてきた就職情報誌を読んで、日本興業銀行(興銀)や日本長期信用銀行(長銀)がカッコ良さそうだと思ったわけです。しかし興銀は難しそうだったので、長銀を第一志望にしました。また併願のため、就職情報誌についていた資料請求ハガキから銀行を探し、片っ端から送ってみました。すると後日、農林中央金庫(農中)から「ハガキをいただきましたが」と電話がかかってきたのです。そこにハガキを出したという記憶はなかったのですが(笑)、とりあえず面接に行きました。すると、面接官が「ノルマはないし、毎日早く帰れるので、好きな映画も観られますよ」と言うわけです。これはいいと。それで農中に入ることにしました。

米倉:長銀に入っていたら、人生は違っていましたね。

波多野:その後、倒産した長銀から農中にも何人か移ってきましたから、不思議な縁を感じたものです。

自分の"切り口"を持つことを学んだ素晴らしい上司との出会い

米倉:農中では、最初はどこに配属されたのですか?

波多野:大阪支社で外為輸入業務を経て融資業務に就きました。そこでは、後にファンド・マネージャーになった際の基盤となるリスク・リターンを実体験できたことが大きかったですね。その後、東京本店の資金証券部に異動し、金融機関が発行する譲渡性預金などの短期金融商品を売買して運用するセクションに配属されます。ここに異動して、私は農中が数十兆円の国債を運用する世界最大規模のヘッジ・ファンドだったと気づいたのです。

米倉:そうだったのですね。

波多野:短期金利が勝負ですから、日銀の金融政策を徹底的に勉強しました。つまり、マクロから入ったわけです。その後、ミクロの株式の世界に行くわけですが、まずマクロを勉強できたことが大きかったですね。

米倉:著書では、そこで岡本恭彦さんという素晴らしい上司と出会えたことが書かれていますね。

波多野:私よりひと回り上の方でしたが、農中の利益をその後20年間で10倍にした本物の天才でした。近年、金融機関において現有資産の損失可能性を時価推移より測定する「バリュー・アット・リスク」と呼ばれる分析指標が当たり前のように使われるようになりましたが、岡本さんは30年以上前から「動態的金利感応度分析」として考案し、農中に導入していました。そうした業務面だけでなく、部下の面倒見が実にいい上司でもあったのです。よく"岡本塾"という飲み会を開いて、多岐のジャンルにわたる膨大な読書経験から、部下たちにためになる話をしてくれました。触発されて、私も歴史や哲学などの本をよく読むようになりましたが、これもまた、ファンド・マネージャーや現在の作家としての血肉になりました。こういう上司に巡り合え、仕える喜びを味わいながら仕事ができたのは本当に幸せだったと思います。

米倉:分かります。僕も一橋大学イノベーション研究センターで、野中郁次郎先生という上司に恵まれましたから。先生にはめちゃくちゃな面もありましたが(笑)、短期間ですが先生の研究の進化のために仕事ができる面白さ、喜びを感じることができました。そういう上司に恵まれるかどうかには、運不運がありますね。

波多野:そう思います。私が岡本さんに言われて、その後の人生が決まった重要な言葉があるのです。「藤原(波多野氏の本名)、情報のやり取りというのは、インサイダー情報を交換することじゃない。互いの"切り口"を交換することが本当の情報交換なのだ」というものです。自らの頭で考え、独自の意見をつくる努力を怠らないことがプロの世界でどれだけ重要か、ということです。岡本さんのところには、いつも経済紙誌の一流の記者が門前市をなしていました。岡本さんの"切り口"を聞きたいからです。

米倉:なるほど。自分の"切り口"を持つことは、あらゆる世界で必要なことだと思いますね。それで、その後は何をされたのでしょうか?

波多野:債券のディーリングセクションに移って300億円ほどのポジションを持ち"切った張った"をやりました。ここでは、1日で3億円の損を出し、必死にリカバーして当月内に10億円以上の利益を出したこともあります。凄く面白い世界でしたね。その後、いよいよ株式を運用する仕事に就きました。当時、時の大蔵省から農中が外国株運用の認可を得られる見込みになり、同期と2人で新たなプロジェクトチームの立ち上げを任されたのです。そして外国株運用のノウハウを磨くために、まずはロンドンとニューヨークの証券会社などに計1年3か月、研修を受けに行きました。この期間も素晴らしい経験ができましたね。帰国後、理想的な外国株運用のあり方を自分なりにまとめ上げ、認めてもらいました。自分たちの考えた運用の枠組みで数百億円の資金でスタートさせた外国株が後に2兆円超まで増やされたと聞いています。

就職とは"就社"ではない。
本当の職業人生は30歳を過ぎてから

米倉:それは凄いですね。そんな成果を出しながら、なぜ農中を離れることになったのですか?

波多野:1年後、ロンドンへの転勤を打診されたからです。ロンドンに行くことはかまわなかったのですが、仕事内容が管理業務ということだったので、断りました。当時30歳でしたが、マーケットで生きていきたいと思っていましたので、ここで離れるわけにはいかなかったからです。

米倉:ここで僕が学生諸君に言いたいことは、就職とは"就社"ではない、ということです。波多野さんは農中に就職したけれども、それはたまたまハガキを出したことがきっかけとなりました。しかも第一志望ではありませんでした。そこでたまたま配属された先で、リスク・リターンを学び、資金証券部に異動してマクロな視点を学び、素晴らしい上司に出会います。ここで、株式運用に天職を見出しました。かなり偶然が作用しているわけです。多分、天職は働いてみないと分かりません。まずはどこでもいいから働いてみることが重要です。しかし、今の学生諸君は初めからどこの会社にするのか、すなわち"就社"にこだわり過ぎているように思います。

波多野:そう思います。私は新卒採用に携わったこともありますが、学生が貸借対照表なども調べるなど、会社について非常に良く研究していることに驚きました。そこまでしないと受からない時代になっているのかもしれませんが、我々の頃とは大違いですね。

米倉:僕は、極論すれば就職先はどこでもいいと思います。社会に出てから、ある程度経験しなければ自分には何が本当に向いているのかなど分からないからです。本当の職業人生が始まるのは30歳を過ぎてからではないでしょうか。そこで気づいて、勉強し直すとか会社を替えるということがあってしかるべきです。22歳で人生すべてが決まるわけではない。日本では、未だに転職する人を敗者ととらえるような風潮があるのかもしれませんね。

波多野:巡り合わせということがありますね。本当に学ぶ必要性を痛感するから、必死に勉強するということでしょう。そういうモチベーションが大事だと思います。

米倉:そこで波多野さんは躊躇なく野村投資顧問(ニムコ:現・野村アセットマネジメント)に転じるわけですね。

波多野:農中では自分の資金を運用する仕事でしたが、ニムコは顧客の資金を預かって運用し手数料を得る仕事でした。つまり、運用ビジネスの本質を学べたと思います。そこでは、顧客に資金を託してもらうために、いかにニムコを信頼してもらうかというプレゼンテーションが大きな仕事となりました。たいていはコンペになります。海外へもよく行きましたが、これが大変でした。農中の時も英語を使う局面はありましたが、こちらが客としての立場でした。しかし、ニムコでは相手がお客様なのです。英語で相手を納得させなければなりません。天と地の差がありましたね。よって、コンペは連戦連敗です。さすがに落ち込みました。

英語を話すことよりも言いたいことを持つほうが重要

米倉:必死に頑張っても成果が出ない時は辛いですね。どのように打開していったのですか?

波多野:ある時、自分は相手に上手に伝えることばかり考えて、暗唱したハウスビューしか話していなかったことに気づいたのです。自分が本当に伝えたいことを話せていなかったのではないかと。そこで、暗唱したことを言うのをやめ、下手な英語でもかまわず自分の考えを伝えるようにしました。すると、不思議とコンペに勝てるようになったのです。おそらく、言葉に魂がこもったからではないかと思います。

米倉:僕も一応ハーバード大学のPh.D.ですが、英語なんかできないですよ。洒落たことは言えないけれど、言いたいことは言える。それでいいのではないかと思っています。今の英語教育に疑問があるのは、そこです。英語を話すことも大事ですが、それ以上に自分の意見を持つことのほうがはるかに重要なのではないかということです。

対談風景2

波多野:全く同感です。先ほど、農中の上司であった岡本さんに触発されてたくさん本を読むようになったと言いましたが、当時、岩井克人さんや青木昌彦さんの著作から実に多くのことを学び、自分の考えの骨格をつくることができたと思っています。英語は、アクセントさえ間違わなければ伝わるものですよ(笑)。

米倉:確かに(笑)。そして、波多野さんはニムコで6年経験し、クレディ・スイス信託銀行に移られたわけですね。

波多野:コンペで1勝してから自信がつき、ニムコでは結果的に1500億円ほどの英米の公的年金資金を日本株で運用しました。6年ぐらいすると、もっと自分の考えで運用したくなったのです。ニムコは大変立派な会社でしたが、いかんせん保守的でしたので物足りなくなったのです。そんな時に、クレディ・スイスから、ひどいパフォーマンスの200億円の日本株ファンドを改善してほしい、やり方は100%任せるという話が舞い込みました。二度とないチャンスと感じて飛び込んだのです。当時、クレディ・スイスの資産運用部門はCSAM(CreditSuisseAssetManagement)という別会社になっていました。CSAMは、世界中の富裕層から集めたお金を運用することが主業務です。私も年に数回、スイス本国を皮切りに、独、仏、伊のプライベートバンカーにプレゼンをして回りました。この時に心がけたのは、日本といえば"フジヤマ""ゲイシャ"しか知らない、わざわざ日本株に投資する必要性を感じていない相手に、いかに日本の魅力を伝えるかということです。たとえば富士通について説明する時、シーメンスと比較するわけです。すると相手にスムーズに理解してもらえました。

業界史上初の個人名を冠したセクションを用意される

米倉:なるほど、比較できる物差しを置いて説明したわけですね。それも一つの"切り口"ですね。

波多野:こいつの切り口は面白いから預けてみよう、と思ってもらえることが勝負の世界でした。結果的に1回あたり300億円ほど集めることができ、当初の200億円を4年後には2200億円まで増やしました。この功績が認められ、マネージング・ダイレクター(MD)、つまり役員に昇格します。ちょうど40歳になった時でした。

米倉:日本の大企業の役員就任では考えられない年齢ですね。

波多野:おっしゃるとおりです。全世界のMDが一堂に会する機会があるのですが、そこで私が驚いたのは、7割がた40歳前後だったことです。グローバルな金融機関で活躍し柱となる人材は、知力・体力で一番脂が乗っている年代なのです。日本の金融機関の役員とはひと回り以上の開きがありますね。待遇も、飛行機はファーストクラスですし、出張先のホテルは超一流です。年収も、プロ野球で活躍する選手並みです。遊び方も桁違いでした。

米倉:本にも書かれていましたが、ミーティングの最終日は相当派手に遊ぶんですね(笑)。

波多野:スポーツウェアに着替えて広い野原に移動すると、大爆音とともに本物の大型軍用ヘリ2機が現れました。この日のためにチャーターしたものです(笑)。我々はペアを組んでチームをつくり、1人は無線機とメロンを持ってヘリに乗り込み、もう1人は地上に残ります。機上の人間は、地上からの指示を受けてメロンを的に落とす、というゲームです。ちなみに私はヘリに乗り込むほうでしたが、この時、欧米人のエリートの遊びに対する感覚に触れて、いい経験ができましたね。

米倉:MDとしては、30人ほどの多国籍チームを率いて計1兆円を運用する責任者を務めたそうですね。苦労もあったと思います。

波多野:最初は苦労しましたが、組織の将来のビジョンのために今やるべきこと、という論法で話せば外国人は動いてくれるというコツをつかんでからは楽になりました。

米倉:日本人として稀有の世界的なファンド・マネージャーになられたわけですが、そのCSAMを離れて日本の投資信託会社の日興アセットマネジメントに移られました。

波多野:入社3年目にCSAMはアメリカの運用会社であるウォーバーグ・ピンカスを買収し、経営のまとまりがなくなったせいで人材が流出して経営が悪化しました。私も流出した1人です。ちょうどその時、日興アセットマネジメントから「藤原オフィス」という個人名を冠したセクションを用意する、という誘いがあったからです。個人名を冠したセクションなど業界史上初のことでした。とはいえ、数年後に独立するという条件をつけ、2005年に「藤原オフィス」の業務を引き継ぐ形で独立します。しかし、2008年9月に発生したリーマン・ショックにより、1日で資産が半減するほどのダメージを被りました。自分の給料を返上してリカバーに取り組みましたが、厳しかったですね。それでこの道から退き、作家に転身することにしたのです。

自分ほど「株価とは何か」を考えた存在は世界にいない

対談風景3

米倉:ファンド・マネージャーとしてのご自身を総括すると、どう評価されますか?

波多野:あまたの企業の財務諸表を分析したり、私の何倍もの企業を訪問したりするファンド・マネージャーはいましたが、私ほど「株価とは何か」を考えた存在は世界でもまれだと思います。そこには自信を持っています。世界経済の潮流をつくったサミュエルソンは、極論すれば、経済は初期設定さえちゃんとやれば、後は微分方程式で解を求めることができると言いましたが、私は株価は違うと感じました。難しく言えば、確率過程の形成と確率変数の認知の連続的行為がファンド・マネジメントということなのですが、それをどのレベルで考えるかが重要です。そして私は、数学だけでなく、哲学も援用できると気づいたのです。哲学者の木田元さんの紹介するハイデガーやフランス構造主義哲学を勉強したのですが、レヴィ・ストロースの神話研究を読んだ時、株価分析に応用できると気づきました。そういった奥の深さを追究したことが実績につながったと思いますね。

米倉:うーん、株価とレヴィ・ストロースが結びつくところがただ者ではないですね(笑)。これも本に書かれていましたが、温泉旅館の部屋に寝転がった時に、ふと見上げた天井の格子に株価の構造を考えている自分に気づいたと。頭の中はつねに株価のことで占められていたわけですね。まさに天職だったと思いますが、そんな波多野さんが作家になったのには、どんな経緯があったのでしょうか?

対談風景4

波多野:以前からファンだった文芸評論家の福田和也さんとたまたま銀座の理髪店で隣同士になったのです。当時福田さんは『en-taxi』という文芸誌で角川春樹さんが主宰していた俳句教室企画に関わっておられて、私を誘ってくれたのです。それを機に、『en-taxi』で小説を書かないかと勧められ、『疑獄小説・帝人事件』を書かせてもらいました。すると、春樹さんからも「ウチでも書いてよ」と頼まれて、ハルキ文庫から『銭の戦争』シリーズを出させてもらうことになったわけです。波多野聖というペンネームを考えてくれたのも、春樹さんです。

米倉:波多野作品はエンターテイメントでありながら、歴史や哲学などの本によく親しんできた蓄積がものを言っている。作品を通じて、どういったことを伝えたいと考えているのですか?

波多野:一つは、フィクションの形でしか書けない真実がある、ということです。本当に言いたいことは、フィクションでしか言えない。もしノンフィクションで出したら、私は抹殺されるかもしれない(笑)。それともう一つは、日本人をもっとしたたかな存在にしたいとの思いがあります。ナイーブさを棄て、したたかさとプライドを持った日本人を世界戦略の中で浮かび上がらせたいというテーマが基調にあるのです。

米倉:なるほど。

"KY"が支配する世の中ではなくロジックで議論し改革する必要性

対談風景5

波多野:拙著『メガバンク最終決戦』(WOWOWでドラマ化)で、主人公の金融機関トップが「自分には4万人の行員と家族の生活を守る責任がある」と言うのに対して、悪役に「そんなことを言ってるから日本がダメになるんだ」と言わせています。私が言いたいことは、まさにそこに凝縮されているんです。

米倉:よく分かります。僕は日本という国が好きだし、頑張ってほしいと思いますが、このままだとまずいという危機感が強くあります。雇用を守るとか、目先の利益を追わないなどと耳障りのいい言葉を吐きながら、低い利益率の言い訳にし、さらに問題なのは優秀な人材を飼い殺しにしている。まさに、そんなことを言っているからダメになっている感じです。また、少子化もフランスのように、社会的なタブーにも触れるような抜本的解決を進めない。

波多野:高齢者の資産は強制的にでも若い世代に移す必要性があると感じるほどです。それぐらいしないと、少子化は止まらない。

米倉:それと、年初に企業の時価総額ランキングを見て愕然としました。アメリカではアルファベットやマイクロソフト、フェイスブックといったイノベーティブなプラットフォーマーが上位を占めているのに対し、日本はトヨタ自動車の1位はともかく、かつての電々、郵政、専売などの公社やドメスティックな銀行が上位を占めています。インターネットやIoT・AIをベースに世の中を動かそうとするプラットフォーマーが不在なのです。この20年間企業の新陳代謝が遅れている。ここに最大の問題があると思います。

波多野:以前、日本の総合電機メーカー5社とGEを比較したことがあるのですが、日本の5社はGEの3倍の人間を使って利益はGEの0.4倍です。つまり、日本は5社でワークシェアリングをしているわけですね。日本社会にはそういう価値観があるということです。

米倉:僕は、その価値観が相当な制度疲労を起こしていると思っています。そういう社会にあって、確たるロジックを持って議論を進め、改革していくことが問われていると思うのですが、現実は"KY"という言葉に象徴される「流れる空気」が思考を支配している。

波多野:この国にディベートはありませんね。議論で相手を納得させるのを良しとせず、空気を尊重するところがあります。しかし、その怖さに気づく必要もある。先の戦争は、まさに空気で突入していったからです。

対談風景6

米倉:まさに失敗の本質でしたね。したがって、若い学生諸君こそ"KY"などに怯まずに、もっと世界に出ていき、異質な人たちとロジックを鍛えてほしいものです。

波多野:私の京都大学講義が大いに受けたというのは、普段、学生は知的な刺激を受けていなかったということかもしれません。そういう意味では、大学はもっと知的な刺激を与える授業をしなければなりませんね。

米倉:波多野さんのキャリア・ストーリーを見れば分かるとおり、テクニックやさらに深い勉強は社会に出てからも学ぶことができる。ですから、大学ではもっと考える力、ロジック、さらには旅をする、異文化を知るなどを体験してほしいですね。一橋大学には"Captains of Industry"という建学の精神があります。一橋大生には、波多野さんのようにプロフェッショナリズムを極めて、日本や世界に貢献する責務があると思います。ただその資質には、小手先のノウハウではなく、考える力や深い教養が必要だということを今日のお話から実感しました。

波多野:私も後輩の活躍を大いに期待しています。

(2017年4月 掲載)