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"誰もが「健康」を享受できる社会"という理想を追いかけ、道なき道を歩む

  • 医師長嶺 由衣子氏
    (日本内科学会認定医、日本プライマリ・ケア連合学会専門医・指導医、認定産業医)

2017年秋号vol.56 掲載

一橋大学社会学部を卒業後、医学部へ学士編入。沖縄で離島の一人医師として2年間へき地医療に取り組み、その後は東京での地域医療の傍ら公衆衛生を学ぶ医学博士課程に入学。英国でも社会疫学・公衆衛生を学び、感染症の駆逐に携わり、現在は日本のプライマリ・ケアや高齢化対策、介護予防のエビデンスづくり、政策評価などの研究に邁進する。そんな長嶺由衣子の経歴や肩書を知れば、それらは一橋大学の卒業生にあって異端と思えなくもない。しかし、本人は"一橋大学らしさの体現者"と自分を語る。その理由とともに、長嶺が遭遇してきた出来事、歩んできた人生、そして実現したい理想の社会に迫った。(文中敬省略)

長嶺 由衣子

長嶺 由衣子

1981年生まれ。2005年社会学部卒業。同年長崎大学医学部3年次学士編入学、2009年同大学同学部卒業。沖縄県立中部病院での初期・後期研修(プライマリ・ケア・コース)を経て、2012年より沖縄県立南部医療センター・こども医療センター附属粟国診療所の所長を務める。2014年に千葉大学大学院医学薬学府博士課程(公衆衛生学)に入学し、現在も在学中。2015〜2016年には英国・ロンドン大学修士課程(社会疫学・公衆衛生)修了、熱帯医学専門職ディプロマを取得し、2017年より世界エイズ・結核・マラリア対策基金(The Global Fund to Fight AIDS, Tuberculosis and Malaria)の戦略情報部で支援活動にも携わる。

"誰もが「健康」を享受できる社会"という理想を追いかけるために

ロンドンに留学した時

ロンドンに留学した時

インタビューを行った今年7月、長嶺はスイスにいた。そこはジュネーブに本拠地を置くグローバルファンド「世界エイズ・結核・マラリア対策基金(The Global Fund to FightAIDS, Tuberculosis and Malaria)」。三大感染症といわれるエイズ・結核・マラリアは世界で年間300万人以上もの命を奪い、途上国の発展を妨げる重大な要因となっている。グローバルファンドは2000年にG8九州・沖縄サミットで提唱されたことがきっかけとなり、三大感染症対策のために各国から受けた資金を最大限効果的かつ戦略的に活用するための基金である。ここで長嶺は受益国のパフォーマンス評価を行っていた。

「資金がどのように使われ、どのような成果を生み出しているか、実績を精査する任務です。成果があった国となかった国の差異や、その原因についても可能な限り明らかにしていきます。過去の実績と毎年の成果が資金拠出に反映されるので、受益国にとっては継続して支援を受けるためにも重要な評価になります。ただし、感染症対策においては必ずしも成果や実績だけで継続支援をするか否かを決めるわけではありません。国の予算規模や各疾病の負担から明らかに必要な国があるからです。私にとっては、パフォーマンス評価の手法を学ぶ機会になりますし、帰国後の研究活動に活かすために赴きました」
この任務の前に、英国・ロンドン大学の修士課程(社会疫学・公衆衛生)、医師向けの熱帯医学専門職ディプロマで1年半スキルアップに励んだ長嶺は今年8月、日本に帰国。2014年から籍を置く、千葉大学大学院医学薬学府博士課程に復学した。健康の社会的決定要因や、高齢化、地域包括ケアシステムの構築、地域における介護・医療関連情報の"見える化"などを研究領域とする近藤克則教授の研究室に戻り、現在は論文の完成に向けて研究に取り組んでいる。
「この大学院に入学したのは、健康格差を埋める先進的なアプローチを研究したいと思ったからです。今後は医療・公衆衛生・社会疫学の専門家という立場から、日本の高齢化対策、プライマリ・ケアや介護予防のエビデンスづくり、政策評価などの研究を進めていきたいと思っています」
長嶺の関心事は、一橋大学時代から一貫している。健康であるための予防であり、それを実現するための医療政策であり、社会に定着させるための仕組みづくりである。そして、必要と感じたスキルや経験があれば、得るためにすぐアクションを起こす。"誰もが「健康」を享受できる社会"を理想と考える長嶺だが、説得力ある医療政策を語るために卒業後は医師となり、日本一厳しいといわれる医師臨床研修を行う沖縄県立中部病院で3年間の研修を行った後、大学院に入学するまで離島で診療所長を務めた。どのような出来事が長嶺のアクションにスイッチを入れ、突き動かしてきたのか。これまでの道のりを辿ってみたい。

インドのスラム街で目撃した医療だけでは解決できない問題

スイス・ジュネーブ時代の同僚たちと

スイス・ジュネーブ時代の同僚たちと

長嶺は子どもの頃から健康や医療に関心があったわけではない。聞けば最初のスイッチとなったのは、世界中が固唾をのんで見守った東欧革命の象徴的な事件。1989年11月に起きた"ベルリンの壁崩壊"だった。
「当時は小学生で、ハンマーを持った無数の市民が殺到する様子をテレビで観ていました。単純に"大の大人が壁を壊して歓喜しているのはなぜ?"と大きな衝撃を受けたのです」

この出来事がきっかけで長嶺は世界情勢に興味を持ち、世界がどう動いているのかを詳しく学びたくなったという。
国立高校出身の長嶺は、大学受験の時期を迎え、憧れでもあった一橋大学に入学。社会学部で政治学や医療人類学を専攻する一方で、国際協力や途上国への支援に関心が強かったことから早々にアクションを起こす。海外インターンシップ事業を運営する世界最大級の学生組織、アイセック(AIESEC)一橋大学委員会での活動だ。
「1年生の時に、インド現地のNGO(国際協力に携わる非政府組織)の協力を得ながらホームステイツアーを企画したことがありました。訪れたのはインドのスラム街です。2週間ほど滞在しましたが、1日1ドル以下の貧しい生活をしている人々は病気になっても病院に行けません。そして、本当に生きていけなくなるのは家族の誰かが健康を害した時。そんな現実を目の当たりにしたのです。医療従事者がいても薬があっても解決しない、人が協力しなければ解決できない問題が世界にはたくさんあることに気づきました」
この体験は長嶺にとって第2のスイッチとなり、人々の"健康"に関わりたいと願う原体験となった。そして、人々が健やかに生きられる仕組みづくりの必要性を感じ、"医療政策"に強い関心を持つ。

説得力ある医療政策を語るために目指した"医師"

医療政策と聞くと、国が担う健康保険制度や社会保障制度を想像しがちだが、その範囲は広い。病気の予防や病人の管理に貢献できる政策領域は多岐にわたり、地域に根差した包括ケアシステムや医療構想、社会的インフラなども含まれる。超高齢社会へと突き進む日本において、経済・文化・医学などによる多面的なアプローチが健康に寄与する政策づくりに欠かせないのが現状だ。

そういう意味では、一橋大学の象徴である社会科学は医療政策の探究に相応しい学問といえる。しかし4年になった長嶺は、周囲を驚かせる決断をする。"医師"を目指すことにしたのだ。
「医療政策を語るにしても、医療現場でできることやできないことを把握し、現場感覚がないと説得力に欠ける。何かを変えようと思った時に社会を動かせない。そう思ったのです。一方で、医学を学ぶことは国境を超えられる専門性を身につけることであり、世界中どこにいても同じ視点で人間を見つめることができると思ったのも、医師を目指すことにした理由です。もちろん悩みましたし葛藤もありました。父に話した時も"医療政策に携わりたいなら、医学よりも社会科学を究めるほうが近道では?"と問われて即答できませんでした」
決断の後押しをしたのは、四大学連合(東京医科歯科大学・東京外国語大学・東京工業大学・一橋大学による相互教育研究プログラム)の講義だったと長嶺は当時を振り返る。
「講義のテーマは医療経済学で、経済学者、医師、患者それぞれの立場の方がオムニバス形式で行う講義でした。現場の現状と限界を踏まえて医師が語る医療経済学の視点が自分の中で最もしっくりきました。それで迷いが消えて医学部3年次学士編入学を受験しようと決めましたが、そもそもの倍率が非常に高く、文系出身者は合格率が低いといわれていたため、一度受験して失敗したらほかの道を考えよう、と自分を追い込んで挑みました」
長嶺は一橋大学4年次に、受験倍率が約100倍という狭き門を突破し、第1志望の長崎大学医学部3年次学士編入学試験に合格。2005年の卒業と同時に長崎へ向かった。しかしなぜ長崎だったのか。
「2つ理由がありました。日本の大学で唯一"熱帯医学研究所"を持つ医学部であり国際保健のネットワークが築けること、また日本一離島を抱える県でもあり、"離島・へき地医療"を身近に学べる場であったことです。長崎の熱帯医学研究所では、アジア・アフリカの熱帯地域での感染症を主とした疾病や健康に関する諸問題の克服を目指した研究が行われています」
2009年、長嶺は当初の目標どおり4年間で長崎大学医学部を卒業し、沖縄へ向かう。沖縄には日本で唯一、離島で一人の医師として、赤ちゃんからお年寄りまで全ての年齢層を対象とし、緊急疾患からがん、高血圧、糖尿病などの普段の疾患、そして予防接種などの予防まで幅広く診療することのできる医師を養成する沖縄県立中部病院がある。
「沖縄には指定離島とされる54の島々のうち、39島に人が住んでいます。そのうち約20の島では診療所が一つで、医師1人、看護師1人、事務員1人で診療をしています。沖縄県では第二次世界大戦の陸上決戦で医師が県全体で60数名にまで減ったこと、元々離島が多いという背景から、臓器別に診療ができる医師とともに、人間を臓器に分けずに全身診療することができ、緊急から日常の疾患まですべて診ることのできる医師の育成に長けています。沖縄県立中部病院では、戦後からずっとハワイ大学からのアメリカ人医師が指導医として研修医を指導してきたため、米国式の研修スタイルが今でも受け継がれています。日本一厳しいといわれる研修病院でしたが、離島の医師になるために必要な知識、技術、度胸を身につけることができました。離島医師としての仕事は、少し前にドラマになったドクターコトーの世界です。365日24時間オンコールで、島の方々の生活に密着して診療を行う毎日がドラマ以上にドラマのようなハードな毎日でしたが、島の方々や離島医師の診療をサポートする県や県立病院、ドクターヘリや自衛隊ヘリの方々のおかげで、医師として、人として、得難い経験をさせていただきました」
離島に赴任する医師は、医療に関するすべての領域に関わる。内科・小児科・外科・整形外科・皮膚科・精神科などすべての診療科に対応し、入院や手術などが必要な場合は初期治療を行いながら緊急度を見極め、ヘリコプターや船で本島の病院へ紹介する。また、島内の老人ホーム嘱託医や学校医も行い、果たすべき役割は実に多い。

"地域をまるごと治療する"ため離島の診療所に赴任

研修を終えた長嶺は、2012年満を持して離島の医師となった。沖縄県の粟国島じまで唯一の診療所の所長として奮闘する日々が始まる。あらためて、この道を選んだ理由を尋ねてみた。
「"地域をまるごと治療できる医師"になりたいと思いました。どのような患者さんがいて、どのような生活習慣や文化・歴史を持ち、どのような問題や悩みを抱えて病気に至るのか。地域全体を見渡すことができれば、上流まで遡ることができます。さまざまなデータを集めれば、エビデンスを基にして地域の健康課題を探ることもできます。どこにアプローチしたら疾患の発症や重症化を防げるかを知るためです」
そして、長嶺には秘めた思いもあった。
「太平洋戦争の沖縄戦で生き残ってくれた祖父母への感謝の気持ちです。健康であっても生き残れなかった時代ですが、生き残った方々は後に沖縄が日本一の長寿県となるのに寄与されました。ちなみに、一橋大学時代の卒業論文は"戦後沖縄の公衆衛生政策"とし、特に戦後沖縄のマラリア、ハンセン病対策をテーマに取り組みましたが、この研究の中で沖縄の当時の医療や感染症対策のあり方を研究したことも、この道を選んだきっかけになっています」

ここで粟国島について説明をしておこう。粟国島は那覇から西北60㎞に位置する人口約800人の離島だ。人口減少は続き、高校がないことから子どもを持つ家族の大半が進学を機に島外へ流出してしまう。65歳以上の人口が占める割合は3人に1人を超える。つまり、診療所を訪れる島民の大半がお年寄りである。
「赴任して驚いたことは、緊急ヘリ搬送数の多さです。沖縄県で一人診療所長がカバーしている離島は当時16か所ありましたが、その中でも粟国島はダントツの1位でした。なぜこんなに小さな島で、年間53件という人口が2倍近くある他の島の2倍もの搬送があるのか疑問に思いました」
脳卒中や心筋梗塞、重度の交通外傷などの緊急手術や集中治療、診断に緊急のCTやMRIなどを必要とする場合、患者は本島の病院にヘリコプターで搬送される。本島周辺の離島からの搬送では、粟国島からの搬送が全体の約4割を占め、搬送者の75%は65歳以上の高齢者だった。さらにこの内の3分の2は老人ホームではなく在宅の高齢者であることがわかった。1日に3回搬送することもあり、時間外診療が月に100時間を超えることも当たり前だったという。
「そこで動き始めました。休日やお昼ご飯の時間、往診の時間などを使って、島内のご高齢の方の家は最初の2か月でご挨拶も兼ねて回りました。重症化する前に"予防"する道があると考え、まずは粟国島の人々や日々の暮らしや文化背景、暗黙知を知ろうと島の方々に釣りから沖縄の唄うたさんしん三線、お酒の飲み方などさまざまなことを教えていただき、季節の行事や神事にも参加しました。仕事でも、島内の保健に関わる役場や社会福祉協議会の方々とも定期的に集まる場を設け、島内の独居高齢者、老老介護世帯の状況の把握を進め、限られた人材と資金を調整しながら、独居高齢者の方々の健康問題をいち早くピックアップできるように、島内の"見回り"システムを導入しました。最終的には、百数十名の対象者を拾い上げ、介護ヘルパーさんに週2回2〜3時間、1日に6〜7名ずつ島内のご高齢の方の家を見て回っていただき、ちょっとしたおしゃべりと同時に血圧を測っていただくことにしました」

粟国島の風景

地域をまるごと治療したい。その思いから、沖縄県粟国島で唯一の診療所の医師に

地域をまるごと治療したい。その思いから、沖縄県粟国島で唯一の診療所の医師に

独り暮らしの高齢者世帯からピックアップして見回りを始めると、いろいろなことが明らかになったという。

役場や社会福祉協議会の方々と協力し、島内の

役場や社会福祉協議会の方々と協力し、島内の"見回り"システムを導入

「元気そうに見えてあまり食事を摂れていない方や、体調が悪くても本島の病院に薬だけもらいに行って帰ってくる方、本島にいる家族から薬だけを送ってもらって飲んでおり、必要な薬の調整が行われていない方もいました。独り暮らしで自宅にこもったままでは、たとえば熱中症にかかっても手遅れになりかねません。見回りの後は必ず診療所によっていただき、その日の観察結果を報告していただくことにしました。その中から医学的に気になる方がいたら、急いだ方が良さそうであれば次の日に診療所に来ていただくように電話をかけたり、来るのが難しそうであればこちらから往診したり、役場や周りの方にお願いして診療所まで連れてきていただくなどして、症状が悪化する前に早めに対処することができるようになりました。また、健康診断などに普段行かず、血圧が200を超えていても気づいていない方々なども複数見つかり、早期に治療につなげることができるようになりました」

この見回りを地道に続けたことが功を奏し、ヘリ搬送者数は1年で半減したという。前後のヘリ搬送者数の変化をグラフで示し、保健を担当する課の課長を通して村議会に提出。次年度以降の見回りの定期予算確保にもつながった。長嶺は、次の言葉を関係者から聞いた時の嬉しさが今でも忘れられないと話す。
「見回りを始めたことで、島の人たちの顔がまた見えやすくなった。こうやって結果を見える形にして見回りを継続できる形にできたのもとても嬉しい。島の人たちの健康のために、自分たちにやれることとやり方がわかったことが嬉しい」
医療従事者だけではなく、地域の人々もそれぞれの立場から当事者となって病気の予防や健康に取り組む。それは、長嶺が理想とする医療政策の形であり、"地域をまるごと治療する"ことの本質といえる。

健康や予防の仕組みづくりは、医療従事者でなくてもできる

粟国島で診療所長を務めた2年間は、長嶺にとって第3のスイッチとなった。
海外でも臨床家として貢献できる医療スキルと現場経験を糧に、活動のスケールを社会に向けて広げていきたい。そんな想いがきっかけとなって長嶺は2014年、現在の活動拠点となっている千葉大学大学院医学薬学府博士課程に入学する。その後の道のりは冒頭で紹介したとおりだ。
「たとえば予防を行うためには、人々の生活や文化、ストレスを受ける環境、人生観や生き方といったバックグラウンドの理解が重要になります。そういう意味では、医療従事者だけが予防に関わる必要はないと思うのです。ましてやシステム構築では、医学よりも社会科学に長けた人のほうが実現しやすいはずです」
実際に英米や国際機関では、病気にならない人を増やす予防政策に、医師というバックグラウンドを持たない公衆衛生を学んだ専門家が多く、積極的に関わっているという。
医療政策のイノベーションに向けてつねに目的意識を持ち、目の前の困難に困難と思うことなく挑み、医師としての知識・技術・経験と社会科学的アプローチによって答えを探し続けてきた長嶺。目指しているゴールを尋ねてみた。

「私が実現したいのは、健康や予防に関わる人材のシステマティックな育成であり、育成された人材が地域の中や行政、企業、NGOなどさまざまなステイクホルダーの中に入り込んで活躍できる仕組みづくりです。医療者や介護福祉の人たちだけが関わっていた時代から、地域社会にあるリソースをすべて使って、できるだけエビデンスに基づいた形で、予防につなげていく時代への変化が必要だと考えています。日本社会の中では特に、高齢化社会、コミュニティへの対策です。そのためにも、公衆衛生や疫学(公衆衛生政策で必要となる根拠をデータから統計的に導く学問)の基礎を学び、地域の疾患や健康問題のあり方を明らかにする術を身につけ、地域やさまざまな組織でも動けるコミュニケーション能力と技術を持った人たちを増やしていきたいと思っています。ストックされている過去のデータやエビデンスを有効に使って効果的なPDCAサイクルを回し、さらなる評価とエビデンスを積み上げていく。もちろん、これは10年、20年かけて取り組むスケールの話で、実現するためにはニーズの掘り起こしや市場の開拓も必要です。ただ、健康というテーマは比較的誰もが賛同しやすく、社会が動きやすいと思うので、これからも根気よく積極的にアクションを起こしていきたいと考えています」

インタビューを進めるほど、長嶺は社会のために動き、自分に投資し、世の中を変える力になろうとしているように思えてならない。彼女を突き動かしているものは何だろう。
「目の前にいる人たちに、元気で自分のやりたいことを実現してほしい。そんなシンプルな気持ちだと思います。健康でないと何もできませんし、健康である権利はすべての人々に享受してもらいたい。そのために自分の強みをどのようにして社会に還元するかをつねに考えていきたいと思っています」
長嶺は自分のこれまでを振り返り、「道なき道を歩いてきた気がする」と答えた。辿ってきた道のりを知れば、一橋大学の卒業生にあって異端と思う向きも多いだろう。しかし、長嶺は極めて一橋大学出身者らしい人生を歩んでいるともいえる。"キャプテンズ・オブ・インダストリー"という言葉が最も似合う卒業生の1人ではないだろうか。

粟国島の風景1

粟国島の風景2

粟国島の人々を知り、暮らしや文化背景を知ろうと、季節の行事や神事に参加した

(2017年10月 掲載)