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自分のつくった曲がずっと人に寄り添い続けていくことが、希望につながる

  • ソングライター、ギタリスト、いきものがかりリーダー水野 良樹氏

2018年冬号vol.57 掲載

『SAKURA』『ありがとう』『YELL』...... 2006年にメジャーデビューしてから、誰もが一度は聴いたことがあるであろうヒット曲の数々を送り出し、2017年1月に"放牧" 宣言し丸10年の活動を休止した音楽ユニットの"いきものがかり"。そのリーダーであり、作詞・作曲やギター演奏を手がける水野良樹は、2002年に一橋大学社会学部に入学後、2年次からプロを目指して音楽活動を本格化させた。そんな水野にとっての一橋大学での学生生活や、"いきものがかり"成功の要因、そして音楽活動の意義などについて話を聞いた。(文中敬称略)

水野 良樹

水野 良樹

1982年12月17日神奈川県出身。2006年一橋大学社会学部卒。1999年2月、小・中・高校と同じ学校に通っていた水野良樹と山下穂尊が、"いきものがかり"を結成。同年11月、同級生の妹、吉岡聖恵が"いきものがかり"の路上ライブに飛び入り参加したことがきっかけで"いきものがかり"に加入。2006年メジャーデビュー。デビューシングルの『SAKURA』をはじめとして作詞・作曲を担当した代表曲に『ありがとう』『YELL』『じょいふる』『風が吹いている』など。グループは2017年1月"放牧"宣言を発表。国内外を問わず、さまざまなアーティストに楽曲提供をするほか、ラジオ、テレビ出演、雑誌、web連載など幅広い活動を行っている。現在、J-WAVE「SONAR MUSIC」(木曜日)にレギュラー出演中。

漠然と社会学が面白そうと感じ、一橋大学を志望

インタビューの様子1

"いきものがかり"は、水野のほかにボーカルを担当する吉岡聖恵、ギターと作詞・作曲も手がける山下穂尊の3人からなる音楽ユニット。10年間で、メジャーレーベルから32枚のシングルCD、7枚のオリジナルアルバム、3枚のベストアルバムなどをリリースした。オリジナルアルバムのうち5作品はヒットチャートの1位に輝いている。日本レコード大賞優秀作品賞は7回、日本ゴールドディスク大賞は2回受賞。NHK紅白歌合戦には8年連続で出演と、まさに日本を代表するJ-POPグループの一つとして大活躍した。
神奈川県海老名市出身の水野と山下は、小学校時代の同級生。吉岡は同級生の妹という仲だ。1999年2月、同じ高校に進学し再会した水野と山下が組んで音楽活動を始め、小田急線・相模大野駅周辺での路上ライブやライブハウスでの演奏を行った。「地元は海老名や本厚木ですが、地元だと恥ずかしかったのと、海老名駅周辺には人が集まるスポットがなかったので、相模女子大学のある相模大野に流れました。9か月後に歌がうまい吉岡が加わってからは、もう大丈夫だと海老名や本厚木でも演奏するようになりました」と水野は述懐する。ユニット名は、水野と山下の唯一の共通点が小学校の"生き物係"であったことから付けた。翌年、水野と山下の大学受験のため、活動を休止。水野は当初から一橋大学社会学部を進学先に選んでいた。「社会学者の宮台真司さんが出演するテレビ番組を見て、漠然と社会学が面白そうと感じたのです。そこで調べてみると、社会学部のある東京の大学の中に一橋大学があって、単純にそこに行こうと考えました。そう友だちに話すと、『何を言っているの?お前には無理』と言われました。それぐらいよく分かっていなかったのです」と水野は笑う。

中学時代の野球部退部が原点に

インタビューの様子2

しかし、せっかくだからと受験するもあっさり不合格。併願していた明治大学には合格し入学する。ところが水野は"仮面浪人"を装い、大学生活を送りながら受験勉強を続け、翌年に一橋大学社会学部に合格したのだ。その経緯を、水野は次のように打ち明ける。
「中学時代に好きで野球部に入り、部活に打ち込んでいました。ところが、顧問の先生とぶつかって退部してしまったのです。このことが15歳の自分には大きなショックでした。元々それほど社交的なほうではなかったのですが、その後、人とのコミュニケーションがうまくできなくなるほどのダメージとなり、半年ほど誰とも話したくなくなってしまった時期がありました。誰から言われたことでもなく、自分が好きで始めたことを投げ出したことが、自分でもショックだったのです。そのことをずっと引きずっており、『一度目指した大学を諦めていいのか。このままではいけない』と。18歳の時、一橋大学に不合格となった自分はそう考えたのです」
明治大学には行かず浪人するという選択肢もあったが、親に相談すると「大学に入れるまでは親の責任だが、浪人はお前のわがままで、うちにはお前を浪人させる余裕はない」と言われ、水野は即座に納得する。そこで、一橋大学の入学金や授業料を計算し、私立の明治大学に3年間通うよりも国立である一橋大学の4年間のほうが安いことを親にプレゼンテーションし、理解してもらった。こうして"仮面浪人"というイレギュラーな受験生活を送ることになった。
「明治大学の1年間は、親に衣食住の面倒は見てもらったものの、自分なりにアルバイトをして授業料の一部を稼ぎ、ランチ代はいくらまでなら使えるかを計算してその範囲内で済ませるようにするなど、いわば生活力のようなものが少しでも身についたのは良かったと思います。けれども、毎日朝から晩までずっと外にいたので、思ったように勉強はできませんでした。親にプレゼンテーションして大見得を切ったものの、思ったようにはできない等身大の自分に気づいたこともいい経験でした」
精神的にも肉体的にもきつい1年間ではあったが、無事に一橋大学に合格し、水野は抱え込んでいた積年の自己否定意識から逃れることができたという。「一番近くで見てくれていた母親からも『乗り越えたね』と言われましたが、ずっと引きずっていた、思春期の一番ひねていた時期に起こしたトラブルからやっと解放された感じがしました。好きなことはもう諦めたくはないと思いましたね。音楽活動で成功したこととも関係しているか、ですか?音楽活動はたまたまうまくいったという思いが強いので自分でもよくは分かりませんが、自分が納得する形で最後まで諦めずにやりたいという思いや意地はありましたから、関係しているのかもしれませんね」

「勉強すれば何でもできる」一橋大生の自信に衝撃

一橋大学に入学して早々、水野は社会学部のガイダンスで、町村敬志教授の言葉に惹きつけられたという。町村教授は「君たちは神のような客観的に絶対的な存在になることはできない。君たちには必ず"立場"というものがある。これから君たちは社会について学んでいくことになるが、社会について何か意見を言う時、君たちはその社会の一部という"立場"にあることを忘れてはならない」といった趣旨の話をした。
「この言葉がとても印象に残っていて、その後の音楽活動でも役に立っているのです。"いきものがかり"は特定のコミュニティにメッセージを届けるのではなく、不特定多数の一般大衆の方々に向けて音楽を届けるグループです。ですから、つくる楽曲は自分の思想とは関係のない商品であると考えて取り組むこともできなくはないですが、そこに自分の主観性を反映させずにはいられないと思うのです。そこをはき違えると、楽曲を聴いてくださる方に驕おごってしまうことになるような気がします。町村先生の言葉は、そのことに気づかせてくれる契機となりました」
一橋大学については「海老名の家からは遠かったが(笑)、選んで良かった」と水野は言う。1年間だけであったが、明治大学にも行き両方を経験できたことも大きい。
「当然ですが、両校は学生のカラーが違います。明治大学はとても楽しい雰囲気があり、都心に近いので遊んでいる学生が多くいました。一方で、学生は自分の可能性をシビアに自覚しているところがあったのです。行動する前から自分の到達点を決めているというか。一方、一橋大学は正反対でした」
水野が「一橋大学に入って衝撃を受けた」というのは、「勉強すれば何でもできるようになる」という、勘違いを含めての自信を持つ学生が多かったことだ。
「皆、地元の良い高校でトップクラスの成績を上げていたうえに、難関である一橋大学に合格できたのでそういった自信を持っているのだと思います。凄いと思ったのは、その自己肯定感があるから、行動してみようという意欲につながるところ。将来についてもよく考えています。経済界で成功する人が多いのは、そういったところに起因しているのではないでしょうか。成功を目指して行動を起こすという姿勢は、自分にも大いに刺激になりましたね」
ゼミは、労働経済学の依光正哲教授。卒業論文は、音楽の道を進むことに少しでも役立つものをと、ファイル交換ソフトや「iTunes」など音楽配信サービスが出始めた当時、音楽産業における権利についてまとめた。
「大らかな先生で、『よく分からないけどこれでいいよ』と言ってくれました(笑)」
卒論執筆において調べたことは、知識としては無駄にはならなかったが、「音楽業界はパワーバランスのうえに成立しているので、いざデビューしたら法律上のきれい事は通用しない難しさがあることを知った」という。

「成功の可能性は0.001%」に賭ける

インタビューの様子3

一橋大学での1年次は何かと忙しく、2年次になってから音楽活動を再開させた。再び本厚木や海老名のほか、町田や新百合ヶ丘と小田急沿線に活動場所を広げていく。そうした中で、「3人でこの道でご飯を食べていくと決めた」と言う。
「ライブを再開した時、たまたま今の事務所のマネージャーが見に来てくれていたのです。そこからプロの世界が見え始め、どうすればメジャーな存在になれるか真剣に考え、試行錯誤を始めました」
プロのミュージシャンとして成功できるのは、ほんの一握り。「活動していると、自分たちより努力していると思われる人たちにたくさん出会うが、自分たちの目の前で倒れていく人たちもまた、たくさん見てきた。それで諦め、精神的に病んでしまった人も少なくなかった」と、水野らもその厳しさを熟知していた。だからこそ、3人は「成功は宝くじで1等を取るより難しい、99.999%不可能なこと」という認識を持つことから始めたという。
「そういう認識のもと、0.001%ずつ可能性を広げていくしかないと、学生の考えることではありますが、目の前のできることはすべてやりました。ライブで1人でも多く動員するにはどうすればいいか考え、学生だから学生服を着てみようとか、歌詞を書いたパンフレットをつくってみようとか、当時はインターネットもまださほど普及していなかったので、毎週同じ曜日の同じ時間に路上ライブをする、などです」
そういった活動の中で、"いきものがかり"が大成功する手がかりを、水野らは少しずつつかみ取っていく。その根底には「自分たちだけでは何もできないも同然なので、自分たちに関わってくれる人がどれだけ強い思いを持ってくれるかが勝負」という自覚があった。
「0.001%の可能性に賭けたのは、自分たちがバカだったからだと思いますが(笑)、根拠のない自信はありました。その多くは勘違いでしたけれど、少なくとも前に向かっていく力にはなりましたね」
その一方で、「無理せず自分たちができること、好きなこと、やりたいことをやろう」という素直さや謙虚さ、さらにはしたたかさが彼らを押し上げていったといえる。水野は、次のように当時を振り返る。
「3人とも、以前からスピッツやミスターチルドレン、ジュディ・アンド・マリーといったJ-POPが大好きで、自分たちにできる音楽もJ-POPしかありませんでした。だから素直にそれをやろうと。ところが、普通なはずのJ-POPをやる自分たちが、当時の活動環境では特殊な存在だったのです」
彼らの周囲には「ほかとは違う」とやたらと個性を主張するロックバンドばかりがいた。「その主張がさほど個性的とは思えなかった」と水野は指摘するが、その結果、"いきものがかり"が周囲から浮き上がる存在となったのだ。
「自分たちのライブにだけ、年配の方などほかのバンドのライブには来ない客層の方がたくさん来てくれたのです。異質な光景でした。ほかのバンドから完全に浮いている状況でしたが、逆にチャンスかもしれない、と思いましたね」

1人のソングライターとして、再び原点に立つ

ヒットとは、多くの人に支持される状態を指す。つまり、老若男女に受ける楽曲をつくるということだ。「たまたま3人とも好きだったJ-POPが、最も万人受けするジャンルだったということ」と水野は謙遜するが、ユーザーオリエンテッド(顧客志向)の楽曲づくりを強く意識したことは間違いない。"いきものがかり"はボーカルの吉岡の歌声のイメージが強いが、あえてプロっぽくなくビブラートをかけずストレートに歌う唱法を尊重。「実は、そういう歌い方のほうが難しい」と水野は言うが、変な色をつけず、誰からも好感を持たれるメロディや歌詞、スタイルをしたたかに追求していった。そんなポリシーがNHKの紅白歌合戦連続出場やドラマ主題歌、選抜高等学校野球大会(春の甲子園)の入場行進曲、CMソング、さらには駅の列車接近メロディへの採用にまで結びついているといえるだろう。

「よく"いきものがかり"は"NHK感"が強い』と言われます」と水野は笑う。さらに、音楽業界の中にあって、周囲に好感を与えるような言動に努めたことも大きな要素となっていることは想像に難くない。
"放牧"後、水野はほかのアーティストに楽曲を提供する作詞家・作曲家として活動している。「10年間、"いきものがかり"という看板に守られてきましたので、そこに集中していればいいというある種の甘えがあったと思います。その看板が外れた今、1人のソングライターとしてどこまでできるか、もう一度原点に立って頑張り成長することが、"放牧"を決めたグループにとっても大事なことだと自覚しています」
そんな水野は、楽曲づくりに「自分の限界を考え、分かり合えない人と分かり合うきっかけをつくるもの」という意義づけをしている。テロや政治的な事件が続く国際社会において、それぞれの正義と正義がぶつかり合い、殺し合いに発展している。
「目の前に自分を殺そうとする人がいると、自分はその人を受け入れられるとは思えません。それが自分の限界です。しかし、どうにか殺し合わずには済ませたい。楽曲はそのチャンスになると思うのです。水野という人間は大嫌いでも、『ありがとう』という曲は嫌いではない、あるいは水野は知らなくても、『ありがとう』は知っている。そんな人がいれば、自分の限界を超えたことになるのではないでしょうか。楽曲が自分とは違う正義の人とつながることの媒体になる可能性が広がると思うのです。それが、自分の希望になる。自分がほぼすべてを賭けてこの仕事に取り組んでいる理由は、そこにあります」
坂本九が歌った『上を向いて歩こう』という楽曲は、坂本はじめ作詞者の永六輔や作曲者の中村八大がこの世を去った今でも人々に歌い継がれ、東日本大震災の際には被災者に寄り添って励ます歌として話題となった。「自分も、自分の死後も永遠に歌い継がれる歌をつくりたい」と、水野は遠い眼差しで話す。

目標を叶えられなくても、絶望する必要はない

ところで、就職には有利とされる一橋大学に入学したことで、音楽以外の進路を考えたことはなかったのか。
「もちろん、就職において一橋大学の評価が高いことは知っていましたし、実際に商学部などには総合商社や銀行に行くという具体的なビジョンを持つ学生が少なくなかったと思います。その点、社会学部は多様性がある分ややぼんやりした印象もありましたが(笑)、個人としては音楽以外の道は意識していませんでしたね。行けるところまで行こうと思っていましたから」
最後に、水野に大学進学を目前にした高校生や現役の一橋大生に、エールを送ってもらった。少し考えてから、水野は次のように話した。

「18歳の自分に今何を言ってあげるかを考えるとすると、目標を叶えられなくても、絶望する必要はない、ということですね。失敗した先で、出会った人が素晴らしかったり、些細な出会いだと思っていた人が、やがて人生を変えるキーパーソンになったり、ということがありますから。実は私立高校の受験に失敗したのですが、もし違う高校に行っていたら山下や吉岡と会うことはなかったかもしれません。また、最初の一橋大学の受験に失敗して1年だけ在学した明治大学で出会った、当時は関係性が薄かった同級生が音楽業界に入り、たまたま再会して今の仕事につながっています。人生にはそんな出会いがあるのです。今見えている世界だけではありませんので、どうか絶望はしないでほしいですね」

(2018年1月 掲載)