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「勝てない」から始まる消費者問題に、挑み続ける

  • 四谷の森法律事務所 弁護士齋藤 雅弘

2020年12月24日 掲載

東日本大震災の津波に襲われ、70名の児童と10名の教員が命を落とし、現在も4名の児童が行方不明となっている宮城県石巻市立大川小学校(以下、大川小。2018年2月に閉校)。県と市を相手取り、子どもの命を守る学校の責任を問う国家賠償法に基づく民事訴訟(以下、国賠訴訟)が最高裁まで争われ、2019年10月10日に原告ら遺族の勝訴が確定したことは記憶に新しい。原告ら遺族の代理人としてこの訴訟を闘ったのが、齋藤雅弘。ラジオ少年でアマチュア無線に夢中だった少年が一橋大学で法曹を目指し、弁護士となってこの事件を手がけるまでのプロセスは、「巡り合わせの一言」という。そんな齋藤の生き方を追う。(文中敬称略)

齋藤 雅弘氏 プロフィール写真

齋藤 雅弘(さいとう・まさひろ)

1982年東京弁護士会に弁護士登録(司法研修所第34期)。1989年に齋藤・神山・清水法律事務所を、1997年に四谷の森法律事務所を開設。日弁連消費者問題対策委員会副委員長、東京弁護士会消費者問題特別委員会委員長を歴任。経済産業省「消費経済審議会」臨時委員、消費者庁参与をはじめ政府、地方公共団体の審議会・研究会等にて要職を歴任。(公社)全国消費生活相談員協会の理事も務める。教育・研究分野では一橋大学法科大学院非常勤講師(「消費者法」担当)のほか、首都圏の私立大学等で学生の教育や消費生活相談員の研修に携わる。著書に単著『電気通信・放送サービスと法』(2017/弘文堂)、共著『特定商取引法ハンドブック(第6版)」(2019年/日本評論社)、論文に「通信販売仲介業者(プラットフォーム運営業者)の法的規律に係る日本法の現状と課題」『消費者法研究』第4号(2018年)、「大川小学校国賠訴訟事件─津波被災事故における学校の設置、管理・運営者の組織的過失と責任」消費者法ニュース第119号139頁(2019年)など多数がある。

児童を裏山に避難させなかった教員

2011年3月11日14時46分に発生した、東北地方太平洋沖地震。巨大津波が、同15時37分頃、北上川の河口から4kmほど上流に位置する大川小学校に来襲する。大川小のすぐ南側には、児童がよく学習や遊びで登っていた裏山がある。地震発生6分後には大津波警報発令と高台避難を促す防災行政無線の放送が校庭のスピーカーから流された。にもかかわらず、教員らは校庭に一旦避難させていた児童を50分近くそこに止め、1~2分で上れる裏山に避難させようとはしなかった。裁判の過程で明らかになったことであるが、危機管理マニュアルが改訂・整備されておらず、それに則した訓練も行われていなかったからだ。

その後の校長や市教委の対応は、保護者側には極めて不誠実なものであったとされる。説明会が開かれたが、保護者側が望む事実関係の解明はなされないまま打ち切られ、文部科学省の仲介で石巻市は大川小の事故検証委員会を立ち上げて検証に乗り出したものの、保護者側が望む結果には程遠いものであった。こうして、我が子は学校にいながら何故命を落とさなければならなかったのか、その真実を知りたいと望んだ29名の遺族が仙台地裁への提訴に及んだのである。

遺族は、仙台市に事務所を構える吉岡和弘弁護士に相談を持ち込んだ。吉岡は齋藤と司法修習の同期であり、共に弁護士登録直後から豊田商事や商品先物取引の被害救済に携わった。また、これらの事件を機に発足した被害救済を目指す研究会で行動を共にした仲間であった。吉岡は、その後欠陥住宅訴訟では日本を代表する弁護士となったが、吉岡のこのような経験と知見も大川小の国賠訴訟の勝訴に大きく貢献したと齋藤はいう。

豊田商事事件の国家賠償訴訟に関与

ここで、1980年代前半に起きた豊田商事事件に触れておく。

ありもしない金地金を客に買わせ、現物の代わりに「純金ファミリー契約証券」という紙を渡すだけのペーパー商法で、高齢者を中心に数万人から2000億円近くもの金を騙し取った大規模な組織的詐欺事件である。この事件の被害者弁護団に、駆け出しの弁護士だった齋藤が加わった。この事件は、国が豊田商事に対し規制権限を行使していれば、こうした大規模な詐欺被害は防げたという国の不作為責任を問う国賠訴訟に発展する。

この国賠訴訟弁護団の一員であった吉岡は、近くで齋藤の仕事ぶりをよく見ていたのだろう。大川小の事件において学校の管理責任を問う以上、石巻市や宮城県を相手取ることになるだろうからと、国賠訴訟で実績があり、30年来のよく知った仲間である齋藤に声をかけたのだ。

盟友からの誘い

画像:インタビュー中の齋藤 雅弘氏 1

「吉岡さんは、会合などで顔を合わすたびに『(大川小の)現場を見に来ないか?』と誘いかけてきました。国賠訴訟は非常に難易度の高い分野です。見に行けば、引き受けることになるのは自分でも分かっていましたが、正直、その大変さを思って躊躇していました。でも吉岡さんは半年間、誘い続けるわけです。根負けしました。しかし、いざ現場に行くと『なんでこの裏山に逃げなかったんだ!』と強い疑問を覚えるわけです。そして、ある遺族のお宅に伺った際、亡くなった児童の祖母が『あの時、学校の先生さえいなければ孫は死なずに済んだ』と宮城弁でぼそっと語ってくれました。その言葉を聞いて、救えたはずの子供の命を奪った学校側の対応に憤りがこみ上げてきて、覚悟を決めました」と齋藤は述懐する。

齋藤が「鋭い戦略家」と評する吉岡は、相談を受けた際、遺族に対して「弁護士任せにせず、皆さんが我が子の代理人弁護士になったつもりで自ら真相を追及すべきだ。それが津波で亡くなった子供たちに対する親の責任ではないか」と説いた。津波ですべて流されてしまっている本件では、まず、当日何が起き、何があったのかを市側から明らかにさせる必要がある。そのためには時間的にも手続面でも制約の多い訴訟ではなく、市に対し遺族説明会を再開させ、そこで事実を明らかにするよう迫ることを吉岡は勧めた。その結果、8回の遺族説明会が追加開催された。遺族はその度、子供の代理人となって事実を質し、得られた回答を分析・整理し、次回には何を質問するかを皆で検討することを繰り返して、証拠となる言質を集めて行った。

吉岡と齋藤は、2人だけで遺族が子供たちのために必死で集めた証拠を一つひとつ検討しながら、訴訟の戦略を練り、3年の時効が迫る中、訴状を書き上げ、2014年3月10日、仙台地裁に石巻市と宮城県を相手に国賠訴訟を提起した。

「これも吉岡さんの戦略。弁護士の通常の感覚では、この事件なら大人数の弁護団を結成するのが普通ですが、そうすると情報や認識を共通にする作業だけで大変なのです。そこで、1を言えば残りの9も分かる気心の知れた2人だけにした。これが結果的に大正解。1審の最終準備書面は400頁近くありますが、これを2人だけで3か月で書き上げました。よくも2人だけで書けたと思います」

自然災害で組織的過失を初めて認めた画期的判決

訴訟内容としては、宮城県と石巻市に対し、大川小児童に津波による危害が及ぶことが予見できたにもかかわらず、危機管理マニュアルの改訂・整備をせず、また実際に地震発生後に裏山など安全な場所に避難させず被災させたことは、国賠法上違法な行為であり、民法の不法行為にも該当し、また在学契約上の安全配慮義務に違反することを理由として損害賠償を求めたものだ。

これに対し、被告側は津波到来の予見は困難だったと反論し、この予見可能性が最大の争点となる。これに対し仙台地裁は、津波到達7分前には大川小への津波来襲の予見が可能とし、同小教員らが裏山へ避難させる結果回避義務を怠ったとして現場過失を認め、賠償金の支払いを命じた。被告側はこの判決を不服として即座に控訴する。

1審は、「1000年に1度の大津波だから学校現場の教員などに法的責任は問えない」という固定観念は打破したものの、認めたのは「現場過失」のみ。危機管理マニュアル等の整備は争点にされず、学校設置者の責任には踏み込まなかった。学校防災の根本的な見直しを求めるものではないところに、原告側としては不満が残る判決であった。

仙台高裁での控訴審ではまさにこの点が争点となった。齋藤らは理論面では京都大学教授の潮見佳男に協力を仰ぎ、「組織的過失」に関する意見書をまとめてもらい、平時の予見可能性については吉岡が親しくする地盤工学の専門家に「北上川の特性と堤防に関する地盤工学上の論点」についての意見書をまとめてもらった。これらを基礎に据え「組織的過失」に関する主張を補充し、また、津波被害の発生に関する予見可能性の立証の補充に努めるなどした。

控訴審は、自然災害の事案で被災直前の予見可能性を前提とした結果回避義務違反ではなく、平時における学校の安全確保義務違反を認定し、組織的過失を初めて認めた画期的な判決を言い渡した。これに対し、被告側は上告及び上告受理申立てを行ったが、最高裁はいずれも認めず、控訴審判決が確定する。これによって、学校現場における災害対応に関し、学校設置者や学校には平時からの組織的な対応をすべき義務があることが明確に示されることとなった。

「遺族説明会での質疑に止まらず、遺族は津波襲来当時に大川小の校庭やその付近にいた生存者を探し出して証言を集めたり、訴訟でも津波で流された建物や地形などをテープで再現し、現場見分した裁判官に具体的なイメージを持ってもらうよう努めるなど、血のにじむような努力を積み重ねてきました。こんな悲劇を二度と繰り返さないで欲しいという思いからです」と齋藤は話す。

画像:震災から3日後に撮影した大川小学校と周辺

震災から3日後に撮影した大川小学校と周辺

画像:遺族が撮影した大川小学校と背景に広がる天の川

遺族が撮影した大川小学校と背景に広がる天の川

アマチュア無線が大好きだった"理科少年"の挫折

画像:インタビュー中の齋藤 雅弘氏 2

埼玉県鴻巣市に生まれ育った齋藤は、小学生時代に6歳上の兄の影響でラジオ工作や無線に関心を持つ。「ドリルで親指に穴をあけた痕や、800Vに感電した火傷の痕がたくさんある」というほどのめり込み、小学5年でアマチュア無線の免許を取得した。そんな"理科少年"が最終的に法曹を目指したのには、どんな経緯があったのか。

「高校時代に、IC(集積回路)が一般的になってきました。それまでのトランジスタは足が3本で、真空管と基本的に同じように理解できたのですが、足がたくさん出ているICにはついていけなくなったのです。ICも規格が公開され、こうすれば動くという原理は頭では分かるのですが、動作が実際にこの目に見えなくなり、本当にこれでちゃんと動いているのか確信が持てなくなり興味も薄れてきて挫折しました(笑)」

趣味としては電子機器の工作や無線にかなりのめり込んだが、この分野を仕事にすることには疑問を感じた。いざ大学進学を考える段になって、法曹の仕事に興味がわき法学部への進学に決めるが、現役での大学受験には失敗。

「家はさほど裕福ではないうえに兄弟姉妹は4人だったので、浪人したら国立大学しか選択肢はありませんでした。それに自宅から通学できる法学部となると、東京大学か一橋大学にしかありません。」

浪人は1年間しか許されないと、評判の高い予備校に通う。そして、国立やキャンパスを訪れ、国立の街とともに惹かれた一橋大学に的を絞り、合格する。

「当時の定員は一学年170人という小規模で、ゼミナールが有名でした。とてもしっかりしていて、きちっとまとまった堅実な大学という印象を持ちました。それに自分の学力からみて確実に合格できそうだということも決め手になりました」

覚悟を決め、司法試験という最難関に挑む

一橋大学に入ったことは、結果的にはとても良かったと齋藤。入学前に漠然と感じた魅力を具体的に体感できたのと同時に、友人にも恵まれた。

他方、法曹の仕事に惹かれて法学部を選んだが、法曹の道へはハードルがあまりも高く覚悟が決まらず、入学当初は意識の隅に追いやっていたという。

「1、2年次は法曹への道は考えられず、もっぱら雀荘通い(笑)。雀荘で恩師の教授に時々鉢合わせすることもあって、今思えば牧歌的な時期でした」

それが3年次ともなると、周囲の学生は就職を意識し始める。齋藤にも分厚い就職情報誌が届き、いよいよ具体的に考えなければならない時期となった。

「そこでようやく、法曹を意識したのです。弁護士以外はよく分かりませんでしたが、他人の指図を受けず自分の信念に従って仕事ができそうなところが性格的に合っている、と。それに、せっかく法学部に入ったのだから、司法試験を受けてみようと思ったのです」

齋藤は4年に進級する年の1月から本格的に司法試験の勉強を始める。親に余計な負担をかけたくないと、3年間の勉強で難関を突破する計画を練った。まず、基本的に自宅で勉強することにし、本代や通学する費用はアルバイトでためた金で賄うことにした。留年する間の学費は大学に免除を申請。「食事と寝るところだけ親に甘えさせてもらえば、なんとか3年間は持ち堪えられる。並行して国家公務員試験も受け、3年やってダメなら法曹はあきらめて就職すればいい」と覚悟を決めた。

周囲の受験生は皆、必死に勉強している。他人が100なら120やらなければダメだと自分に言い聞かせ勉強を続けた。1年目は関連する授業も真剣に受講し、択一試験にはパスしたが論文試験で失敗し、不合格。2年目の受験は、同級生を中心に受験仲間と勉強会を設けてともに磨き合い試験に臨む。おかげで合格を果たすことができた。

「卒論だけ残して留年していたので、合格後に卒論を提出し、無事卒業しました。形式的には司法試験の現役合格ですが、内実は大学に6年在籍した形です。一橋大学には大変お世話になりました」

なお、齋藤の母親は司法試験の口述試験の最中に末期の肺がんと分かり、最期を自宅で過ごさせるために退院した母の看護をしながらの卒論執筆となった。母親は齋藤の合格報告を聞いた後、他界する。「最後に親孝行ができたと思います」と齋藤は話す。

"青天の霹靂"と"巡り合わせ"で弁護士登録

画像:インタビュー中の齋藤 雅弘氏 3

弁護士をイメージして法曹を目指した齋藤であったが、京都に配属された実務修習で裁判官の仕事に触れ、弁護士以上に自分の信念に従った判断が保証されている裁判官に魅力を覚える。そして、司法修習の修了時に裁判官の採用願いを最高裁に提出したが、不採用となる。「自分ではあまり意識しておらず、青法協の会員のままで採用願いを最高裁に出していました。今なら、日本学術会議の委員の任命問題と似てますかね。青天の霹靂でした。弁護士になるしかなくなりましたが、ショックで何も考えられない状態が2週間ほど続きました」

そんな齋藤を知って、手を差し伸べる人が現れた。一橋大学の20年ほど先輩に当たる國本明、高木壮八郎弁護士である。両弁護士の所属事務所を拡大する計画が発展し、2人が新たに事務所を作ることになり「イソ弁」を求めていたのだ。「事情が事情でしたから一も二もなく、お世話になることに決めた」と齋藤は言う。こうして1982年5月10日、同期より1か月遅く弁護士登録をした齋藤は、晴れて弁護士生活をスタートさせた。

「國本、高木の両先輩が独立前に所属していた事務所に在籍していたのが、高見澤昭治弁護士。その高見澤弁護士が豊田商事事件に関わっていて、私を誘ってくれたという次第です。これがきっかけで消費者問題にどっぷり関わることになったわけで、今の自分がこうしてあるのは運命的な巡り合わせとしか言いようがありません」

消費者問題に放り込まれて、その専門家に

法律の世界は極めて広範囲に及ぶので、弁護士は何らかの専門分野を持つことになる。そこには時代背景も大きく反映される。高度経済成長期の前後は労働問題が中心で、その後は公害問題が大きくクローズアップされる。そして、齋藤が弁護士となった80年代の始めは、悪徳商法が社会問題化し、弁護士として避けては通れなかった。

「右も左も分からないうちに、いきなり消費者問題に放り込まれて抜けられなくなりました。しかし、おかげで1年目から全国の弁護士とも関わりながら社会的な大事件を解決する活動に身を投じることができました。それがいつの間にか専門分野となる。いい経験ができたと思います」と齋藤は振り返る。弁護士の業務の基本は依頼者の抱える問題を解決することだが、それだけでなく新たな立法や法改正、制度の構築や改革などにつながる活動を行うことも重要な分野だという。齋藤は、3年目から弁護士会の消費者問題に関する委員会の委員になり、委員長を歴任するなど一貫してこの問題の解決に取り組んできた。そのプロセスで、多くの学者や官僚、法律家とも関わってきた。

「いろいろな分野の研究者と交流し、つながりを持ったおかげで、大川小の控訴審で京都大学の潮見先生に意見書を書いてもらうことができました。こんな大きな問題の意見書など通常は引き受けて貰えないでしょう。学者と実務家は互いに交流をもち、刺激し合うことが大切だと思います」

そして、齋藤自身、1997年から母校の一橋大学で「消費者法政策」の講義を受け持ち、法科大学院の発足後は法科大学院で「消費者法」の教鞭を取っている。

仕事として信頼に応えるプライドが原動力

画像:インタビュー中の齋藤 雅弘氏 4

そんな齋藤は、弁護士に必要な資質として、真っ先に「柔軟さ」を挙げる。分け隔てなく物事を感じ取り、既存の概念にとらわれることなく発想する。「吉岡さんが大川小の遺族の弁護団を私と2人でやろうと決めた発想も、柔軟さの表れ」と言う。

そして、広く物事に興味を持つこと。問題解決のヒントはどこに隠れているか分からないからだ。大川小の事件を勝訴に持ち込めた一つの要因に、1983年の日本海中部地震による津波が村上川を遡上する映像を、出張先の新潟で見た記憶があった。この記憶で、遡上する津波は「高さ」だけでなく「堤防」がカギを握ることに気づき、「北上川の特性と堤防に関する地盤工学上の論点」についての技術士の意見書提出につなげられた。結果的に、控訴審判決では地震の揺れと津波の圧力などによる堤防損壊の可能性も総合した予見可能性が肯定されたのだ。「吉岡さんは欠陥住宅問題のプロ。建築・土木工学の研究者に知己が多いことが幸いした」と言う。早いうちから専門性を絞って学ぶことも大事だが、だからと言って専門外のことに関心を示さなければ、狭い範囲でしか物事を見ることができなくなってしまうだろう。

そして、一つひとつの仕事を、プロフェッションとしての自覚をもって丁寧に行うこと。「当たり前のことだが、これほど難しいこともないからこそ、繰り返し言われる」と齋藤。
さらに、「失敗は宝物」とも言う。

「裁判で負けることもあります。落ち込みますが、これをバネに次につながる材料を探すいい契機となります。単なる失敗ではなく、成功の糧と考えればいいのです。そもそも、国賠訴訟のみならず消費者被害の救済は『無理』『勝てない』から始まります。最後まで諦めず、粘り強く取り組めば光が見えてきます」

最後に、そんな齋藤の弁護士活動の原動力とは何か、尋ねてみた。

「弁護士でなければできない仕事だからやる、という使命感ですかね。依頼者の信頼に応えられる結果を出せたときもそうですが、日々の仕事が社会の仕組みや考え方を変えていくことに繋がり、それが実感できたときの達成感は代えがたいものがあります」