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「世界一おいしいジャガイモ」づくりのため人間関係づくりを追求する

  • 伊村農園代表伊村 達児氏

2014年冬号vol.41 掲載

鹿児島から南へ約540㎞、沖縄本島の北約60㎞に位置する沖永良部島おきのえらぶじま。同地で生まれ育った伊村達児は、広告代理店最大手の電通を退職後、琉球大学大学院に入学し農業経済を学ぶとともに、家業を継ぐ形で就農しジャガイモの生産を始めた。桐箱に詰めホームページで販売するジャガイモは、顧客から感謝状が届くほどのおいしさだという。そして、夢はレストランの経営。そんな伊村の、転身への思いとは──。(文中敬称略)

伊村 達児

伊村 達児

1968年鹿児島県沖永良部島生まれ。1993年一橋大学社会学部卒業。同年株式会社電通入社。同社にて17年間勤務の後、2010年に生まれ故郷である沖永良部島に帰郷し、農業を開始。農業に従事する傍ら農業経済を学ぶために、2011年琉球大学大学院農学研究科入学。現在は、同大に籍を置きつつ鹿児島大学大学院農学研究科博士後期課程で研究を続ける。

米ぬかや海水を撒くなど土壌づくりを工夫

ミネラルがたっぷり含まれている沖永良部の土地

ミネラルがたっぷり含まれている沖永良部の土地。伊村はここに大きな可能性を感じ、今は日々土と向き合い、大学院で学ぶ生活を送っている。

様々な品種のジャガイモ

メークイン、ホッカイコガネ、ニシユタカ、デジマ、ゴールドなどの品種を生産している。

沖永良部島は、行政としては鹿児島県に属するものの、気候・風土は沖縄圏に属する位置にある。全島が海底から隆起したサンゴ礁でできており、山の中腹であっても海水のミネラル分をふんだんに蓄えた土壌が広がっている。そんな土壌を活かして、テッポウユリやフリージアなどの球根、花卉、サトウキビ、ジャガイモの栽培が盛んに行われている。沖永良部のジャガイモはミネラル分をたっぷり含んだおいしさが特長で、一部は「春のささやき」というブランドネームで売り出されている。
伊村は、就農当初からできるだけ農薬を使わない栽培に挑戦している。「安全・安心を求める消費者が大半」との確信があるからだ。それに加え、さらに味をよくするための試行錯誤も重ねている。3期目の作付けとなる2012年秋、種芋を栽培する前の畑に海水を撒いてさらにミネラル分を加える土壌づくりを行った。
「ユリには消毒のためによく海水をかけるのですが、沖永良部では海水を使ってまで味にこだわるジャガイモ生産者は、ほかにいないのではないかと思います。昨年は土のなかの微生物を増やすために米ぬかを撒いてみました。来年はさらにミネラル分の濃いニガリを撒いてみようと考えています。とにかく今は、世界一うまいジャガイモをつくってやろうと思って取り組んでいるところです」
ジャガイモ栽培の適温は15〜22℃で、沖永良部では毎年11月に種芋を植え、2〜4月に収穫する。伊村農園は2haのジャガイモ畑を所有し、順調ならば年30tを収穫する(それ以外に父親が手がける畜産業用に4haの牧草地を所有)。伊村は毎年春、そうやって丹精込めて育てた新ジャガ(メークイン)3㎏を桐箱に詰め、ホームページで販売している。価格は、3000円(送料・税込)だ(その他、家庭用に10㎏2700円〈送料別・税込〉等を販売)。
「電通時代にお世話になったクライアントの方や会社の仲間がよく買ってくれます。また俳優の高橋英樹さんとも電通時代から交流があるのですが、ジャガイモを200㎏も買ってくれました。ご自身のオフィシャルサイトでも紹介してくれましたよ(笑)。なかには、『今年は申し込まなかった。ごめん......』とわざわざメールをくれる人もいます。つくづく、ありがたいなと思いますね」と伊村は目を細める。

ジャガイモ畑(栽培60日目)

ジャガイモ畑(栽培100日目)

箱入りのジャガイモ

都留重人・元学長に惹かれ一橋大学を志望

伊村氏

沖永良部で生まれ育った伊村は、宮崎県の都城東高校に進み、神戸大学への入学を志望していた。浪人中に、志望校を一橋大学に変更し、2年の浪人期間を経て社会学部に合格。伊村はその経緯を次のように振り返る。
「政治経済と倫理で受験しようと参考書を買って読んでみたら、『こんなに面白い見方もあるのか!』と感動してしまったのです。参考書で感動するなんて初めてでしたので、著者は誰なのだろうと思って見てみたら、『都留重人』と書いてありました。プロフィールには一橋大学の先生であると書かれていましたので、それなら都留先生のいる一橋大学を受けよう、と単純に思ったのです。しかし、合格して大学で聞いてみたら、都留先生は十何年も前に退官されていました。よく調べなかった私がいけないのですが、少しショックでした(笑)」
入学後、ほかの新入生と同様に伊村は部活動の勧誘にあう。中学時代は相撲の選手として活躍するなどガッチリした体格の伊村は「アメフトや空手に惹かれた」と言うが、たまたま体育会應援部の奄美大島出身の先輩から声をかけられた。
「いろいろと優しく歓待してくれたのです。それでつい入部してしまいました(笑)」
そんな動機であっても、應援部の水に合ったせいか伊村は部活動にのめりこみ、4年次で主将を務めるなど中心的な存在となる。
「おかげで、学業のほうは決して褒められた成績ではありませんでした(笑)。しかし何とか留年せず卒業できた、という感じです」
伝統の端艇部(ボート部)の商東戦や三商戦などでの演舞は、今でも伊村の脳裏に鮮烈に焼き付いている。また、大学1、2年時に暮らした小平キャンパスの一橋寮では、夜中に応援歌を歌うなどの"武勇伝"も。
「4人部屋には、外交官を目指して勉強に励んでいた学生もいれば、自分みたいなバンカラな学生もいて、バラエティ豊富だったと思います。先輩後輩入り乱れていろいろな議論をしたり、励まし合ったり、ときにはケンカもしたりと、今思えばとても充実した4年間でした。小さな社会経験とでもいうのでしょうか、應援部では組織においてどのように行動すべきかを学ぶこともできたと思います。おかげで、社会に出ても組織のルールやマナーを踏み外すような失敗をせずにやってくることができました」

人間関係の大切さを学んだ電通での17年間

収穫を手伝いにきてくれた、95歳のハルばぁ

収穫を手伝いにきてくれた、95歳のハルばぁ。農作業に向かう姿勢に、頭が下がる。

ジャガイモ畑収穫(栽培120日目)

無事に収穫できたのは、地域の多くの人の助けがあったから。感謝してもしきれない。

収穫の様子

伊村は、1993年に卒業し、電通に就職する。同社でリクルーターを務めていた應援部の先輩の招きで入社試験を受け、合格した。関西支社の営業部門に配属され、以降10年間、クライアントである関西電力を担当する。その後、テレビ局(テレビCMの放映枠買い付けを担当する部署)に異動し、4年間ほど松下電器産業(現・パナソニック)のテレビCMを担当する。松下電器産業は当時の電通のトップクライアントで、まさに花形のポジションに就いた形だ。「テレビがデジタル化された時期で、面白い仕事がたくさんあった」と伊村は述懐する。その後、退職するまでの2年間は、テレビ局のエグゼクティブプロデューサーとして40人ほどのメンバーのまとめ役を務める。
「電通に入社したからには、一度は東京本社で仕事をしたいと思っていましたが、それはかないませんでした。しかし、関西支社でも非常に充実した17年間の仕事生活を送ることができました」と伊村は言う。関西支社には1000人ほどの社員がいて、「何となく全員の顔が見渡せる規模」であった。その何倍もの社員が集う東京本社では、そういうわけにはいかなかっただろう。
「関西電力さんやパナソニックさんの仕事は大きなスケールで、自分1人でできるものではありません。いろいろな人に助けてもらえたから、成し遂げられたのです。関西支社は、皆で協力し合おうという風土が醸成されるのに最適な規模だったのかもしれませんね」
スポンサーは、当然のように自社の宣伝をしたいと考えており、広告代理店を通じて番組のCM枠を買い、自社の宣伝を第一に意識したCMを制作してもらおうとする。一方、制作者側は、あくまでも視聴者の心に届かなければCMの意味はないと考え、見る側のことを強く意識したCMを制作しようとする。
「極論すると、代理店の仕事は双方が100%満足する仕事はほとんどありません。私の役目は、両者の間に立って、双方に妥協してもらいつつ満足度を70%、80%と最大化して、落としどころを追求することでした。そんな正解のない仕事を通じて、人間関係の大切さを深く学ばせてもらいましたね」
そうして熟した人間関係は、簡単に風化したりはしない。前述のように、伊村と仕事でかかわった多くの人が、今では伊村農園のジャガイモのファンとなり毎年購入し続けてくれる。また、かつて共に番組制作をしたテレビ局のプロデューサーが、あるテレビ番組の制作で沖永良部島でロケを行い、「沖永良部島といえば伊村さんだから、制作中は伊村さんのことが頭に浮かんでいました」と、そのDVDをわざわざ送ってくれた。
「嬉しかったですね。最高のジャガイモでお返しをしなくては(笑)。こうして振り返ると、電通ではいい仕事にめぐり合うことができました」。そう語る伊村だが、ではなぜ電通を辞めて農業の道に入ったのか。

「自分の手でモノづくりをしたい」大震災で芽生えた思い

「理由はいろいろとありました。一つは、そのまま会社にいれば就くであろう上席の仕事が、あまり魅力的に思えなかったこと。もう一つは、両親はまだ元気ですが80歳を越え、長男の自分はそろそろ実家に戻らなければ、と思ったことです」
もう一つ、最も大きな理由がある。「自分の手で何かモノをつくりたい」と希求するようになったことだ。その話は、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災にさかのぼる。当時関西で暮らしていた伊村は、未曾有の大震災による惨状を目の当たりにする。
「もしかすると、戦争とはこういう状態になるのかと思うほどの変わりようでした」
最重要なライフラインの一つである電気は、約260万戸が停電した。しかし、自分の担当クライアントであった関西電力は、約1週間後の1月23日には倒壊家屋を除いて仮復旧させる。
「このときほど、電気の大切さを感じたことはありませんでした。そして、そんな電気をつくって人の役に立っている電力会社をすごいと思いました」
その後担当したパナソニックも、家電製品をつくり人の役に立っている。それに対して、自分はどうか。もちろん、広告代理店の仕事も人の役に立っているとの自負はあったが、"自分の手"で何かモノをつくり、それを特定の人に届け、その人の役に立っているという実感を得ることはなかった。クライアントと自社スタッフの意見や考えを調整し、多くの人と力を合わせてプロジェクトを進めるという仕事の反動かもしれないが、自分もモノをつくる仕事がしてみたい。「伊村」の看板で勝負してみたい。
「そう考えたとき、ふと、自分の父親は沖永良部で農業をやっているではないかと、気づいたのです。幸い、広い農地はある。ああ、農業もいいな、と思いました。電通では少なくはない給料をもらってはいましたが、毎晩のようにクライアントなどと酒を飲み、体を張って仕事をする代償でもありました。本当の幸せとは何か。それはカネでは得られないかもしれないとも思ったのです。私は一度結婚しましたが、現に独身に戻っていましたから(笑)。独身だから、就農などという冒険が気楽にできたのかもしれません」
伊村は笑いながら、屈託なくそう言う。

ネットワークづくりも大学院進学の大きな理由

沖縄-琉球大学

大学の前に立つ伊村さん

沖永良部島から沖縄にはフェリーで通う。
博士課程に入った現在は、「農業2対学業1」の割合で沖永良部と沖縄、鹿児島を行き来する

就農を決心するとともに、伊村は農業経済を学ぶために大学院への入学も決めた。農業で生計を立てるうえで、販路をいかにつくるかに大きな関心があったからだ。また、沖永良部という地方にいるだけでは得られる情報には限りがあり、人的ネットワークを構築するのも難しい。そのことも、大学院入学を決めた大きな理由となった。
両親と暮らすことになる沖永良部から通うのに、最も近い大学ということで、自ずと琉球大学に絞られた。そして2010年7月、電通を退社し帰郷、受験の準備を進め、2011年4月に琉球大学大学院農学研究科修士課程に入る。伊村、42歳の再出発だ。琉球大学のある那覇には月曜から水曜か木曜まで滞在し、週末は沖永良部に帰るという生活が始まる。
「17年ぶりに学生に戻りましたので、学生生活を楽しみたいという気分になり、当初は那覇で海が見える風光明媚な場所にマンションを借りました。しかし、沖永良部も周りは海で、行き来するのに乗る片道約5時間のフェリーも海の上です(笑)。1か月で飽きてしまいましたので、学生寮に入りました。すると、隣の部屋には19歳の学生がいたりするわけです。いろいろと新鮮な体験ができましたね」

琉球大学の先生と有志の学生と一緒にじゃがいも収穫の様子

琉球大学の先生と有志の学生が、沖縄から沖永良部島まで、収穫を手伝いにきてくれた。

肝心の学業のほうは、「学部時代のつけもあり、結構大変な思いをした」と打ち明ける。しかし、入学した意義は大いに得ることができているという。農業経済を研究するために、農家や農協、JA鹿児島県経済連などにアンケート調査やヒアリングなどを行うことになるが、学生の立場だからこそ教えてもらえることもあった。また、都会ではどのようにして作物が流通しているのかといった情報は、農家としていかに販路を確保するかという命題に核心的な役割を果たす。そして、そうした研究活動を通じて、伊村は自分の事業にかかわるステークホルダーとの人間関係を構築していったのである。
「いずれ、レストランを開業して自分がつくったジャガイモ料理を出したいと考えています。ミシュランの星を世界一持っているシェフとして知られるジョエル・ロブション氏は、ジャガイモのピューレで有名になったと聞きます。私も、最高のジャガイモをつくり、そのジャガイモで最高の料理をつくり、一人ひとりのお客さまに楽しんでもらう。そして『とってもおいしかった』と言っていただく。それが今の自分の夢なのです。とても遠い道だと思いますが、これを実現させるために必要となるであろう繋がりを、できるだけ多くつくっておきたいのです」

価格の不安定さなど農業の難しさにも直面

伊村氏

2年間の修士課程がそのように意義のあるものであったことから、伊村は鹿児島大学大学院農学研究科博士課程に進学し、さらに研究活動を継続することにした。といっても、学業に割く時間は軽減されるので、修士課程では「学業2」対「農業1」だった割合を、博士課程の現在では逆転させている。「来年にはマンゴーのハウス栽培も始めようと思っています」と伊村は意欲を燃やす。
しかし、農業で収益を上げることの難しさに直面していることも確かだ。2期目は、農薬を使わなかったことにより作物に病気が蔓延し、3分の1をだめにしてしまった。
「ジャガイモは価格変動も大きく、3年前は1㎏220円だった下代が、今年は、30〜50円です。正直に言うと、ここ2年間は赤字です。4期目の次の収穫では、何としても黒字化しないといけないと思っています」
沖永良部には"ジャガイモ御殿"もあるほど、やり方によっては収益を上げている農家もある。生活に困らないだけの収入が得られればそれでよく、それ以上の金儲けが目的ではないが、自分の事業の価値は収益力で測られる。今はまだ栽培や農作業だけで時間的にも精神的にも余裕はないが、少しずつ伊村なりの「農業ビジネス」を確立させていく構えだ。
「ホームページの運営が十分にできておらず、今はホームページ経由の売り上げは5%程度で、残りは農協ルートに頼るしかありません。しかし、農協経由では丹精込めた自分独自のジャガイモをブランド化させることはできず、ほかと同様の仕切り価格で売り渡さなければならないのです。しかも、沖永良部産のジャガイモは、鹿児島県の経済連でほかの産地のものと一緒に扱われてしまいます。ですから、何とかホームページでの直販を50%まで高めていくことが、当面の課題です」と伊村は力を込める。

「人間力」さえあればどこででもコミュニケーションは取れる

留学したタイ・ラオス

そんな伊村に、一橋大学で学ぶ学生へのメッセージや、大学に期待することを聞いた。
「学生時代こそ、いろいろな世界を見て、いろいろな人と人間関係をつくることはとても大事ではないかと思いますね」と伊村は言う。
30歳のとき、登山に惹かれた伊村は、さっそく山に登り始め、じきに海外の山にもアタックするようになった。海外での登山では現地のガイドを雇う必要があり、必然的に英語力が必要となる。そこで伊村は34歳の冬、休暇を利用してカナダのとある家庭にホームステイをしに行き、短期集中で英語を学んだ。
「その家の奥さんは自分よりも若い方で、『私より年上の日本人がきた』とびっくりしていました(笑)」
そんな行動力こそが、伊村の身上である。
2011年の修士1年のとき、タイのコンケン大学との交換留学制度でタイの農村に行った。そのときも、農家に宿泊しながらいくつかの村を回り、作物の栽培や流通の実情を調べて歩いた。
「タイ語しか通じない環境でしたが、私が知っているタイ語は『トムヤムクン』と『トゥクトゥク』と、おいしいという意味の『アローイ』の三つの言葉だけでした。一応、通訳の方が付いてくれましたが、言葉など通じなくても仲よくなれるのです。農家の人々とお酒を飲みながら身振り手振りでいろいろなことを話しました。そうしたら、最終日のランチに、その農家のお父さんがトムヤムクンをつくってごちそうしてくれたのです。きっと私が『トムヤムクン!』と連発していたからでしょうね(笑)」
たった三つの言葉だけでも仲よくなれる力。それを伊村は、ややはにかみながら「人間力」と言った。この地球上、どこに行っても同じ人間同士、人間力さえあればコミュニケーションは取れるという信念が伊村にはある。そんな人間力を養うには、環境が大切だ。伊村は続ける。
「ラオスにも足を延ばしたのですが、地方の農村のある農家に行ったら、30人ぐらいの家族が集まっていたのです。その家の5人の娘はそれぞれ結婚していて、そのご主人と子どももきていました。そして、お祖父さんやお祖母さん、ひいお祖父さんもひいお祖母さんも、ご健在でした。聞くところによると、月に1回はそうして家族が全員集合しているというのです。日本ではとうに見られなくなった光景ですが、沖永良部では昭和50年代までそういう家もありました。生活の豊かさとは何なのか、考えさせられましたね」
大都会で大企業の広告プロモーションを扱うという仕事と、離島でジャガイモを栽培し販売するという仕事。どちらにも共通する極めて重要な要素が、人との関係づくりである。このコア・コンピタンスを体得している伊村は、いつの日か自分の夢を実現させるに違いない。

留学したタイ・ラオス2

留学したタイ・ラオス3

琉球大学の交換留学制度を利用し、タイ、ラオスの農村を訪れた。
ここでは、大家族で協力して生きる、日本とは違った生活の豊かさを感じた。

(2014年1月 掲載)