「学ぶことは経営者の仕事」とハーバード大学への入学を夢見る75歳
- 株式会社タカギ 代表取締役髙城 寿雄氏
2014年春号vol.42 掲載
22歳のときに福岡県北九州市で家電製品の修理業を起こし、53年後の現在、売上高約166億円・社員数約580人の家庭用品メーカーに一代で育て上げた髙城寿雄。高校時代の挫折や大学進学が叶わなかった境遇、和議申請などの経営難を経験しながらも、「夢は絶対にあきらめない」という強い精神で、53歳で立教大学法学部、67歳で一橋大学大学院国際企業戦略研究科への入学を果たす。そして75歳の現在、同博士課程でさらに研鑽を積んでいる。次なる夢は、ハーバード大学への入学だ。(文中敬称略)
髙城 寿雄
1938年(昭和13年)北九州市小倉生まれ。1961年髙城精機製作所を創立。1979年株式会社タカギを設立。1991年立教大学法学部法律学科入学、1995年同大学卒業。2005年一橋大学大学院国際企業戦略研究科入学。2007年同大学院修士課程修了。2013年より同大学院博士課程に学ぶ。
アイデアを形にする開発力で約180件の特許を取得
業界で初めて浄水器をハンドシャワー水栓のグリップに内蔵した蛇口一体型浄水器「みず工房」や、手元のダイヤル回転だけでストレート、シャワー、じょうろ、ミストなど5通りの水の噴射ができるプラスチック製園芸散水ノズルなどのアイデア商品をヒットさせている株式会社タカギ。同社の最大の武器は、つねにユーザーの声に耳を傾けるマーケティング力と、それをアイデアフルな形にしていく開発力である。特許取得数が約180件にも及んでいることが、その端的な証拠であろう。
浄水器は、新築マンション向けにおいてはシェア60%、本社のある福岡や北九州地区ではなんと90%を超えている。新築だけでなくリフォーム市場へも進出し、現在、タカギの看板を掲げるみず工房ショップは、全国に約3000店を数える。
「開発した製品の80%はヒットしています。その確信がないものは、商品化しません」と髙城は断言する。
2009年にはベトナム工場を開設し、2011年にはドイツでの販売も始めるなど、海外展開にも着手している。2013年9月には、「造核剤の活用による効率的かつ安価なアジア地域用の新型浄水システムの開発」で、経済産業省主催の「第5回ものづくり日本大賞」の特別賞を受賞した。
オリジナルのいたずらを考えるのが大好き
発明家を自他ともに認ずる髙城であるが、その素質はいたずら好きであった子ども時代から遺憾なく発揮された。3歳の年に父親を戦場で亡くした髙城は、6歳のとき、伯父の家に養子に出された。隣家の塀によじ登ってスズメの巣を取るなどして遊んでいて、その家のご隠居によく怒られた。そこで髙城は仕返しのつもりで、そのご隠居が生垣に育てていたカボチャを首から下を土の中に埋めて別のツルを元のところにはわせるといういたずらをした。ご隠居が「カボチャが盗られた!捕まえてやる」と息巻くところを陰からこっそり見てほくそ笑んだ髙城は、1週間後、カボチャを掘り出して元に戻したのである。すると、それを見つけたご隠居は目を白黒させて、くる人くる人に「70年生きているが、盗まれたカボチャが元のツルに戻ってきたのを初めて見た」と真剣に言うのだ。髙城はまたその姿をこっそり覗いて、二度ほくそ笑んだのである。
「人がやらないようなオリジナルのいたずらを考えるのが大好きでした。わんぱくなガキ大将でしたが、本心では母親から離れた生活が寂しかったのだと思います」と髙城は述懐する。
中学生ともなると、髙城は発明にも興味を覚えていった。伯父から裏山に薪を採りに行くことを命じられたが、登るだけで半日かかるほどの急な傾斜の山。遊ぶ時間をなんとか捻出しようと考えた髙城は、ソリをつくってかついで登り、そこに積めるだけの薪を積んでは下ろしたのである。これでいっぺんに3倍の薪を運ぶことができた。
「そういうことは周囲の誰も教えてはくれず、すべて自分一人で考えたのです。しかし、その時期に大人が適切に導いてくれなかったことで、自分はちょっと誤った方向に進んでしまいました」
受験勉強一辺倒の校風に嫌気が差して問題を起こす
中学2年の終わりに実家のある門司に戻った髙城は、猛勉強をして進学校の福岡県立門司高校(当時は門司東高校)に合格する。高校生になると、ますます発明にのめり込んでいった。どこから風が吹いてきても、それを1か所に集める七輪用の集風器をつくり、うちわであおらなくても早く火がおこせるようにしたのもその一つだ。「ご飯を早く食べたい一心で考えた」と髙城は笑う。そして、学生児童発明展や商工会議所の発明展の入賞者の常連となり、「発明少年」として新聞記事にもなったという。
勉強そっちのけで発明に没頭する半面、高校には嫌気が差していった。周囲の同級生は受験勉強一辺倒で、実験もしない物理や化学にどうしても興味を持てなかったのだ。さらに、男女の生徒が話していると、先生が「何を話していたのだ?」と聞くなど管理が行き過ぎだと感じ疎ましかった。思春期となり、周囲に相談できる存在も見つからなかった髙城は、鬱屈した気持ちを何かにぶつけるとともに、そんな違和感を持っている生徒の存在を認めさせようとしたのか、学校の器物を壊す挙に出る。
「無期限謹慎処分を二度も食らいました。そのとき、私を処分した補導担当の先生の、何のコミュニケーションもないその無責任さに、大いに反発したのです。しかし、学年主任の先生が困り果てている姿を見て、責任を取ろうと退学を申し出ました。このとき、私ともっとコミュニケーションを図ってくれる先生がいたら、私の人生は大きく変わっていたと思います」
高校2年の途中で私立の小倉豊国高校に転校する。髙城の初の挫折である。
「それでも、その補導担当の先生とはその後も年賀状のやりとりは続き、現在の4000坪の本社工場の竣工式に同級生とともに参列してくれました。あんな悪さをした生徒の晴れ姿を前に、先生は同級生に『自分の教育は何だったのかな』と話したそうです。そのとき、自分は勝ったと思うとともに、どことなく残っていたわだかまりがきれいに消えました」
会社創業と1回目の経営危機
将来、何かになりたいという目標がなく、私立大学に行けるほどの裕福な環境も国立大学に行けるほどの勉強もしていなかった髙城は、「社会で一儲けしてから大学に入ってみせる」と決心する。アルバイト生活を続けた後、20歳になって心機一転、上京し親戚の家に泊めてもらいながら大型車や大型牽引自動車などの免許を取得する。トラック運転手として稼ぎながら、職業訓練所にも通ってテレビやステレオの修理を学んだ。22歳のとき、「いつまでもトラックの運転手というわけにもいかない」と北九州の小倉に移転していた実家に帰り、修理業を始めることにした。「高卒ではいい就職口がない。それなら自分で商売をしたほうが面白い」という考えであった。「ホームゼネラルサービス」という事業者名で、家電の修理から包丁研ぎまで何でも引き受けた。1年後、「自分が病気になっても収入が途絶えないように」と会社形態の髙城精機製作所を設立。1961年のことである。
あるプラスチックメーカーから「容器の金型をつくれないか?」と相談されたことを機に、九州で初の金型業に転身する。弟を入社させ技術習得のため東京に送り込み、髙城自身も職人探しに上京した。そして、3年がかりで職人をスカウトしてきて、九州で初めて家電製品の金型がつくれる会社になった。以来、社業は順調に発展する。そして1966年には現在の本社所在地に2500坪の土地を購入した。
その2年後、最初の経営危機が訪れる。規模拡大を目指し不渡手形の心配のない大手の取引先を増やすため、積極的に借り入れをして設備を更新すべきとの髙城の考えに対して、一部の幹部は「借金せず自己資金の範囲内にとどめるべき」と反旗を翻したのである。それどころか、その幹部らは大手企業からの注文を「荷が重い」と断ってしまうほどであった。この対立を取引先や銀行が心配し、融資を渋られることもあった。このままでは会社が潰れると危惧した親戚が仲介役となって地元の大手精密機械メーカーに会社を売却する話が持ち上がり、すったもんだの挙げ句、会社は存続する代わりに半数の15人ほどの社員が退職する。「やる気のある社員だけが残り、身軽になったこともあって再建は順調に進みました」
和議申請と起死回生のヒット商品
1973年には2億円かけて新工場も建設。しかし、同年発生したオイルショックで再び経営危機に陥った。借入金が5億円に膨らみ、身動きが取れなくなった髙城は1977年、福岡地裁小倉支部に和議を申請する。債権者会議で「下請けのままだと不景気のたびにこうした事態になる。自分の特技は発明だから、特許が取れるような製品を開発するメーカーになって返済する」と力説すると、「それができれば誰も苦労はしない」という声が上がった。しかし、8時間もかけて説明すると、しまいには「髙城君、好きにやれよ」と認めてもらうことができた。「(債務超過なので)会議が決裂しても何の得にもなりません。最後は私に賭けるしかないと思われたのだと思います」と髙城は振り返る。
髙城の力説は嘘ではなかった。和議申請の半年後、「ポリカンポンプ」という商品が、大ヒットどころか起死回生の"逆転満塁ホームラン"になった。これは、石油ストーブに灯油を注入する際、空気を圧縮してポリ容器に入れ、空気の力で給油、レバーをはなせばストップするガソリンスタンドのように楽に注げるタンク付き灯油ポンプである。普通のポンプが100円程度のところ、1980円という値付けでも飛ぶように売れた。
「付加価値さえあれば20倍の値段でも売れるという自信になりましたね」
周囲の理解と協力を受け、債権者からのお話で債務返済を5割からさらに1割との話し合いが成立し、3年で和議終了。その1979年11月、家庭用品メーカーの株式会社タカギを設立し、髙城は新たなスタートを切った。二つ目のヒット商品となった、5通りの水の噴射ができる「ノズルファイブ」もその年に開発している。
立教大学法学部に入学
好成績で卒業
さて、1980年代に社業が順調に推移し、髙城はいよいよ「一儲けしたら大学で学ぶ」という夢を叶えるときがきたと考えた。すでに35年の歳月が過ぎていた。
「経営判断をする際、必ず法律知識が必要になります。判断を間違えれば命取りにもなりかねません。弁護士や弁理士などの専門家の力を借りるにしても、最終決断は経営トップが下さなければならないのです。そのときに法的能力がなければ正しい判断を下せません。ですから私は、大学で法律を学ぼうと考えました」
1990年のこと、毎週土曜日に髙城は予備校に通い始める。受付で申込書に生年月日を書くと「お父さんのではなく、お子さんのを、お願いします」ともっともな誤解をされるスタートではあったが、髙城の胸は希望に膨らんでいた。
大学は、司法試験の試験官が揃うなど教授のレベルが高いこと、最新情報が集まる東京にあること、そしてアットホームな校風などが決め手となって立教大学法学部に決めた。受験のためにせっかく英語を勉強するなら、有名なセリフが書かれている本だと日頃の会話に使えるなど何かと役立つだろうと、当時ベストセラーとなっていた『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』の朗読テープ付き原書を購入し、1時間分を覚えたという。
「社業と勉強の両立は大変でしたが、やると決めたら合格するしかないと心して取り組みました」
そして、53歳の新入生が誕生する。髙城は東京・池袋のマンションの1室を借り、学生生活を始めた。若い学生ともしだいに打ち解け、ときにはコンパも楽しんだ。しかし、「大学で勉強したい」という念願が叶った髙城は、週平均12〜13コマを受講し、社業を終えた深夜0時から4時間、勉強に打ち込んだ。こうして75%がA評価、法学部450人中69位の成績で卒業する。単位も経営に役立つようにと30単位余分に取った。
ICSで税務戦略論などに踏み込む
ところで、オーナー経営者が4年間も遠く離れた東京に行ったきりになって経営はどうなるのか、誰もが心配するだろう。それに対して、髙城は次のように否定する。
「全く不安はありませんでした。各部署に幹部が育っていましたし、電話やファックスなど通信手段も発達していたので社長の意思を伝達することは簡単ですから。というのも、私は自分1人で創業し、あらゆる業務を行ってきたので、報告を受ければ大概のことはよくわかるのです。製品開発においても、図面をファックスしてもらえば判断できます。むしろ、私が不在の間に権限委譲が進み、社員の責任感がグッと高まったという効用がありました」
入学時には23億円だった売り上げが卒業時には48億円に伸びたことが、そのことを雄弁に物語っているといえよう。
「やると決めたらとことんやらないと気が済まない性分」と言う髙城は、卒業後、東京大学の大学院に通いたいと考えた。学部では一般的な法律を学んだが、さらに知的財産権など企業経営に必要な法律を勉強する必要性を感じたからである。
「特に当社の特許への侵害が多発しており、知的財産を守ることが当社のようなアイデア商品の企業にとっては絶対に不可欠だったからです」
しかし、東京大学にはロースクールができたことで企業法務を研究できるコースがなくなった。ロースクールは司法試験の予備校のようで性に合わない。調べて、一橋大学大学院国際企業戦略研究科(ICS)がベストと判断し、2005年に67歳で入学する。ここで2年間、税務戦略論、国際租税、M&A、知的財産法、破産法などの学習に踏み込んだ。
「ICSには企業や国税庁や官僚のOB・ОGなど実務経験豊富な先生がたくさんいて、話が具体的で面白く、素晴らしい環境だと思いますね」
その2年間で、60億円の売り上げが90億円に増えた。
「経営判断に役立つ法的知識が得られたのはもちろんですが、コンプライアンスへの意識や論理的思考力、判断スピードなどさまざまな能力が高まったと実感できました」
そして髙城は2013年、ICSの博士課程に入学し、週1回の東京への通学を再開している。
「国際展開も本格化し、移転価格税制など新たな課題も生じています。また、私には63歳のときに生まれた息子がいますが、事業承継や相続の問題も発生します。私についてきてくれている従業員のためにも、多額の相続税を払うために会社を手放すわけにはいかないので、その対策としても学び直したいと考えました。私は目の前の問題は自分で学んで解決したいと思うのです。好奇心も強いのですが」
「千里の馬は常に有れども伯楽は常には有らず」
そう語る髙城の夢の一つに、ハーバード大学で経営学を学ぶことがある。
「年齢は全く関係ないと思っています。チャンスをつくってチャレンジしたいですね。登山家になぜ山に登るのかと尋ねると、そこに山があるからと答えるという話がありますが、私が同じ質問をされたら、登らないと次の山が見えないから、と答えます」
まさにあくなき探究心だ。そんな髙城は、現在の日本の教育のあり方や学生の姿勢に大きな問題意識を抱いている。
「私は20歳頃まで指導者に恵まれなかったことで、大きな回り道をしました。私の個性を認め、伸ばしてくれる指導者に出会えていたらもっと違う人生を歩んでいたと思います。これからの教育機関は、教わる側がもっと主体的に勉強しようと思えるような環境をつくることが極めて重要だと思います。教科書となる情報や出版物などは身の回りに溢れているのですから。それから学生に対しては、この貴重な時期、アルバイトやサークル活動ばかりでなく、もっと勉強に時間を使ってほしいと思います。好奇心を持ち、いろいろな世界を見てほしい。そして、情熱を持って経験したことをきちんと話すことができれば、どんな企業でも採用したいと思うのではないでしょうか」
終戦期、父親のいない環境で育ち、大学進学もままならなかった髙城は、大学で学ぶことにハングリーであった。初等教育から大学教育まで所与のものとされている現代の若者とは、前提が違いすぎる。しかし、ハングリーであれば、それだけ吸収しようという意欲が増し、身になることは真実だろう。
中国の諺に「世有伯楽、然後有千里馬。千里馬常有、而伯楽不常有」(世に伯楽有りて、然る後に千里の馬有り。千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず)というものがある。「暴れ馬は、伯楽(馬を見分け育てる名人)の手によって1日に千里を走る名馬になる。そういった潜在能力のある馬は常にいるが、伯楽はそうはいない」という意味だ。教育界に、生徒や学生が意欲的に学べるようになるための伯楽が求められていることは間違いない。
「偏差値一辺倒の詰め込み型の受験教育は、どちらかというと早熟型の子どもに有利なもの。当時の私のように、そういった勉強ではなく発明に興味があるような子どもは、そのような流れのなかでは落ちこぼれてしまうのです。もし自分が多様性社会のアメリカで暮らしていたら、どこかの大学が歓迎してくれたと思います。受験教育で広く浅く詰め込んだ知識など、その後何かの役に立つのでしょうか?」と髙城は疑問を投げかける。
エンジニア採用のPRもねらい小型飛行機を購入
会社を設立して2年目のこと。若戸大橋の完成を記念して博覧会が開催されることになった。髙城はある機械を出品するつもりでいたが、気がつくと申込期限が過ぎていた。事務局に頼み込んでも受け付けてくれない。自分の力を世に問うために何としても出品したいと願っていた髙城は、市長への直訴を思いついた。髙城は小中学生のときに発明展で市長から賞状を10枚ももらっていたからである。
「市長の家に行き、『市長は私をご存じないかもしれませんが、私はよく存じております』と言って10枚の市長名のある賞状を見せ、出品できるよう計らってもらえないかと頼み込みました。市長は『それは大変だね、分かった』と言って一筆したためてくれました。私の発明好きは、そんなことにも役立ったのです」
髙城は少年時代から飛行機に憧れ、1972年にアメリカで軽飛行機操縦ライセンスを取得、1982年には4人乗りのアメリカ製小型飛行機「ウォーリアII」を購入し自家用機所有の夢を実現させた。これには別の思惑もあった。一度経営破綻した会社に優秀な技術者はなかなか振り向いてくれない。そこで、自家用機をアピール材料にしようとの魂胆である。ねらいどおり、エンジニア志望の学生を何人も採用することができている。現在は、2012年9月に購入した、4人乗りの双発機を含め2台の社有機を保有し、求人や福利厚生の一環として、社員の体験搭乗等に活用している。
また、現在30万m2の山を買って造成した14万m2の中に延べ5万m2の5階建ての工場、野球場、サッカー場等を作ることを計画中だ。今年の年末より工事を始めるそうだ。
夢はあきらめた瞬間に夢ではなくなる。夢があるからこそ、その実現に向かって努力する。努力をすれば、よい結果がついてくる。では、今の教育界は、いや、日本の社会は、子どもに夢を抱かせているだろうか。髙城のライフストーリーには、夢を抱くことの大切さが目一杯、詰まっている。
(2014年4月 掲載)