不安定な時代を生き抜くには、キツい経験がものをいう
- 株式会社タダノ 代表取締役社長多田野宏一氏
2014年秋号vol.44 掲載
建設現場で、街中で、TADANOのマークが付いたクレーン車をよく見かけるだろう。その「移動式クレーン」の世界トップメーカーの本社が、香川県高松市にある。株式会社タダノ。2003年に6代目として同社の代表取締役社長に就任した多田野宏一は、「一橋大学での4年間に熱中したフィールドホッケーや、卒業後就職した総合商社におけるナイジェリア駐在などで学んだ腹のくくり方、自分の身の捨て方、一生懸命に頑張ることの大切さ、そして克己心が支えとなって、社長就任以来11年間、さまざまなピンチを乗り越えてこられた」と述懐する。タダノのステートメントは"Lifting your dreams"。多田野自身、どのようにキャリアを"持ち上げて"きたのか、そして今の学生に何を伝えたいか、話を聞いた。(文中敬称略)
多田野 宏一
1954年香川県高松市生まれ。1977年一橋大学経済学部卒、丸紅株式会社入社。同社にて11年間勤務(うち海外勤務7年)。1988年株式会社タダノに入社。1996年ドイツの子会社FAUN GmbHの社長に就任。2003年株式会社タダノ代表取締役社長に就任。現在に至る。
移動式クレーンのトップメーカー
"TADANO"マークでお馴染みのタダノの移動式クレーン。一口に「クレーン車」といっても、さまざまな種類がある。まずは街中でよく目にする、トラックの荷台にクレーンが設置された「カーゴクレーン」。コンパクトで機能性を重視しながらもハイパワーを実現した「ラフテレーンクレーン」。そして、最大のものでは550トンもの重量物を吊り上げることができ、大規模な都市開発や橋梁工事などに用いられる「オールテレーンクレーン」などがある。
これらの売上高は、2012年度は1348億円強であったところ、2013年度は1817億円強と35%弱も伸びている。海外売上は5割を超えた。
「大震災からの復旧復興、防減災、インフラ老朽化対策など時代のニーズを追い風に、おかげさまで業績好調です。今後もしばらくこのトレンドは続くとみています」と多田野は言う。
多田野の祖父である益雄は、1919年に溶接技術で身を立てようと北海道に渡ったが、さまざまな苦労を重ねた末に高松の生家に戻る。そして1948年、長男(多田野の父)と次男とともに、前身となる株式会社多田野鉄工所を設立する。
「祖父らには、身につけた溶接と油圧の技術を組み合わせて何か新しいことをやろうという意欲があったようで、試行錯誤しながらも鉄道の枕木を補正する機械や菜種油などを搾る搾油機といったものを開発しました。そうして1955年に日本で初めてのトラッククレーンを開発しました。それ以来、クレーンメーカーとしての地歩を固めてきたという歴史があります」
建学の理念に引かれ一橋大学に入学
そう説明する多田野は、その前年の1954年に生まれる。物心ついた頃、家は工場の一角にあった。遊び場はもっぱら工場のなか。高松で、多田野は18歳までを過ごす。「トラッククレーン工場のなかで育ち、その空気感は体に染みついている」と言う。だからか、「家業を継ぐ、継がないといったことは、タダノに入社する数年前まで意識したことはなかった」と述懐する。
多田野が通った高校は、県立高松商業。その名を聞くと、高校野球を想起する人は多いだろう。春の選抜には25回、夏の大会には19回出場し、春夏とも2回ずつ優勝を果たすという屈指の強豪校である。野球だけではない。サッカー、バスケットボール、バレーボール、陸上、バドミントンなど全国大会で活躍する強豪チームが居並ぶことでも知られる香川県の名門校だ。
「海が近いので水泳は好きでしたが、こうした部活には縁がありませんでした。そのせいか、大学では何かスポーツをしたい、という思いが強くありましたね」
高松で18年間過ごしたので、大学生活は東京で送りたいと願った多田野は、図書館や書店で大学のガイドブックを読み、「豊かな教養と市民的公共性を備えた、構想力ある専門人、理性ある革新者、指導力ある政治経済人を育成する」という一橋大学の建学の理念に惹かれる。
「漠然と、実業の世界で何かやりたいという思いがありました」と言う多田野は、1973年に一橋大学経済学部に入学する。それと同時に、体育会陸上ホッケー部に入部した。ベルリンオリンピックに出場したイレブンのうち、4〜5人が同部のなかから選出されたという歴史を持つ名門である。
「しかしながら、当時はマイナースポーツで部員が少ない部でしたので、レギュラーになれる可能性が高いと踏んで選んだというのが正直なところ(笑)。もっとも、フィールドホッケーはスピード感のある面白そうな競技と感じ、惹かれたのも事実ですが」
"巧妙に勝つ"作戦で戦後最高の成績を叩き出す
フィールドホッケーは初体験だったが、その面白さに多田野はのめり込んでいった。また、ほかのメンバーも大学で始めた者ばかりであった。
「4年近く、フィールドホッケー一筋に本当に一生懸命取り組みましたね。毎日毎日、練習前に小平の土のグラウンドをローラーで固めていたことを思い出します」
当時は、法政、早稲田、慶應義塾、東京農業の各大学が関東1部の強豪であった。それに対して、写真を見ればイメージできるとおり、一橋大学はいくら名門でも経験不足の弱小チームである。「どうすれば強豪に勝てるか、真剣に考えた」と言う多田野は、"巧妙に勝つ"という作戦を考えつく。
「まともにぶつかって勝てる相手ではありません。そこで、いかに攻撃させないかを考えました。相手チームのエースプレーヤーにはディフェンスを複数つける。偶然を装った反則ギリギリのことをする(笑)。そういった、勝つというよりも負けない方法を一生懸命に研究しました」
また、対峙する相手にフェイントをかけて次のアクションを導き出し、想定した相手のアクションに対して優位にプレーを進める、といった頭脳プレーを駆使した。
4年次のリーグ戦で当たった法政大学には、キーパーが急遽風疹でダウンした影響も出て15対0で惨敗した。そのとき、次の対戦相手である早稲田大学の選手たちが「法政が15点なら、俺たちは10点は取れるな」と話しているのを多田野は耳にした。「何としても勝とう、と燃えた」と言う多田野らは、作戦を決行する。
「結果、1対0で勝ちました。結局、この大会でチームは関東1部リーグ3位という、一橋大学では戦後最高の成績を叩き出しました。その記録はまだ破られていないと思います」と多田野は胸を張る。
陸上ホッケー部生活で得た三つの財産
4年間の陸上ホッケー部生活で、多田野は三つの財産を得ることができた。一つ目は"弱者の戦略"である。実力差が開いている相手であっても、同じ人間である。つけ入る隙は必ずある。そこを考え抜く力が身についた。
二つ目は、"チームワーク"である。同じく、強い相手に対して1対1で勝てないのならば、2対1という"数的優位"をつくればいい。いかにこれを実践するかは、ひとえにチームワークにかかっていることを体得した。
そして三つ目は、最も貴重な財産、"仲間"である。多田野は次のように言う。
「当時の仲間とは今でもときどき集まりますが、集まった瞬間に40年前に戻れるのです。一つのことにともに打ち込んだ仲間は、打算や利害関係のない、真の仲間。社会に出てから得た仲間とは、また少し違いますね。一生の宝物だと思います」
フィールドホッケーだけではない。多田野は学生時代に、もう一つ大きな経験をする。1年次の11月頃、1台の自転車を携えてニュージーランドに渡り、北島のオークランドから南島のクライストチャーチまでの約900キロメートルを、約1か月かけて単独で縦断したことだ。文化人類学者である姉の夫が同国で開かれる学会に出席することになったが、日本から行くほかの学者などの頭数が旅行会社の団体割引対象に1人足りなかった。そこで声をかけられたことが契機となった。
勝つことよりも負けない方法を全員で考えたという
今も旧友たちと集まると、陸上ホッケー部時代の話に花が咲くという
何気なく入部して始めたフィールドホッケーに夢中になった
事前準備の重要さを痛いほど学ぶ
「行けば何とかなる」という楽観的な精神で、日本のニュージーランド大使館でもらった小さな地図1枚だけが頼りという、かなり無謀な冒険であった。
「その地図に描かれている海沿いの道を下ることにして、勝手に風景などを思い描いていました。しかし、いざ到着すると何もないのです。しばらく走りましたが、店も何もない。途中出会った人には『そんな計画では死んでしまうぞ』などと言われ、急きょ内陸を通るルートに変更しました」
南半球にあるニュージーランドの11月は、日本では4〜5月に相当する。日中の気温は20度ぐらいあっても、明け方には0度近くまで下がる。
「寝袋を持っていきましたが、マットなどはありません。ですから、あまりの寒さにとても寝ていられないのです。何とかなると楽観し、ほとんど準備などせずに出掛けて、大いに後悔しました。元々そういうタイプの人間でしたが、あまりにも不用意でしたね。事前準備の重要さを痛いほど学びました」
ツアー終盤では、汚い風体の東洋人の若者として、道を尋ねようとしても避けられるといった経験も。何とか聞いてもらえても、受験英語だけで英会話の勉強まではしていなかったので、そもそも話が通じない。
「今のようにGPS付きのスマホなんてありません。途方に暮れることもありましたが、それでも"何とかなる"という思いだけは途切らせることなくペダルを漕ぎ続け、やっとの思いでクライストチャーチにたどり着きました。大変な苦労をしましたが、いい経験だったと思っています」と多田野は述懐する。
「早く海外に出たい」とナイジェリア赴任を志願
1977年に一橋大学を卒業し、多田野は総合商社の丸紅に就職する。ニュージーランドからの帰途に立ち寄ったオーストラリアのシドニーで、日本料理店で食事をしていた日本人駐在員の姿に接し、漠然と「海外で仕事をしてみたい」と思ったことが胸の奥底にあった。
「食糧を手掛ける仕事をしてみたいと思っていましたが、配属されたのは機械を扱う部署でした。もし合わなければ転属もできると言われていましたが、やってみるとなかなか面白いので、そのまま続けました」
丸紅時代の11年間のうち、3年間はナイジェリア、4年間はマレーシアに駐在し海外生活を送る。仕事内容は、コマツ、クボタ、キヤノンなどの機械類を売ることだ。「早く海外に出たい」と思った多田野は、当時誰も行きたがらなかったというナイジェリア赴任に手を挙げた。
「当時、サンフランシスコ、シドニー、シンガポールが"3S"と呼ばれる、環境の整った最高の赴任地と言われていました。ナイジェリアのラゴスは、その対極の、ハードシップが最も高い赴任地でしたね」
当時の同国は、約1億人というアフリカ全土の4分の1ほどの人口を擁する大国であった。サハラ砂漠に接する北部の土漠地帯、それ以外のサバンナおよび熱帯雨林という三つのエリアに分かれる。
「入社後の担当地域が東南アジアで、ナイジェリアの予備知識もなく、キリンやライオンが草原にいるようなイメージを、また勝手に抱いて行ったのですが(笑)、それはケニアなど東部の話でした。全然違うので当初は面食らいましたね」
「ずいぶん遠い所にきてしまった......」と家族を思い流した涙
当時のナイジェリアは治安が悪く、インフラの整備も遅れていた。窓や戸には盗賊が侵入しないように柵が取り付けてある。駐在員が地方に出張するときは、ルートなどを届け出る決まりになっているが、通信インフラが十分ではない当時、駐在員仲間が予定どおりに帰ってこないときは手分けしてルートに捜しに出る、ということもあった。
ラゴスにいる分には、駐在員仲間や運転手、ハウスキーパーなどの話し相手がいたからまだ良かったが、地方出張となると勝手が違った。宿の電球は暗くて本を読める光量はない。暗いなかでじっとしているより仕方なかった。
「入社してすぐ結婚し、当時生まれたばかりの子どもがいました。そんな土地でしたから、単身赴任をすることにしましたが、ナイジェリアの地方の宿で夜、寝転がってじっとしていると涙が溢れてくるのです。ずいぶん遠い所にきてしまった、子どもや妻の顔が見たいなぁ、と」
さすがの多田野も早く日本に帰りたいと思い、手帳に"×"を書いて「あと何日」と数え始めたが、数か月でやめた。
「そんな自分にあきれ果てたのです(笑)。そして、『そんな後ろ向きでいて、いい仕事なんかできない。住めば都だ』と思うようにしました。そうやって腹をくくってからは、仕事をしている実感が味わえるようになりましたね」
近くの、誰も泳いでいない海岸で好きな海水浴をするという楽しみも見出し、その土地の生活を楽しんだ。が、その海岸には「サメがウヨウヨいる」と聞き、やめたというオチがつく。
ナイジェリアから帰国後、1年足らずで今度は家族帯同でマレーシアの首都・クアラルンプールに赴任する。「とても過ごしやすい環境だった」と多田野は振り返る。国情も、家族帯同という点においてもナイジェリアとは全く違う環境であった。しかし、任期4年の後半2年間は、発生した不良債権の回収に追われる日々であった。精神的にも相当に追いつめられて、突然、手が動かなくなることがしばしばあった。メンタル面の症状と感じたが、誰にも相談せず乗り越えた。ナイジェリアでの経験が多田野の幹をつくり、自身を支えたのである。
学生時代はバックパッカーとして世界を旅した
海外で出会った人たちとのスナップ
学生時代の恋人(現奥様)と
社長就任後に経験した苦労を乗り越えられた原動力
1988年、多田野はマレーシアからの帰任と同時に丸紅を退社し、タダノに入社する。その前から親族に入社を請われ、初めて"家業承継"を意識し、徐々に意思を固めていったのだ。
入社後はドイツの同業メーカーの買収などを手掛ける。その後、社長室長として6年間、経営の参謀役を務めた。そして、1996年にドイツに赴任し、買収した子会社の社長に就任した。この会社が製造するオールテレーンクレーンがタダノの商品ラインナップを大きく拡充することとなり、世界企業に躍進する原動力となった。このプロセスでは、多田野の商社時代の経験が存分に活きたといえるだろう。
しかし、好事だけではないのが企業経営だ。冒頭で社業の順調ぶりについて触れたが、2003年に多田野が社長に就任してからの11年間には、さまざまな苦労があった。
「就任2年目の2004年にリコール問題が発生し、社会的に叩かれました。社会目線を喪失していたことに気づかされたこの出来事は、私自身にとってもタダノにとっても大きな転機となりました。また、2008年9月のリーマンショック後の2年間で世界のクレーン需要が半減し、2010年度は会社設立以来最大の赤字を計上しました。さらに、2012年にはタダノの北米子会社で900万ドルの横領事件が発生しました。そのほか、構内事故などもありました。社長という立場であれば当たり前のことですが、自分の後ろには誰もいないなか、それらの出来事、つまりピンチを乗り越えることができたのも、学生時代から20代のときに自分の軸をつくる原点となる体験があったからと考えています」と多田野は打ち明ける。その原体験とは、自転車でのニュージーランド縦断であり、4年間続けたフィールドホッケーであり、ナイジェリア赴任だ。
「腹のくくり方。自分の身の捨て方。一生懸命に頑張ることの大切さ。負けることを通じて己に克つこと、つまり負けた自分を認めながらも、負けたこと自体に負けないこと。すべてはそのときに学んだと思っています」
いろいろな体験・経験をして自分なりの軸を身につけよ
そんな多田野は、自身のこれまでを振り返りながら、「これからの時代を生きるうえでは、キツい経験が絶対的にものをいう」と指摘する。
「私が社内外でよく話すことですが、今、歴史的に大きな不安定期にあると思います。かつての東西冷戦時代のほうが、ある意味安定していました。今は、経済的にも、政治的にも、そして気候的にも変化の方向が読みづらいですね。まさに複雑系そのものです。しかも変化のスピードは速く、さらに変化の幅は極端に大きい。そんな時代を生き抜くには、ハードな経験がものをいうと思います」
変化が激しいということは、周囲が大きくブレるということだ。そんななかにあっては、自分の軸をしっかりさせなければならない。そうでなければ、さまざまなことを判断できないからだ。特に多様な価値観のなかで仕事をする国際人には、それが強く求められる。自分軸を確立させるためには、ハードな経験値が高ければ高いほど有利である。自分を客観視する別の自分が軸を支えるからであり、別の自分は新しい経験で開発できるからだ。その源泉となる力は"好奇心"や"想像力"だろう。
「中央にいると、中央のことはなかなかわからないと思います。しかし一度外に出てみればよくわかる。あまりいいことではないかもしれませんが、一度道から外れかければ、正道を歩むことの大切さがよくわかりますね。道を外れる好奇心と、外れたらどうなるかという想像力が自分の行動を決めるのではないでしょうか」と多田野は投げかける。そうして一歩踏み出し、行動してみることが特に学生時代には求められるのだろう。よくいわれることであるが、学生時代は、お金はないかもしれないが、時間はたっぷりあるからだ。「その貴重な資源を無駄にすることなく、見聞を広めることが大切です。旅行するもよし、人に会うもよし、教養を身につけるもよし、です。確かに専門性も大切ですが、現代のような不安定期は幅広い知識で広く構えているほうがいいのではないかと思いますね」
すべての若者が心のなかに本来持っている、ほとばしるような情熱・勇気・根性と、ハードな体験やネガティブな経験がスパークして、気づきや学びがあり、自分軸が培われていく。
「自分軸は人それぞれ。いろいろな自分軸があっていいと思います。若い人たちには、感受性豊かな学生時代から20代の間にできる限りいろいろな体験・経験をして、ぜひ自分なりのもの、自分軸を身につけてもらいたい。そして、その幹を太くしていくような人生を歩んでもらいたいものだと思います」と多田野は一橋大生にエールを送って結んだ。
(2014年10月 掲載)