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一橋大学発 「医療政策・経済研究センター」「医療経済専門職コース」が 誕生します

2016年夏号vol.51 掲載

日本の医療に社会科学の知見を活用し、高度研究及び専門職業人教育を目指す

平成29年度よりスタートする、「医療経済の高度研究」及び「医療経済専門職コース」

一橋大学は、平成29年度より「医療経済の高度研究」及び「医療経済専門職コース」を始動させる。日本の医療費の増加が続く中、医療資源の効率化や持続可能な医療制度の構築が課題となっている。課題解決にあたっては、ビッグデータ等を活用した実証研究の蓄積と、研究成果を反映した専門職業人教育を通じて、医療の政策形成・現場の知見の向上が欠かせない。とりわけ、エビデンスベースで費用対効果を検証する経済学のツールは、限られた医療費の最適化を実現させるうえで不可欠となっている。そこで一橋大学の社会科学に関するさまざまな知見を医療に活用するためのプログラムを立ち上げることになった。
前者の「医療経済の高度研究」については《医療政策・経済研究センター》の立ち上げを通して、経済学研究科はもとより、経済研究所、商学研究科、国際・公共政策大学院などが中心となって医療経済に関する最先端の研究を行う。
後者の「医療経済専門職コース」については、《高度専門職業人教育》というテーマのもと、医療経済コース及びエグゼクティブ・プログラムを開講。後述する四大学連合(東京医科歯科大学・東京外国語大学・東京工業大学・一橋大学)のもとで設置された「複合領域コース」(特別履修プログラム)から、主に東京医科歯科大学と一橋大学経済学研究科との連携で行われてきた「医療・介護・経済コース」の科目群をベースに、ニーズに合わせて内容を再構築。平成28年度を準備期間に充てて議論を深め、平成29年度より本格稼働させる予定だ。
今回、『HQ』では2人の教授に取材し、立ち上げの背景や、一橋大学における医療経済の研究・教育に向けた構想などをうかがった。1人目は、経済学研究科の佐藤主もとひろ光教授。地方財政理論や医療経済を研究テーマに持ち、前掲の「複合領域コース」では「医療・介護・経済コース」も担当している。2人目は、商学研究科の荒井耕こう教授。医療の管理会計をテーマに、バランスト・スコアカードや医療の原価計算の研究を行うかたわら、東京医科歯科大学大学院の修士課程「医療管理政策学(MMA)コース」の教員も務めている。専門領域は異なるが、ともに医療経済をテーマに研究・教育を行う両教授。立ち上げの目的や今後の展望に関する2人のコメントからは、医療経済の分野には、専門領域の違いを超えた専門家の取り組みが急務であることが伝わってくる。

医療・福祉の世界に「費用対効果」という視点を導入し、国や地域単位の医療圏での限られた医療資源の最適化を目指す

「医療経済」という学問領域が、今求められているのはなぜか。まずはその背景について整理していこう。
現在、日本の医療費は年間40兆円を超え、社会保障関係の経費は30兆円にのぼり、大きな財政負担となっている。介護給付費は、介護保険制度がスタートした2000年度は年間3・6兆円だったが、今では年間8兆円と急速に膨れ上がっている状態だ。これは経済・財政問題であり、大きな社会問題である。この認識について異論を唱える人はいないだろう。そこで社会科学、とりわけ経済・経営の視点やツールが求められている理由について、両教授は「限られた医療資源の分配」という観点から次のように語っている。

佐藤 主光教授

佐藤 主光教授

「超高齢社会が到来し、財政は逼迫する一方です。その中で求められるのは効率性、すなわち費用対効果です。ただし、患者や要介護者を切り捨てるという意味ではありません。本当に医療や介護を必要としている人に資源を充当するには、無駄な部分を削ぐしかない。そこで求められるのが費用対効果に関する検証です。どの地域の、どの診療科の、どの医療行為に重点的に資源を配分するか、という最適化の検証をするためには、経済学の知見が必要になってきます」

荒井 耕教授

荒井 耕教授

「医療・介護は公的な領域ですから、個々の病院や施設の採算がとれていればいい、というわけではありません。地域の医療圏として、一国の医療提供システムとして、質が高く効率的なものがあるかという視点が重要です。現状は、個々の病院・施設は自ら提供している主要なサービスのコストや採算性をある程度把握するようになってきていますが、国はコスト・採算情報を持っていません。これを放置すると、赤字の診療科は閉鎖されかねない。ひいてはその診療科を専門とする医師も少なくなってしまいます。そこで国家レベルで診療科のコスト・採算情報を継続的に見て、原価計算をもとに診療報酬政策を変えていく必要があるのです。そこには、会計学や経営学が欠かせません」

このような背景があるからこそ、経済学・経営学の知見に対する社会的なニーズは大きいと2人は語る。また、荒井教授が言及した「地域の医療圏」という枠組みにおいて、今後経済学・経営学が果たす役割は大きいようだ。

全国350にのぼる二次医療圏及び圏内の医療・介護機関が地域医療構想を実行するための経営学・管理会計学

医療・福祉に関して、時代の流れは「地域ごとの医療・介護の最適化」にシフトしている。青写真は各医療圏における行政が描くとしても、手術・リハビリ・療養・通院については複数の医療・介護機関が連携する時代なのだ。そこでは行政による医療圏のマネジメントに加え、各機関の経営層によるスタッフマネジメントが欠かせない。

荒井教授

「現在、各都道府県には『二次医療圏』が設けられています。人口等によって都道府県ごとに数は違いますが、全国で見ると約350圏。平成28年の半ばをめどに、この二次医療圏単位で行政が地域医療構想を練ることになっています。そこで地域医療圏を最適化するためには、個々のプレイヤー、すなわち各医療・介護機関にその構想に沿った動きをとってもらわなければなりません。そして、各医療・介護機関においても、各部門内のスタッフに自らの組織のミッションに沿うように動いてもらわなければならないのです。経営トップ層は自組織の力を発揮させるために、バランスト・スコアカードのような管理会計ツールが必要になります。そしてPDCAサイクルを組み込んで組織を機能させるためには、経営トップ層も行政の職員も、経営学や管理会計学の手法を身につけることが必要な時代になっているのです」(荒井教授)

分配や最適化に対する取り組みが求められる一方で、日本の医療は大きな可能性も秘めている、と佐藤教授は語る。前のページでふれた40兆円にものぼる医療費、年間8兆円に急増した介護給付費は、国や地方自治体にとって、財政破綻につながりかねない大きなリスクだ。しかし、医療分野それ自体は、今後の日本経済を支えていく有力な成長分野になり得るというのだ。

佐藤教授

「遠隔医療やロボット開発、外国人の富裕層等を対象にした医療ツーリズム、そしてiPS細胞を使った再生医療。医療財政が逼迫しているからこそ、新しい技術やサービスを生み出すチャンスです。これは日本経済にとって大きな可能性を持つ分野だと思います。実際、経済産業省の方々と話していると、医療を成長分野と位置づけていることが分かります。医療弱者の救済、格差の是正という視点も大切ですが、成長や可能性という視点から医療をとらえなおすことも重要です」(佐藤教授)

授業ではそういう視点も提供したい、と佐藤教授は語る。ではどのような学生や科目を想定しているか、次項で見ていく。

社会科学高等研究院概要図

社会科学高等研究院概要図

四大学連合をバックグラウンドに、医療現場に精通しながらも社会科学の総合的専門教育を受けた人材を世に出す

一橋大学の医療経済の研究・教育について、先に「教育」の側面における構想を紹介しよう。
冒頭でもふれたように、今回の新たな取り組みのバックグラウンドには、2001年3月に締結された四大学連合がある。その中で、「複合領域コース」や「MMA」等の科目として、医療専門職を対象に医学の立場から医療経営・管理の知見が提供されてきた。しかし、医療・介護という社会保障にかかる現代的課題や病院の経営問題に関して、社会科学を主に、経済学・経営学などを専攻する大学院修士課程は存在しなかった。これからの社会保障・医療制度・病院経営改革には、医療現場に精通しながらも、社会科学の総合的専門教育を受けた人材が不可欠であることは明らかだ。その認識に立ち、一橋大学が《高度専門職業人教育》を行うことになった。
構想としては、平成28年度の準備期間を経て平成29年度から授業をスタートさせる。その後、平成30年度までに一橋大学と東京医科歯科大学が連携し、修士課程「医療経済コース」を構築することになっている。また、東京工業大学に医療技術の講師派遣を依頼するなど、これまでの四大学連合の連携を、より強化していく予定だ。

佐藤教授

「東京医科歯科大学をはじめ各大学の協力も得ながら、医療経済、医療政策に関わる専門的な人材を育てる、ということが大きな目標です。そのうえで受講者として想定しているのが、病院の事務職の方、官庁や各自治体の職員の方、コンサルティングに携わっている方......。こういった方々のための専門職コースを設けたいと考えています」

一方、医療・福祉機関の経営者や事務長、看護部長など、経営層・マネジメント層にもリーチする科目を展開する予定だ。ただし、これらの層は長期通学が難しいことが考えられる。そこで短期集中の「エグゼクティブ・プログラム」を設置。基礎から応用・実務教育までの一貫したカリキュラムによるプロフェッショナル・トレーニングのプログラムを行う。

「診療報酬が引き下げられて、病院の経営は厳しくなっています。医療資源がうまく使われていない。今こそ効率性や経営感覚が求められている──。医師はもちろん、医療現場に携わっている方々はもうそのことに気づいているのです。複合領域コース等での授業を15年やってきて、受講する方々がそれぞれ危機感を持っていることを、私は感じています。社会科学に対するニーズは確実にあるので、その方々を惹きつけていきたいですね」

「医療政策・経済研究センター」を立ち上げ、学術研究と政策課題解決を連結させた政策研究の拠点を形成する

医療経済のもう一つの軸である「研究」については、次のような構想を持っている。
日本は世界一の高齢者大国である。医療技術の進歩と高齢者人口の急増に伴い医療費が増大しているのは、これまでにふれてきた通りだ。皆年金・皆保険制度を有する日本においては、医療資源の効率化と持続可能な医療制度の確立が急務である。
そこで、医療保険や診療報酬から、「かかりつけ医」等の提供体制、費用対効果、レセプト等の医療のビッグデータの分析、そして医療の周辺領域である介護・福祉等も包括した世界水準の医療の理論・実証研究を、社会科学の立場から推進し、今後高齢化の進む世界各国に先駆けて提言していく。以上のことを目標に、「医療政策・経済研究センター」を立ち上げ、学術研究と政策課題解決を連結させた政策研究の拠点を形成する計画だ。

荒井教授

「研究と教育は両輪です。研究センターというバックボーンが存在することによって、教育が高度化されます。たとえば医療機関の経営者が受講し、医療機関の予算管理がどうなっているか良い事例を知りたい、というリクエストがあった場合。個々の教員による事例研究はありますし、私自身も持っていますが、時間の経過とともに古くなっていきます。継続的な調査・分析をもとにした事例は必要ですし、それらが教育にフィードバックされる可能性は大きいです。また、今回は経済学研究科が中心ですが、実際にセンターが立ち上がれば私は商学研究科と兼任になるでしょう。経済研究所や国際・公共政策大学院等、医療や介護というキーワードでさまざまな研究者が参加することになります。その意義も大きいですね」

ここで重要なのは、ネットワークというキーワードである。従前の東京医科歯科大学との連携はもちろんだが、一橋大学内の研究者間の学部横断的なネットワーク、海外の研究機関とのネットワーク、そして研究の成果がフィードバックされる教育の現場での受講者間のネットワーク......さまざまな広がりが想定される。

「受講者からのリクエストだけではなく、こちらから受講者に協力を仰ぐことも考えられます。地域医療に携わる自治体職員の方、医療機関の病院長や理事長の方、こういった方々に対して、管理会計や統計分析のツールを提供しながら、一方で自治体や医療機関という現場の取り組みをサンプルとして提供していただき、その後の研究に役立てる。そして『医療経済コース』や『エグゼクティブ・プログラム』をより良いものにしていく。このようなスパイラルが描けるといいと考えています」

佐藤教授

「エビデンスに基づく医療政策を考えていくために、研究センターではデータ収集や分析を行いますが、単独でできることには限界があります。我々はあくまで『拠点』として、ほかの研究センターやシンクタンクとのネットワークをつくり、研究者同士をつなげていきたい。一橋大学に来ればさまざまな分野の研究者と接点が持てる。医療経済に関するさまざまなデータにアクセスできる。研究センターがそんな場になればと考えています」

そして両教授に共通の目標として、「最終的には博士課程で医療経済の研究者を育成したい」とのことだ。

社会科学に特化した研究科ならではのポジションを有効活用しながら、大学間連携の新たなモデルを提唱する

冒頭でもふれたように、平成28年度は準備期間に充てられる。千代田キャンパスでの開講、既存の「複合領域コース」や「MMA」を整理・再構築したコース科目の設定等、ある程度の青写真は描かれているが、詳細についてはこれから詰めていくことになる。 研究科間の垣根がなく、学内に医学系の研究科・学部の影響力が存在しない一橋大学だからこそ、社会科学の立場から医療経済の研究・教育を深められることは間違いない。
最後に付け加えておくと、今回の取り組みには大学間連携の新しいモデルを提唱するという側面もある。それは、各大学が科目を「持ち寄る」ことによって、受講生に一つの大きな「公共財」が提供されるということだ。

佐藤教授

一橋大学が提供する科目のほかに、東京医科歯科大学、東京工業大学がそれぞれ科目を提供する予定です。募集は各大学・研究科で行い、学生はその大学に在籍しながら履修することが可能です。もちろん修了した科目は単位として認定されます。つまり、医療経済を学ぶうえでは『どこから入ってきてもいい』ということです。これは大学間連携の新たなモデルになるでしょう。それが四大学連合の元々の構想でもあります。この機会を活かして、一橋大学の修士課程の学生もぜひ、視野を広げてほしいですね。医療経済という、課題解決を必要としながら同時に発展の可能性を持ったこの領域に、1人でも多くの学生が進んでほしいと考えています

(2016年7月 掲載)