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超速(ハイペース)がマイペース

  • 翻訳者青葉 里知子
  • 商学研究科准教授山下 裕子

2013年秋号vol.36 掲載

一橋大学には、ユニークでエネルギッシュな女性が豊富と評判です。彼女たちがいかにキャリアを構築し、どのような人生ビジョンを抱いているのか?第34回は、外資系金融機関に勤務し、約20年にわたりニューヨークに滞在。現在は、テレビ番組などの翻訳者として活躍する、青葉里知子さんです。聞き手は、商学研究科准教授の山下裕子です。

青葉里知子氏プロフィール写真

青葉 里知子

1985年一橋大学商学部卒業。同年モルガン銀行(現JPモルガン・チェース)入社。1988年トレーニーとして1年渡米、さらに1993年以降ニューヨークに滞在。銀行で働くかたわらニューヨーク大学にてMBAを取得。FRM(ファイナンシャルリスクマネジャー)の資格を持つ。同社では新興国関連のリスク管理を担当。夫の東京転勤をきっかけに退職し、2010年春に帰国。現在は、テレビ番組の台本、放送素材、漫画などの英日・日英の翻訳者として活躍する。

飽きっぽいから、難問が苦にならない

山下准教授1

山下:ずいぶん前の話ですが、ニューヨークに青葉さんを訪ねたとき、マンハッタン島の先端で、自由の女神と真正面に向き合う、コックピットのようなオフィスを見せてもらったでしょう。「これがウォール街かあ」と、衝撃を受けました。「里知子はこんなところで働いているのか──」と、ずいぶん遠い人になってしまった気がしたものです。そもそもどのような経緯でJ.P.モルガンを選んだのですか?

青葉:J.P.モルガンもニューヨーク勤務も、それを目指してというわけではありませんでした。私は慎重な反面、行き当たりばったり。もしも慎重に考えていたとしたらやらなかったかもしれない、ということに飛び込んでしまうのです。数学や物理が好きだったのに一橋大学に入学したのは、学園祭にきてキャンパスに魅了されたから。管理会計ゼミを選んだのは、先生がダンディで素敵だったから(笑)。就職についても、就職活動の時期になったのに、自分のやりたいことがわからなかったので、友人に便乗して何社も回りました。しかし、企業を調べていくと、何かしら嫌なところが目についてしまう。たとえば、男女雇用機会均等法施行の前年でしたので、それを先取りしたポーズ的な採用など......。消去法で選んだというのが正直なところです。

対談の様子

山下:銀行の仕事はいろいろあると思いますが、どのような仕事をされていたのですか?

青葉:最初の仕事は経理部で各部門の収益性を見る業務でした。IT部門と一緒に、そのためのシステム開発にも時間を費やしました。ニューヨークではデスクレベルのCFOのような役割を務めた後、最後の10年は銀行全体のリスクマネジメントを専門に仕事をしていました。ある国が明日デフォルト(債務不履行)したら、銀行はどのような損失を被るのかなど、カントリーリスクがメイン。マーケット・クレジット・リーガルなどさまざまなリスクをストレスロスという形で包括的にとらえる理論的な枠組みを作り、日常的に実行可能なところまでかみ砕いてインフラを整え、日々のリスク管理をする、ということをエコノミストや"クオンツ"(または"ロケットサイエンティスト")たちと一緒にゼロから作り上げたのです。後で知ったことですが、1999年に始めた当時、このように包括的にカントリーリスクを管理するのは業界の最先端だったようです。リスクをとらえる手法やITがどんどん進化したうえ、60か国くらいをモニターしていたので、常に刺激的でした。

青葉氏1

山下:ペーパーにしてもネゴシエーションにしても、英語ですよね。そこは楽にクリアできたのでしょうか?

青葉:決して楽ではありませんでした(笑)。入社したての頃は、テクニカルなペーパーの1ページを読むのに1時間くらいかかったような気がします。50ページなら50時間です。でも、仕事なんだから、やるしかない。いつかは最後のページにたどり着くよ、って自分に言いながら。

山下:海外出張も多かったですよね。

青葉:システム開発部門の中心がロンドンでしたし、28〜29歳の頃からアジアオフィスの代表としてシンガポールや香港など、出張する機会も多かったですね。仕事で初めてニューヨークに行ったのは、1988年にトレーニーとして行ったときです。本当はその前年に行くはずだったのですが、交通事故で首の椎間板を負傷してしまい延期したのです。

対談の様子2

山下:大変でしたね。20代の頃から責任のある仕事を任され、当然高いパフォーマンスを求められたはずです。重圧やストレスなどはどのように解消されたのですか?

青葉:飽きっぽいところもありますから、難しい課題のほうが長続きするような(笑)。好きなことをするのがストレス解消法ですね。20代の頃は映画、読書、旅行でした。ヴィスコンティ監督の映画やウンベルト・エーコのエッセイ、それにイタリア料理が好きだったこともあって、就職してからNHKのイタリア語講座で勉強しました。1994年にミラノに1年間駐在したのですが、その勉強が思わぬところで役に立ちました。ここ10年くらいはロードバイクとヨガです。日本に来てから水泳も始めたので、いつかトライアスロンの大会に出ようと思っています。

夕方5時半にオフィスを出て、夜9時にオフィスに戻る

対談の様子3

青葉:再度ニューヨークに行ったのは1993年で4か月の予定でした。その仕事が終わった時点でニューヨークの上司に「このままニューヨークにいてもいいよ」と言われ、帰りたくなったらいつでも帰れると、ニューヨークにいつづけることに決めました。その先のことを考えてから決めるべきだったのでしょうが、全く考えませんでした。

山下:ホームシックにはなりませんでしたか?

青葉:なりませんでしたね。ニューヨークには誰も私を知らない気楽さがある。目新しいことが多くてとても面白かったのです。たとえばパーソナルトレーナーについて筋トレをしたり、フルマラソンに挑戦したり。どちらもその当時の日本では手軽にできなかったと思います。

山下准教授2

山下:男性は食べ物が合わないとホームシックになるといわれています。女性は1年間日本食を食べなくても平気だといいますね(笑)。

青葉:日本食を恋しがっている暇がなかったのかもしれません(笑)。ミラノからニューヨークに戻った後、ニューヨーク大学(NYU)のMBAコースに通い始めました。ニューヨークで仕事をするからには、米国のMBAがあったほうがいいだろうという程度の軽い気持ちでした。NYUのキャンパスはウォール街から近いので、通うのには便利でしたし、クラスメートのなかには職場の同僚もいました。週2回夜間コースを受講し、3年後に卒業しました。

山下:仕事をしながらでしょう。勉強したりレポートを書いたりする時間は、どのように捻出したのですか?

対談の様子4

青葉:朝7時半から夕方5時半までオフィスで仕事をした後に授業を受け、9時頃にまたオフィスに戻って12時頃まで仕事ということもよくありましたから、勉強はもっぱら土日でした。だから、頑張ってAをたくさん取ろうという気は全くなかったのです。レポートに盛り込みたいアイデアはあっても、時間が足りず結局はまあいいや、と安易に妥協していました。Bでじゅうぶんだと思っていたのです。ところがそこは見透かされていたんですね。レポートを提出した後、ある教授に呼ばれて「時間が足りなかったんだろう。特別に時間をあげるから後半を書き直しなさい」って(笑)。

山下:プライベートでも、忙しい時期だったようですね。

青葉:MBAのコースに通っている最中に婚約・結婚をしました。彼はJ.P.モルガンのロンドンオフィスに所属していて、ミラノで知り合ったんです。婚約してまもなく彼がニューヨーク勤務の希望を出したのですが、NGでした。ずっと遠距離でしたからそばにいないのには慣れていたし、仕事と学校の両方で忙しかったので、まあいいや、MBAが終わったらどうにかしようと私は思っていました。そうしたら2週間後に電話がかかってきて、「会社を辞めた。来週ニューヨークに行く」と。彼は旅行者としてアメリカに来て求職活動をして同業他社に仕事を見つけ、1年後に結婚しました。

帰国と同時に翻訳者を目指す

山下:青葉さんがニューヨークにいらしている間に、金融業界、そしてアメリカ社会そのものが大きく変わりましたよね。あの9・11のときは、どこにいらしたのですか?

青葉:出張と休暇をかねて、たまたま日本に夫と一緒に来ていました。時差ぼけですでに寝ていたのですが「ワールドトレードセンター(WTC)が大変だ」と、父に起こされました。その3日前まで仕事前に毎朝行っていたWTCの目の前にあるデリで、朝ご飯を作ってくれたおじさんの顔が最初に思い浮かびました。3週間後にニューヨークに戻ったとき、グラウンドゼロから煙が出ているのを飛行機の窓越しに見て、SF映画のなかに入り込んだような気がしたのを覚えています。

山下:日本では、東日本大震災の後、多くの人が生き方を見つめ直すようになりました。9・11後のニューヨークで、そうした価値観の変化はありましたか?

青葉:ワーク・ライフ・バランスということを、多くの人が口にするようになったのが9 ・11以降のことだと思います。私自身は、モノを持っていても仕方がないと思うようになりました。着道楽だったのですが、もしかしたら明日はゴミになってしまうかもしれない、と......。もう一つは、そこから数年後の話なのですが、新商品開発委員会のメンバーとして排出権取引に関するビジネスのリスク分析をしたとき、その仕組みにかかわる貧しい国の人々には、恩恵がほとんど還元されていないことに気づいて、大銀行の社会的役割に疑問を持ち始めました。
それと同じ頃に、社内の体制にもさまざまな変化があり、生き方を見つめ直すきっかけになったのではないかと思います。そこに夫の日本転勤の話が出たので、それがキャリアチェンジの決め手になりました。

青葉氏2

山下:でも、のんびり過ごしているわけではない(笑)?

青葉:はい、ボケないためには頭を使っていなくてはと(笑)。通勤電車に乗りたくないのと、日本でもアメリカでもできる仕事をしようと、映像翻訳の学校に通いました。帰国するまでは日本語をパソコンで打ったことがなかったですし、20年近く日本語を使っていなかったので最初は悪戦苦闘でした。日本語はいまだにリハビリ中で、日本にいる間にプロのライターのレベルにまでもっていかなくては、と少し焦っています。今年にはいってから、翻訳を仕事として本格的に始めました。好きなツール・ド・フランス関連の翻訳も手がけられて、ハッピーです。

山下:最後に、グローバルに活躍するためには何が必要か、アドバイスをいただけますか。

青葉:まず、あまり考えすぎず、柔軟であること。次に、海外では自ら発信することが求められますから、たくさんのインプットをしておくこと。最後に、正しい英語を使えること。通じればいいというレベルの英語で、ビジネスをしたくありません。そのためにはきちんとした文法を身につけておくことが大事だと思います。

対談を終えて「アンドロイド疑惑」

久しぶりの再会に、殊のほか、緊張した。それはきっと、青葉さんが歳を重ねている姿を全く想像できなかったからだ。学生時代の青葉さんは、四谷シモンの人形のような顔立ち、個性的なファッション、身のこなしが凛々しく、そして極めて優秀だった。さらっとキャンパスにあらわれて風のように姿を消す。なのに、試験のときには青葉ノートのコピーが増殖していた。決して優等生タイプではなく、いつも何か、勉強以外のことに熱中している。印象深いのは手芸で、「急にやってみたくなった」ということで、一晩で、アラン模様のセーターを編みあげちゃった、とか、ケロリ。多くの友人知人と楽しそうに談笑しているのに、群れるということがない。
マイペース。でも、そのマイペースが超高速に別次元で展開されているのである。宇宙人、いやいや、人間を超えたアンドロイド?もし、本当にアンドロイドで、全く変わってなかったらどうしよう......。
目の前に現れ出でたる青葉さん、何と、ますます、パワーアップしている!トライアスロンのために鍛えているというしなやかなボディは、体脂肪率が限りなく、0%。そして、何よりも、ますます、精神に気力が漲っている!
不惑も過ぎると、急に同窓会が開かれるようになる。その背景には、「まあ、いろいろあったけど、歳をとれば、また一緒だよね」的な甘やかな連帯感があるように思う。けれど、青葉さんは、来たところも、行くところも違うのである。比較して安堵したり嫉妬したりという感情とは無縁の世界だ。こういう人との繋がりは決して連帯感ではない。
異なる世界でマイペースを貫く友人は、何とも言えない自由な気分を味わわせてくれる。自分もできそこないのスペックなりに、のびのび行きましょうというすがすがしい風が吹く。歳を重ねたんだもの、ますます、マイペースで行かなきゃね、と。破格のユニークな個性こそ、実は最も一橋の女性らしいという逆説。その交わり、水の如し、を超え、風のように......。

山下 裕子

(2012年10月 掲載)