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バオバブの樹の如く

  • UNEP ナイロビ事務局長室 管理理事会渉外官大賀 敏子
  • 商学研究科准教授山下 裕子

2013年春号vol.38 掲載

一橋大学には、ユニークでエネルギッシュな女性が豊富と評判です。彼女たちがいかにキャリアを構築し、どのような人生ビジョンを抱いているのか?第36回は、UNEPナイロビ事務局長室管理理事会渉外官、大賀敏子さんです。聞き手は、商学研究科准教授の山下裕子です。

取材は、Skypeでナイロビと国立をつなぎ、行われました

大賀敏子氏プロフィール写真

大賀 敏子

東京都生まれ。1983年一橋大学社会学部卒、環境庁に勤務後、国連環境計画(UNEP)の環境計画官(ナイロビ)、JICA専門家・タンザニア政府環境政策アドバイザー、ESCAP環境管理専門家(バンコク)を経て1999年より再びUNEPナイロビ勤務(事務局長室管理理事会渉外官)。著書に『心にしみるケニア』(岩波新書)、『日本人の知らない環境問題』(ソフトバンク新書)があるほか、季刊『ニューエネルギー』(都市エネルギー協会)など雑誌への寄稿も多数。

人生観が変わったナイロビ赴任

大賀敏子氏1

山下:大賀さんは、国連環境計画(UNEP)ナイロビ事務所のリエゾンオフィサー(渉外官)として長年活躍されていますね。ケニアに赴任されて何年ぐらいになるのですか?

大賀:15年になりますね。環境庁(現・環境省)は13年でしたから、アフリカ暮らしのほうが長くなりました。

山下:学生時代から海外で働く、あるいは国際機関で世界に貢献するといったことを目標にされていたのですか?

大賀:環境や開発の問題に関心はありましたが、目標というほど明確なものではありませんでした。一橋大学を選んだのは何となくカッコよさそうだったから(笑)。社会学部は学べることの幅が広そうに思えたからです。入学当時は、就職のことなど念頭になかったというのが正直なところです。

大賀敏子氏1

山下:働くということを意識されたのはいつ頃ですか?

大賀:それは割と早かったですね。というのも、入学してすぐに、浪人して大変苦労して入ってきたらしい同級生に「女を入学させるより......」と言われたのです。私は中高一貫の私立女子校育ちでしたから、18歳まで男と女とかジェンダーといった意識は全くなかったのです。そのときのショックが原体験。社会に出て働かないといけない、就職するのだと思うようになりました。
でも、私が大学にいた頃は、四大卒女子の就職先といえば公務員か教員ぐらい。公務員を志望してさまざまな省庁を見学に回りましたが、環境庁に一番魅力を感じたのです。当時の環境庁は地味で目立たない印象がありましたが、お会いした方々に惹かれるものがありました。

山下:その同級生の言葉で大賀さんが育ったとも言える(笑)。大学時代の興味の中心は、開発経済と伺っていますが。

大賀:開発経済に興味があったことは確かですが、学んだことが即仕事に役立ったというわけではありません。私自身、環境と開発の問題が一つにつながったのは、ずいぶんあとのことでした。とにかく役所の仕事は忙しくて、夜になっても朝になっても終わらない。拘束時間がやたら長い。それが5年目にナイロビへ行ったことで、人生がガラリと変わってしまいました(笑)。

開発問題と環境問題が私のなかでつながった

Skypeを通した対談の様子1

山下:ナイロビにいらしたのは、どういう経緯だったのですか?

大賀:日本政府が若い人を国際機関に自費で派遣するJPO(Junior Professional Offi cer)制度で行きました。ここナイロビのUNEPで働いたわけですが、そこで出合ったケニアという国に、心底驚きました。都会と辺境の地の落差、極端な貧富の差といったことだけではなく、人の生き方や価値観が違うんですね。でも、これを日本の常識で断ずることはできません。今まで私が生きてきた社会のルールとは、全く別のところに基準があるわけです。これが人間なのだ。親にもらった生を生きるとはこんなに自由なことなのだと、おなかの底から驚嘆してしまった。ある意味、自分がまとっていた殻が壊れてしまいましたから、もう役所の枠にはまるのは無理(笑)。でも、役所の方も引き留めてくださって、JPO以降も海外に出してくれました。頭脳明晰な方や国の政策をつくることに情熱を持った方が山ほどいた。騙されたり、陥いれられたり、やっかまれたり、そんなことは一度もありません。

Skypeを通した対談の様子2

山下:ナイロビのあとはタンザニアとタイに赴任されましたね。そのとき国連職員に応募されたのですか?

大賀:タイにいたときジュネーブで働かないかというオファーを受けたのですが、何かが違う気がして。以前、本に書きましたが、ケニアには心にしみる何かがあった。ナイロビのUNEPの職が見つかったときは、まさに運命だと思いました(笑)。

山下:私もその昔留学時代にドイツの大学で教えないかとオファーを受けたことがあります。海外で1人で仕事をするには勇気が足りませんでした。今思えば自分のなかで確固たるものがなかったからです。2度目にナイロビに行かれたときは、国連職員として生きていこうという覚悟を持たれていたのですね。

大賀:覚悟はありました。まだ環境庁にいたときですが、1992年にブラジルで開かれた地球サミットにかかわりました。その仕事を通して、開発問題と環境問題が私のなかで一つにつながった。初めて自分のやりたいことが見つかったんです。ですから、ケニアでの仕事に打ち込むことに全く迷いはなかったですね。

Skypeを通した対談の様子3

山下:先進国では、環境と経済は同時追及しやすいかもしれませんが、途上国の場合、まず豊かになりたいというのが本音だと思いますし、社会のなかに幾つものレイヤー(階層)がある。私はインドネシアのメガシティと地球環境をテーマに学生と現地調査をしていますが、現地の大学生は裕福な家庭の出身が多いので、スラムやウェットマーケットには行ったこともないのです。

大賀:ケニアでも同じですね。一昨年ですが、うちのオフィスにオランダ人のインターンがきました。インターンシップの最後に「貧困のなかでもたくましく生活している人を見たいからスラムへ連れていってくれ」と言ったのです。もちろんスラムは見せ物ではありませんが、私はいいことだと思いました。オランダや日本に住んでいると貧困というものがやはりよくわからないですから。すると、ケニア人の同僚は「NO!わざわざ行くような場所じゃない!」と言いました。彼らケニア人のエリートたちは、スラムに住むような人たちは別世界の人間だと思っているのです。そのことの是非より、私は人生に対するもともとの厳しさの違いを強く感じました。

Skypeを通した対談の様子4

山下:大賀さんの著書で、ナイロビの子どもたちはキリンを見たことがない、という件を読んで、はっとしました。アフリカの人ほど都市しか知らないということがありえる。

大賀:お金も車もないですからね。辺境の村に行くと、水も食べ物も本当に何もない。木の種を食べたり、たまに援助物資が入るとそれを食べたり。それでも村人の女性の半分は乳飲み子を抱え、残りの半分はおなかが大きいんです。この子たち、いったい本当に生きていけるのかと、その貧しさには言葉を失います。このような人々の気持ちを吸い上げられる政治のシステムもないのです。それでもケニアは観光資源があるだけ、まだいいほうですね。

ネットワークも実力のうち

大賀:よく誤解されることですが、国連は世界政府のようなものではなく、国家間の意見の調整をする「場」なんです。国連職員は、世界の人びとが集まり、何かを決め、キチンとその方向に持っていくための、各国間の調整役ということです。私はUNEPの人間ですから、UNEPの決議を実行するために、世界の環境大臣と話し合って調整をすることと、UNEPに常駐している各国の代表とのやりとりが主な仕事になります。会議に出てくるのは政府代表者、つまり役人たちですが、彼らに今言った辺境の村のことを代弁させようとしても、それはとても無理です。だからこそ、現場のことを代弁できる草の根のNGOが必要で、国連ではNGOに正式な参加資格を持たせて、会議で発言してもらっているわけです。

Skypeを通した対談の様子5

山下:国の施策や仕組みをよりよい方向へ持っていくことも、とても重要なことだと思います。でも、ハードワークだな、大変そうって思ってしまいます(笑)。

大賀:大変ですよ(笑)。国際的な仕事と一口に言っても、日本人だからと日本と関係のある仕事をするのと、日本人だからということを離れて1人のプロフェッショナルとして仕事をするのとは違いがあります。各国の日本大使館で働いたり、JICAで国際協力に携わったりするのは前者の例で、それはそれで難しい仕事ですが、私の場合は、後者、幸か不幸か国連という、世界の海千山千の集まる場に、一橋大学から官庁というドメスティックな経歴を顧みず、ろくな準備も訓練もせずに飛び込んでしまったわけです。簡単にうまくいくわけがありません。

山下:そうしたなかで自分の居場所をどうつくるか......、大賀さんは何がキーになると思われますか?

大賀:一つはネットワークですね。もちろんフォーマルな決めごとはあるわけですが、調整は表舞台だけで行われるわけではありません。たとえば、ある国が政策を通過させたいと思うとき、事務局員に働きかけるなど内側からも動く。コミュニケーションとネゴシエーション、ロビイングの塊ですからね。会議が終わってからの立ち話ってあるでしょ。「ねえねえ、ところで」っていうのが大事。必要なときに頼んだら情報をくれる相手がどれだけいるかだから、みんな誰とお茶を飲むか、ごはんを食べるかを真剣に、戦略的に考えます。カフェテリアがいつもいっぱいなのは、みんながヒマだからではありません。ネットワークも実力のうちということを、日本の社会は教えてくれませんでしたね。

山下:確かに学者の世界でもそういう面があります。表と裏の中間領域でいろいろなことが起こるから、廊下での会話が大事だったりします。大賀さんご自身は、UNEPのなかでどのくらいのネットワークをお持ちなのですか?

現地の人と撮った写真(大賀氏)

大賀:UNEPの職員は1100人ほどですが、半分は世界中のオフィスに散らばっていますし、出入りも激しいんです。長くいる200〜300人には、大賀敏子個人として知られていますね。でも、特別なことではありません。仮に200人だとしたら、私以外の199人にも同じことができるんです。

山下:個人の顔で勝負が大切ですね。ネットワークの構築力を高めるためにはどうすればよいでしょうか?

大賀:私自身、数年かけてだんだんわかってきたことですし、見よう見まねでやってきました。大事なのはまず、窓を開けるということですね。ネットワークといっても始まりは雑談。だから、真面目すぎる人や人気がありすぎる人は敬遠されます。変なプライドを捨てて、声をかけられる存在になることです。真面目なことばかり考えていたり、話したりしていると、怖い顔になっちゃう(笑)。

山下:先ほど「調整役」とおっしゃいましたが、意見や利害が対立するから調整が必要なわけですよね。そこをどう裁いて切り抜けるか、精神的なタフさも必要ですね。

大賀:おっしゃる通り、世界には昨日赤だったものを、今日は「青でしょ、何を言ってるんですか」と言えちゃう人がいます。自分の意見を通すときに、怒鳴り散らし、まくし立ててくる人っているんですよ。人間ですから怒鳴られると腹が立ちます。そんなときは怒りを抑えて、聴いて、相手が本当に言いたいことは何だろうとシンプルに考えます。とっさに反応せず、冷静に分析してから行動に移す。これは訓練ですね。15年たった今でも、難しいですが。

山下:今、日本の競争力は相対的に低下していますが、世界の人の目に映る日本はどうなのでしょう?

大賀:国連には、最貧国、内戦続きの国など、いわゆる弱い国からきている人もたくさんいて、彼らにとっては出身国の名はあまり助けにならない。それに対し、日本は、世界的水準から見れば、いろいろな意味で恵まれていると思います。国連機関の会議では、事前に15センチもある分厚い資料が配布されるんですね。読んでこない代表も多いのですが、日本の出席者は隅々まで読んできます。意識しなくても持ち合わせている日本人の真面目さは、国際社会でも信頼を得る大きな強みだと思いますね。日本は国民の教育水準がずば抜けて高いですし、仕事のクオリティも高い。もっと自信を持つべきだし、もっともっと大きな顔をしていいと思います。ただ、ネットワーク力と空気を読むスキルに関しては、上手に磨いたほうがいいですね。

山下:コミュニケーション・スキルっていうけど、奥が深いのですよね。貴重なお話をありがとうございます。最後に大賀さんのこれからやりたいことと、学生へのメッセージをお願いします。

大賀:仕事に関してはこれからも変わらず、小さな貢献しかできないかもしれないけど、世界のために働きたいという思いでやっていきます。プライベートでは、うまくいかなかったこと、失敗したことを含めて、思い出せばきりがないほどある苦い思い出を、日本にいる人たちにわかりやすく、かつおもしろく、伝えていきたいですね。昨年久しぶりに本を出しましたが、これからもまとめていこうと思っています。

山下:ハードワークのなかで、時間を確保するのは大変では?

大賀:そうでもないですよ。私は朝起きたときに、まず頭のなかにあることを整理するのを習慣にしているし、週末には休みもあります。国連職員にならなかったら、フィットネス・コンサルタントになっていたと思うくらい、エクササイズが好きで、その時間は毎日きちんとつくります。文章を書き、それが書店で売られる喜びの原体験は、環境庁に入ったばかりの頃上司に手ほどきされながら書いた『環境白書』です。でも役人調の日本語では読み物になりませんから、日記や手紙を書く、旅で思ったことを書き留めておく、という具合に、わかりやすい日本語を書く練習はずっと続けています。
一橋大学の後輩には、「百聞は一見にしかず」。途上国を見にきてほしいですね。国際機関で働きたい人は、メールアドレスを公開していますから、質問OKです。あとはやはり一橋ネットワーク、これは一生の宝です。私も先輩、同級生、後輩にずいぶん助けていただきました。大学の4年間はあっという間です。友だちをつくり、さまざまな活動を通じて自分なりのネットワークをつくっていってほしいと思います。

  • 大賀敏子氏メールアドレス Toshiko.Ohga@unep.org

対談を終えて「Ex-AfricaとEx-Patsを超えて」


「うわ~、さすが、アフリカの色ですね!」
なかなか繋がらなかったスカイプの画像に、大賀さんの姿を捉えた途端、飛び込んできたディープ・ピンク。
「いいえ、これ、タイのドレスよ」
アフリカって不思議。驚くこと、珍しいこと、全てをアフリカというスケールの大きすぎるカテゴリーで包み込んでしまう。「アフリカから(Ex-Africa)は、いつも新しいことがやってくる」。ローマ時代から言われていたそうだ。映画「Out of Africa」もこの格言に由来する。
トコと親しまれている大賀さん、20代の頃はかなりのはっちゃけぶりである。決して行っちゃダメと言われているスラムに潜入する、単独で地方に自動車ツアーに出かける。Ex-Africaの人なのだ。つまり、アフリカから、何かをつかみ取ろうと体当たりする人。
しかし、その職場、国連は、専門家エリート集団である。スラムとは無縁の環境だ。彼らの呼称、エクスパット(Expatriate)の語源は、Ex(out of)-Patria(fatherland)で、「祖国から」。国から国を移り渡り、欧米=祖国の制度をアフリカにも持ち込んで来る人たちだ。Ex-Patsの世界も、日本人にとっては、異国の別世界。そして、Ex-AfricaとEx-Patsって共存しなさそうではないか。
「20代での初めてのナイロビ時代、国連では何を?」
「何もしてなかったわよ。できるわけないじゃない(笑)」
アフリカを放浪する若者はたくさんいる。トコが凄いのは、帰国後に日本絡みの仕事を足場にして着実にEx-Patsの世界をモノにしていったところだ。やっていけるという実感をつかんだのが、タイへの赴任時代だったそう。環境問題と開発問題の根は同じと考える取り組みに、洗練されたEx-Patsの世界に加えて、そのジレンマが正にぶつかるEx-Africa、アフリカからの視点が重要なのは言うまでもない。そこに、個人としてのトコの生命力が宿る。乾いた大地に根を下ろして水を蓄え、大空に幹を伸ばす、バオバブの樹のように。タイシルクをアフリカン・ファッションに見せてしまうようなチャーミングな着こなしは、二つの世界をモノにした自信からくるのでしょうね。
「トコからは、いつも新しいことがやってくる」

山下 裕子

(2013年4月 掲載)