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人間のアイデンティティを掘り下げる ツールとしての音声学

  • 社会学研究科准教授五十嵐 陽介

2016年春号vol.50 掲載

五十嵐 陽介

五十嵐 陽介

主要研究領域は、言語学・音声学・ロシア語。2001年3月東京外国語大学外国語学部ロシア東欧課程ロシア科卒業。2005年3月同大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(言語学)。国立国語研究所非常勤研究員、日本学術振興会特別研究員(PD)などを経て、2009年4月広島大学大学院文学研究科准教授、2015年4月より現職、現在に至る。受賞等は、2013年9月日本音声学会最優秀論文賞などがある。

言語の「音」に興味を持ち、ロシア語から日本語、琉球語へと研究を進める

私が言語学の中から「音声学」という領域を研究対象に選んだきっかけは、中学・高校時代にさかのぼります。当時、ラジオやテレビでさまざまなプログラムに接していましたが、中でも興味を惹かれたのは外国語の「音」でした。特定の言語ではなく外国語全般の音に面白さを感じ、『○○語講座』などを好んで視聴する風変わりな生徒だったのです(笑)。
大学に進んでからも、音の面白さに惹かれてロシア語を専攻し、モスクワ大学に1年間留学しました。そこでロシア語イントネーション研究の大家に出会い、本格的にイントネーション研究を始めたのです。ちなみに、ロシア語の音声学教授法はほかの言語に比べて研究が進んでいるのですが、それには理由があります。ロシア語は平叙文も疑問文も、文字上は区別されません。質問しているのか、答えているのか、文をただ読んでもわからないのです。区別する方法はイントネーションのみ。そこで私たちのような外国人に対して、ロシア語の音声を教える体制が整っているわけです。
ロシアで1年間学んだ後、私は卒論もロシア語の言語学についてまとめ、大学院に進学。その頃出入りしていた音声学の先生の紹介で、国立国語研究所が中心となって開発した『日本語話し言葉コーパス』の構築作業に参加しました。イントネーションを記録し、データベース化する作業です。そこで、日本語のイントネーション研究もかなり進んでいることが分かり、日本語の諸方言のイントネーション研究を始めるようになりました。現在取り組んでいる琉球語諸方言のアクセント研究は、京都大学の先生に、沖縄県宮古島市の方言(南琉球宮古語池間方言)の調査に誘われたのがきっかけです。優秀な方々からたくさんの刺激を受けたおかげで、研究を進めることができています。

言語はもともと知識の修得ではなく、共存のための話し言葉=「音」から始まった

もともと言語は「話し言葉」でした。言語が文字を持つようになったのは最近のことで、しかもごく一部の言語に限られたものです。つまり言語の本質は「音」なのです。
それは外国、特にヨーロッパを考えるとよく分かります。国と国が接していて、すぐ隣に違う言語を使う人たちが暮らしている。ずっとこのような歴史を積み重ねている地域では、共存のために話し言葉=「音」でコミュニケーションをとることは、差し迫った問題です。だからこそ、言語を知識や学問としてとらえる前に、話し言葉でコミュニケーションをとろうとする意識は非常に高いと言えます。後ほどふれますが、歴史言語学の研究が生まれ、発達したこともその意識の高さゆえかもしれません。
一方日本で暮らしている分には、「音」の重要性は理解しにくいかもしれません。同じ言語(日本語)を使い、似たような常識・価値観のもとで、ほとんど大きな"家族"のように暮らしているのですから。私は授業で学生に「まずはたくさん発音をしよう、たくさん音を聞こう」と伝えるようにしています。話したり聞いたりしながら音で記憶することが、外国語を修得する一番の近道になるからです。漢字は書いて覚えることも有効ですが、アルファベットの羅列は書いて覚えても身につきません。話して、聞くことが重要なのです。通学中にイヤホンで外国語を聞くだけでもずいぶん違います。でも、学生にはなかなか差し迫ったこととしてはとらえにくいようです。私自身も、外国語が得意になるための研究をしているわけではないので、それ以上強くは勧めていませんが。

言語学的観点から日本語と琉球語の共通点を見出し、日本人のルーツを探る

冒頭でふれたように、私は現在、琉球語諸方言のアクセント研究に取り組んでいます。これは日本国内での言語のバリエーションを把握し、日本語そして日本人のルーツをたどるための第一歩として着手したものです。研究の基礎となるのが、ヨーロッパの歴史言語学です。19世紀にヨーロッパで始まった歴史言語学は、最初は書かれた文字から「音」を再現し、言語間の「音」を比較するものでした。そして当時の研究者は、実はヨーロッパの言語がインドの言語と共通していることを発見し、熱中したのです。同じような研究は日本でも可能だろうと、20世紀初頭から始まりました。しかし科学的なレベルに達する議論ができず、今に至っている、というのが現状です。
でも改めて国内の言語を見てみると、琉球の言葉は表面的には日本語とずいぶん違いますが、研究者によってもともと日本語から枝分かれしたものだということが分かっています。先ほどのような経緯で言語学研究は少し歩みが遅くなっていますが、私個人は大きなやりがいを感じています。
もう少し具体的に見てみましょう。日本語と琉球語は、母音の変化を研究すると奈良時代より以前に分岐したのだろうと推定できます。興味深いのは、奈良時代以前に琉球列島に大量の人間が移り住んだという証拠は得られていないことです。しかし言語学の観点では、8世紀(奈良時代)以前の分岐になっています。ということは、琉球語が分岐した後もいったん日本のどこか、たとえば九州あたりにとどまっていたのではないかという仮説が成り立ちます。この仮説を話し言葉、つまり「音」から研究していくことが、現在の私の研究です。
ちなみに何故8世紀以前かというと、当時は『古事記』や『日本書紀』に代表されるように、日本語が大量に文字に書かれた時代でした。大半は漢文ですが、人名、地名、歌などは万葉仮名で書かれています。そして当てられている文字を一つひとつ検討してみると、現在の5母音(あ・い・う・え・お)以上の書き分けをしています。研究者の中には、8母音説を唱える人もいます。その数を起点として、日本語と琉球語それぞれの方言を見てみると、母音を一緒にする方法が違います。だとすると奈良時代以前に共通の母音体系があり、それを奈良時代以降、個別に変化させていったと言えるのです。
もちろん、「琉球は日本ではない」と断じてしまうこともできます。宗教、文化、言語、どれ一つとっても違いが大きいですから。しかし、言語学の観点では祖先を同じくしている。ロシア人とポーランド人くらいの共通性がある。それをどう解釈するか?が私たちに突きつけられている問題です。
さまざまな分野とコラボレーションをすれば、日本人のルーツが分かってくるかもしれません。どこに最初に来て、どこに拡散していったのかが分かるはずです。最近では遺伝子の研究が進んでいますから、日本人のDNAのタイプはいくつかあって、地域によって違うことも分かっています。その研究と言語学的証拠を組み合わせれば、さまざまなことが分かってくるでしょう。

人間の根源的な欲求に応えるうえで、言語学は重要な学問領域となる

言語学の研究で、たとえば九州のある集落の方言をピンポイントで知りたい場合、その地域の教育委員会に問い合わせて、話者を紹介していただきます。実際に話者の方々とお会いすると、とても楽しそうです。引退されてからご自身の故郷の歴史をいろいろ調べている方が多く、本にする方もいらっしゃいます。当然方言にも興味をお持ちなので、さまざまな資料をお持ちです。
言語学を専門に研究する人間が知りたいことを、まったく違う地方で、まったく違う人生を歩んできた人がやっている。私はこのことにとても感動してしまいます。調べたからといってお金になるわけでも、健康になるわけでもない。それでも本まで書いてしまうのです。おそらく言語学の研究は、人間の根源的な欲求に関わることなのでしょう。自らのアイデンティティを求める際のツールの一つとして、言語学はとても重要な学問領域である。フィールドワークをするたびに、私はそのことを実感します。(談)

(2016年4月 掲載)