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消費者行動の実証研究から「Empathy」を用いた哲学的問いに挑む

  • 経営管理研究科 経営管理専攻 教授福川 恭子

2020年12月24日 掲載

福川 恭子氏

福川 恭子(ふくかわ・きょうこ)

1994年成城大学経済学部卒業。1997年英国サルフォード大学マネジメントスクール修士課程を修了後、2002年英国ノッティンガム大学ビジネススクール博士課程修了。2003年University of Bradford School of Management講師、同大学准教授を経て、2019年より一橋大学経営管理研究科教授に就任、現在に至る。研究テーマは、消費者意思決定と倫理(consumer decision-making and ethics)、企業の社会的責任(Corporate Social Responsibility, CSR)、「非倫理的消費者行動の要因と動機」など

イギリスを拠点に、
20年以上にわたり消費者行動論等を研究

私は消費者行動論を軸に、「消費者意思決定と倫理」「企業の社会的責任(CSR= Corporate Social Responsibility)」「非倫理的消費者行動の要因と動機」といったテーマについて研究に携わってきました。

私は大学卒業後にいったん就職したのですが、あるきっかけから消費者行動論を学ぶために渡英。そのままイギリスを拠点に、20年以上にわたって研究を続けています。2019年春、一橋大学経営管理研究科で教鞭をとるために帰国。国際マーケティング、マーケティング戦略、ビジネスエシックスなどを教えながら、大学院では、研究方法論や論文の指導を通して研究者養成に携わっています。

研究を始めた当初と今とでは、興味が実証研究から概念展開を探究する方へ移っています。個人や企業の意思決定に関する実証研究では、「どのような動機で人はある行動をするのか」、「どのような環境要因や、他者とのやりとりが、消費者行動に影響するのか」などが焦点です。その際に調査で取り入れる尺度などは、私たちが社会現象やものの在り方を理解する際、一定の概念をもとに構成されています。概念展開とは、ある概念が聞く人によって解釈が異なるときに必要となり、そのような差異を考察します。つまり、何らかの形で合意した尺度が不可欠な研究から、その川上にある前提条件に関心を持っています。

倫理課題の研究では、「良し」とする行動を定義する機会が多くありますが、「良し」とする基準が人、時や場の状況によって異なります。そこで、いま私が注目している概念は「Empathy」です。なぜ「Empathy」なのか、後ほど改めて話しましょう。

営業中に立ち寄った書店で
「留学」という選択肢と出合う

私は大学で経営学を学んだ後、建設用仮設資材などのレンタル・リースを行う企業に就職、営業担当者として社会人生活を送っていました。

ある日、アポイントの合間になんとなく入った書店で、留学案内コーナーの人に声をかけられました。学生時代、語学力に強いコンプレックスを持っていた私は、就職してからも英語を学び続けていたので、声をかけやすいオーラが出ていたのかもしれません。話を聞いているうちに、「イギリスでマーケティング関連のことを学んでみようか......」と考えるようになりました。

話はどんどん具体化していきました。マーケティングの中でも、自分の問題意識に一番近い「消費者行動論」を学びたいと思い、「消費者行動論」講座を開講している大学院プログラムに試しに応募したら、いくつかの大学院からオファーを頂きました。

それでもまだ本当に留学すべきかどうか迷いましたが、姉に相談したところ「今行かなかったら、きっと一生行かないよ」と言われ、留学を決意しました。

専門領域を築いて実のある仕事を
するために、博士課程を選択

留学先のサルフォード大学は、イングランド北西部・マンチェスターにある国立大学です。私はそこで、戦略意思決定過程の概念を応用して、日本企業のFDI(海外直接投資)戦略がどのように行われるか、という研究調査を行いました。

当時、日本からの直行便はヒースロー空港発着のみでした。仮に日本からの直行便がマンチェスターにも就航した場合、イギリス拠点の日本企業の活動にどのような利点があり、ヨーロッパ経済圏を見越した日本企業にどのような影響があるかなどの企業側の見解の調査です。

苦労しながら現地の企業をヒアリングして回り、修士論文が大詰めを迎えた頃、私は初めて博士課程の存在を知りました。先のことはまったく考えていなかったのですが、博士課程では、今取り組んでいる研究調査などを、もっと大きなプロジェクトにまで発展させる必要があると知りました。

多少英語が話せる程度ではダメだ。自分の専門領域をしっかり築き、実のある仕事をしたい。そんな私の思いを、日本にいる家族も理解してくれました。

思いきってノッティンガム大学の博士課程に応募したところ、無事に博士課程の学生として受け入れられました。師事した先生との良好な関係にも励まされ、イギリスで研究に取り組もうという気持ちが固まりました。

「日本のCSRは遅れている」と言われ、
研究者として主張する

博士課程では、意思決定過程の概念をさらに応用し、消費者倫理の中でも、特に「非倫理的に行動する場合の動機」について掘り下げていきました。博士課程の修了後は、ノッティンガム大学の教授の指揮で、日本の企業のCSRについて研究することになります。

強烈な印象として残っているのは、日本のCSR研究の結果をまとめた論文執筆中に、教授から「日本のCSRは遅れている」と言われたことです。私は即座に異論を唱えました。「遅れているのではない。"違う"だけですから」と、研究者としての主張をしました。

CSRは、英語圏発の概念です。その概念を日本企業に当てはめると、たしかに"遅れている"ように見えるかもしれない。しかし日本企業はCSRではなく企業の社会的責任を追求している。欧米と型は違っても人や地球環境に配慮しようとする気持ちは同じ。ここでの基準や尺度の違いを明確にしたかった思いが主張の背景にありました。

ただ、それは私が日本人だからこそ分かることでした。日本人同士だからこそわかる価値観。その価値観を、大多数である英語圏や英語を使う人たちに、良し悪しでも優劣でもなく純粋な「違い」として描き出し、英語で伝えること。これこそが私の仕事だと気づき、今もなお挑戦をし続けています。

「Empathy」という概念から
人間とAIの関係を見つめる

さまざまな研究プロジェクトに関わるうちに、気づけばイギリスで20年以上もの月日が流れました。最近は、実証研究より概念展開を主とする研究に関わっています。現在、以下のテーマで論文発表を目指し、活動をしています。

近年、人工知能(Artficial Intelligence, AI)の応用された製品や顧客サービスが普及・増加し、テクノロジーに特に関心のない消費者でも、そのような商品やサービスの利用を避けては通れません(例:インターネット検索)。一方、今まで人が行ってきた業務を人工知能が取って代わること(例:雇用保障)、基本的に人間がデザインする人工知能が搭載された製品の安全性(例:自動運転の誤作動)、基準となる演算法、機械または深層学習(Machine/Deep Learning)の正当性(例:採用業務)などへ懸念が高まり、人工知能の倫理的なビジネス活用を促すためのルール作りが世界で課題となっています。

そこで、「良し」とする人工知能の応用とは何かという問いが研究課題になります。先述したように、「良し」とする基準は人、時や場によって異なります。「良し」とする人工知能の応用とは何かを定義し、具体化し、細則を提示するようであれば、迅速に変化する技術に時代遅れの固定観念を導くようなことになりかねません。ですからその代わりに、消費者、企業、その社会市民が一人ひとり人工知能とどう付き合うのが、当事者およびそこに共存する他者にとって最善であるかという問いかけをしたらどうでしょうか?

「Empathy」という概念は、そのような問いかけを支える属性を見出す鍵であると思います。「Empathy」を直訳すると「共感」とか「感情移入」となります。これらが概念的に同等であるかはまだまだ検討の余地がありますが、「Empathy」とは、自分の個人的な存在を完全に忘れ、他人の感情を共有する、また他人の気持ちに自分自身をすっかり重ね合わせている状態をいいます。たとえば、人工知能が搭載された製品や応用されたサービスは自分の損得になるかだけを考えるのではなく、社会に存在する他者から見た損得を当事者のように考慮することができるでしょう。すると、未知数の高いテクノロジーと共存すべき将来を見据えた人間の生き方が探究できます。そのような道徳的な想像力は、昨今の多種多様の消費者・市場環境で、私たち人間が将来臨む「良し」とする人工知能との付き合い方を考える上で効果的です。

意志を持って続けてきたからこそ、
学生には「為せば成る」と伝えたい

研究の道を選択するうえで、私には人から尊敬されたいという思いはありませんでした。ただ、「続けてやってみたら、できた」という経験は大きな財産であり、今も私を動かす力になっています。

ですから私が学生の皆さんにお伝えできることがあるとすれば、それはいわゆる「為せば成る」ということ。振り返ってみれば、修士課程も博士課程も、そもそも英語で論文を書くことも、私にとってハードルの高いチャレンジでしたが、やり続けていれば何らかへ到達するという信念と意志の力でクリアしてきました。

私ができたのです。一橋大学の学生の皆さんが、何かしら自分の興味のあるところでこの先努力し続ければ、自ら納得できる何かしらの営みに携われるのではないでしょうか。(談)