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経済学の視点から、世界の貧困打開に向けた「国際公共財」を発信する

  • 経済学研究科准教授真野 裕吉

2018年10月24日 掲載

真野 裕吉

真野 裕吉

1999年東京都立大学経済学部卒業。2001年同大学大学院社会科学研究科修士課程修了、2007年米国シカゴ大学経済学部大学院にて博士号(Ph.D.経済学)を取得。政策研究大学院大学講師、同助教授、国際開発高等教育機構リサーチ・フェロー、世界銀行チーフエコノミスト短期コンサルタント、2012年一橋大学経済学研究科専任講師を経て2018年より准教授。専門は開発経済学。

ミクロ計量・フィールド実験などの分析手法を用いた開発経済学

私の専門分野は、途上国が貧困を脱し、発展するための道筋を考える「開発経済学」です。ミクロ計量経済学・フィールド実験などの分析手法で、農業の生産性向上、産業発展、教育や保健・医療サービスの普及などを研究しています。 フィールド実験によるインパクト評価は、開発経済学などで近年さかんに行われています。

  1. 人々をランダムに、ある介入の「受益者」「非受益者」に振り分ける。
  2. 双方のアウトカムを比較し、介入の純粋な効果(因果関係)を計測する。

私は現在セネガルやバングラデシュなど世界8か国のプロジェクトに参加していますが、コートジボワールの農業技術研修の効果測定などでこの分析手法を採用。そこで得られた学びを広く応用しやすい形で抽出し、国際学術誌に発表すること。そして、各国政府や国際機関の政策立案、専門家の研究に役立ててもらうこと。そんな「国際公共財」を発信することが私の役割ととらえています。コートジボワールの研究については、後ほど改めて説明します。
私の目標をシンプルに表現すると、「貧しい国・地域の人々が、1日3回食事をとり、子どもたちが夢を持って勉強できるためには何が必要か、どんな支援ができるか?」を考えることです。同じ「貧困」が課題でも、具体的に直面している問題は千差万別。実際に現地を自分の目で見て、現地の方々のお話を伺わないと問題の本質はよく見えません。そこで年間2~4か月は海外に赴き、「自分で見る・聞く」をベースにした研究を行っています。

経済学は、現実を理解し、どうすれば人々を助けられるかを考えるツール

現地での情報収集に軸足を置く開発経済学と出合ったのは、大学2年生のときです。教科書ベースで進む講義が多い中、スライドを使い、ご自身の研究を紹介しながら講義を進める先生がいらっしゃいました。それが私の恩師である大塚啓二郎先生(現・神戸大学大学院経済学研究科 特命教授)です。
当時、大塚先生はアジアやアフリカの各地を飛び回り、森林破壊をくいとめる方法について研究しておられました。かつて世界各地の共有林は、薪、炭、牧草等を近隣の住民が過剰採取したため、荒れていました。一部、共同管理をはじめたところでは、過剰採取が抑えられ、雑木林は復活しはじめましたが、高級な木材の生産に必要不可欠な木の世話を農民がしたがらない。木材を販売して得た収入を平等に分配することになっていて、木の世話をするインセンティブがなかったのです。そこで木の所有権を「木の世話をした人」に与えたところ、農民が一生懸命に木の世話をして、森が守られるようになった――。そんな話を、ガーナやネパールで撮影したスライドを交えながらしてくれました。
経済学は教科書の中のもの、という私の中のイメージは完全に払しょくされました。経済学は、自分が知り得なかった複雑な現実を理解するのに役立つ学問であり、どうしたら人々を助けられるかを考えるツールにもなり得る。そのことに気づいた私は、開発経済学の世界にのめり込むようになったのです。

現地に行かなければつかめなかったベトナムの肥料大量散布問題の現実

足を運んで、見て、聞いてみなければ分からない。もう一つの例を、有本寛先生(本学経済研究所)たちと取り組んでいる「ベトナム肥料プロジェクト」でご説明します。
ベトナムのメコン川流域ではコメの三期作を行っています。20年ほど前から、メコン川に堤防を造り、9~11月に起こる川の氾濫を防いだことにより実現した生産体制です。
そのベトナムで、業者が肥料に混ぜ物をして販売する不良肥料の問題が報道されています。かつて日本もこの問題を経験し、現在アフリカの農民が肥料を十分に投入しない原因のひとつとも考えられています。驚いたことに、国連食糧農業機関(FAO)のデータによれば、アフリカとは逆に、ベトナムでは肥料が大量投入されている、とのこと。混入物のせいで肥料の養分が薄まっているので、それを補うために大量投入をしているのだろうか。
しかし現地に赴いてみると、事情は違っていたのです。まず、インタビューした農業省の担当者、農民、販売業者たちによると、規制強化などにより不良肥料の問題はかなり沈静化していました。一方で肥料の大量散布が続いているのは、かつて氾濫で上流から運ばれてきた養分が、堤防が建設されたことで流れてこなくなり、さらにコメの三期作を行うようになったため、土地がやせてしまったことが原因でした。つまり、不良肥料問題とは別の理由で肥料の大量投入が行われていたのです。
こうしたことは現地に赴き、自分で確かめなくては分かりません。今後もベトナムやアフリカに飛び、肥料や土壌サンプルを収集し、不良肥料問題の現状と解決策について、研究成果を発表していく予定です。

コートジボワールの農業技術研修では農家の理解が有用な成果につながった

私の研究は、私一人では進みません。つねにプロジェクトの形をとり、多くのステークホルダーの協力を得ながら、ときには何年もかけて実験や調査を続けます。
何より大切なのは、研究対象となる現地の方々の理解と信頼を得ることです。冒頭でふれたアフリカ・コートジボワールで、私は大塚先生、高橋和志先生(上智大学)と農業技術研修の効果測定に携わりました。コートジボワールをはじめ、サブサハラアフリカの多くの国では都市化などによって、コメの消費量が生産量を大幅に上回り、タイやベトナムなどから輸入しています。
そこで国際協力の一環として、日本の専門家が田植えなどコメ作りの基本的な技術を教えることになりました。技術供与の効果を検証するには、「研修を受ける農家」と「受けない農家(=従来通りに作る農家)」の2グループにランダムに分け、アウトカムを比較する必要があります。
私たちはプロジェクトメンバーとともに20ほどの村を訪問して、プロジェクトの概要を説明。とくに、研修を受けないグループの農家は研修に参加したり、技術を真似したりしないことをお願いし、みんなで協力すれば研修の効果がわかること、そうすればコートジボワール全体、ひいてはサブサハラアフリカの農業の発展にも役立つことなどを説明。最終的に8つの村が対象に決まりました。1年かけて実験を行った結果、研修によって、技術採用や生産量、所得が増えたことが確認されたのです。さらにその翌年には、研修を受けた農家がそうでない農家に技術を教えるというスピルオーバー(拡散)も確認されました。
これらは農家のみなさんが、プロジェクトの意義や目的を理解し、協力してくださったからこそ得られた結果です。

自分で確かめることの大切さに気づいてもらうためフィリピンの貧困地区でゼミ合宿を実施

自分で見て、聞いて、研究を行うことを私が大事にしているように、学生にも、新聞や本、ネットの情報を鵜呑みにせず、自分で確かめ、よく考えられるようになってほしいです。春夏学期の3年生ゼミでは、国際学術誌から各自が興味のある論文を選び、英語でレジュメにまとめて発表してもらっています。
そして今年(2018年)の夏はゼミ合宿で海外に行きました。訪問先はフィリピンのマニラ郊外にあるカシグラハン再定住地区です。私はこの貧困地区で澤田康幸先生(東京大学、アジア開発銀行)、中室牧子先生(慶應大学)たちと教育の介入実験に携わっています。
カシグラハンでは、世代を超えて貧困が続いています。多くの親は小中学校を中退しているためなかなか働き口がなく、生活が苦しい。その子どもたちも学校を途中であきらめ、ストリートチルドレンになり、あるいはゴミ拾いなどわずかな収入のために働くことが珍しくありません。中退すると、学力が身につかないだけではありません。「まじめに取り組む」「約束を守る」「人の話を聞く」「人とうまく付き合う」といった基本的なライフスキルは、家庭生活だけでなく、多くの場合、学校生活を通して身につきます。そうしたライフスキルはまた学校で勉強し、さらに社会で暮らし、そして仕事をするうえで大事な土台となるのです。
貧困の連鎖を断つために、「ライフスキル教育」に注目し、長年この地域で子供たちを支援している認定特定非営利活動法人ソルト・パヤタスと共同研究しています。カシグラハンの小中学校はもちろん、フィリピン政府・教育省、そしてもちろん地域住民との連携。日本の専門家の協力も仰ぎ、子どもの学年に合わせて、お絵かき、本の読み聞かせ、算数・数学のE-learningを提供。また親には教育の重要性をセミナーやリーフレットで伝えます。そして、これらの取り組みが子どものライフスキルや学校の出席、成績、そして進学や就職などにもたらす効果を検証しています。
ゼミの学生は、介入や調査の準備などを体験したあと、ソルト・パヤタスのスタディツアーに参加。とくに地域住民のお宅に訪問してのインタビューでは厳しい暮らしぶりに衝撃をうけたようす。自分で見て、聞いて、確かめることを大切にし、世界の現実に関心を持ってもらえたら嬉しいです。経済学で培われる論理的思考、そしてさまざまな分析手法は、社会が抱える課題を理解し、解決へと導くためにあるのですから。(談)