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世界一の電力効率を達成した天文シミュレーション向け計算機GRAPE‒8 金融工学、国際貿易などさまざまな領域のシミュレーションに広がる応用の可能性。 文系・理系という区分けよりも大切なことがある。

  • 商学研究科准教授台坂 博

2013年冬号vol.37 掲載

台坂 博

台坂 博

2000年東京工業大学大学院理工学研究科応用物理学専攻で学位取得後、日本学術振興会特別研究員、国立天文台研究員などを経て、2006年より現職。主な研究は、天文シミュレーション向け計算機「GRAPE」の開発および「GRAPE」を使った重力多体系の諸問題の解決など。これまでに学部で「自然科学論」、「情報システム論」を、大学院で「物理学特論」を、共通教育科目で「基礎物理学」、「物理学発展」、「サイエンスミニマム」、「サイエンス工房」などを担当。

天文シミュレーション向け計算機「GRAPE‒8」の誕生秘話

天文シミュレーション向け計算機「GRAPE」プロジェクトは20年以上前、私が大学生になる前からスタートしています。当時、20万円でできる手づくりスーパーコンピュータということで、ちょっとした話題になりました。GRAPEはすべての計算ができるわけではなく重力計算に特化した専用機ですが、そのことによっていろいろなメリットが得られています。その一つが、「GRAPE‒8」で達成した世界一の電力効率です。
私がGRAPEにかかわるようになった直接のきっかけは、院生のときの研究で、土星の環(リング)で発見された構造を解明するために、GRAPEを使ったシミュレーションを行っていたことです。1977年に打ち上げられた惑星探査機ボイジャーによって、土星の周りにあるリングにはいろいろな内部構造があることが発見されました。たとえば、レコードの溝のような構造が発見されていますが、発見から30年以上たった今でも、なぜそのような構造があるのかは完全には理解されていません。土星のリングは、たとえるなら、無数の軽自動車くらいの氷の玉(リング粒子)が、満員電車のように詰めこまれているところです。それらリング粒子はお互いの重力や直接衝突の影響を受けながら土星の周りを回転しています。その、お互いの重力や直接衝突の効果が、リングの構造形成に重要な役割を果たしていると考えられています。そのため、構造形成のメカニズムを解明する手段の一つとして、それらの効果を考慮したリング粒子の運動方程式を数値的に解いて直接的に調べる方法であるN体シミュレーションが有効なわけです。
たくさんの粒子が重力を及ぼしあっている天体はほかにもあり、銀河系や惑星系などもそのような天体の典型です。それらにも、銀河はどのように生まれたのか、我々の住んでいる地球はどうやってできたのか......などの謎があります。その解明のためにも、N体シミュレーションが有効なのです。
しかし、一口にシミュレーションを行うといっても、話はそう単純ではありません。たとえば、渦巻銀河の成り立ちを現実になるべく忠実にシミュレーションすると、最低限、銀河にあると考えられている星だけでも1000個が必要で、さらに、ガスやよくわからない物質で重力を及ぼしているダークマターという物質も考える必要があり、それらを粒子に換算すると、星の数の何百倍もの粒子数が必要です。万有引力の法則によると、重力相互作用のペア数は粒子数の2乗に比例します。シミュレーションを行うためには、それらの全部の粒子間に作用する重力相互作用を計算する必要があるので、文字通り、天文学的な計算量が必要になります。現在の計算機で達成できているのは10億粒子程度です。つまり、真のシミュレーションを行うためには、今よりもずっと速い超高速計算機が必要なのです。現在、計算機の性能をあげるのに採られている方法は、基本的には、計算機の並列化、すなわち、CPUの数を増やしたり、計算を加速させるような専用ボードを追加して、そのボード数を増やすことです。たとえば、先ごろ話題になった京コンピュータは、約7万個のCPUが使われています。では、この先、さらにCPUを増やせるでしょうか?そこには、さまざまな制約があります。その一つが消費電力です。電力はせいぜい使えても発電所1個分が限界でしょう。限られた電力で最大の性能が得られるようにしなければ、今後、より高速な計算機を手に入れることができなくなります。
GRAPE‒8は、重力の計算に絞りこむことでロジックリソースを効率的に使い、1ワットあたりの最高性能は従来のスーパーコンピュータの3倍以上になり、天文シミュレーション向け計算機としては、世界一の電力効率を達成しています。今年(2012年)3月に、GRAPE‒8の正式な完成発表が行われました。

重力の計算から半導体産業の現状、金融工学へ

GRAPE‒8の開発では、心臓部となるG8チップの基本設計のみならず、チップを載せる基板の設計や基板で使う部品の選定、システムを動かすためのライブラリまで自製しています。メーカーに依頼したのは、チップもボードも、いわゆる物理設計と製造のみでした。このようなチップまで自前でつくる専用計算機の開発を行っていると、日本のコンピュータ・半導体産業のある側面が垣間見られることもあります。そのあたりについて、少々、述べておきたいと思います。
専用計算機をつくる際にもっとも重要な要素は、どのように専用チップをつくるかです。そしてそれは、半導体メーカーの現状と関係してきます。チップを開発するときの最大の問題点は、チップ開発費の高騰でした。最先端の半導体プロセスでカスタムチップを開発しようと思うと、数十億円の予算が必要です。何世代か古いプロセスを利用しても億単位の開発費がかかります。それは天文分野の一つのプロジェクトで調達するには難しい金額です。しかし、カスタムチップは、性能的なメリットが非常に大きいのでつくってもらえそうなところを探しました。ところが国内の企業で引き受けてくれそうなところ(製造可能なところ)はなかったのです。もっとも世界的に見ても主にアメリカのインテルとグローバルファウンドリーズ、台湾のTSMCの3社くらいしかありませんが......。
このあたりの産業事情については商学研究科内に詳しい先生がいるので、その先生方からいろいろと話を聞いたことがあります。日本の半導体メーカーは設備投資や利益回収モデルがうまくかみあっておらず、そのため、海外のメーカーに押されっぱなしになっているそうです。日本のメーカーは昔から垂直統合モデルを好み、企画から製造まで社内に全工程を抱えこんできたため、投資回収が難しくなっている。一方で海外の元気なメーカーは水平統合モデルが主流で、コアな事業以外は外部に委託している。商学研究科にいると、このようなビジネスの構造が見えてくるので面白いです。
こうした諸事情もあり、私たちプロジェクトチームは、別の方法でチップを開発することになりました。GRAPE‒8ではストラクチャードASICと呼ばれる、ある程度の個別設計に対応できるようになったセミカスタムチップを使うことにしました。集積度やクロックなどの性能はフルカスタムチップに劣りますが、圧倒的に安価につくることができるのです。ほかにも、機能を後で更新することができる(回路を後で書き換えることができる)デバイス、FPGAチップを使ってGRAPEチップを実現する方法などがあります。FPGAは回路を更新できる機能を実現するための回路がはいっていることもあり、前記のカスタムチップに比べて集積度は劣りますが、後で変更がきくため、開発期間を短くすることができます。実は、この方法で実現したGRAPEも存在します。
こうして開発された、天文シミュレーション向け計算機GRAPE‒8ですが、シミュレーション技法や専用計算機を開発するノウハウは、天文領域以外にも応用が可能です。典型的な例が、金融工学の世界です。アインシュタインが理論的に解明したブラウン運動の不規則さが株価の変動に似ているため、株価の変動の定式化に利用されているのは有名な話です。最近では、金融派生商品の価格決定に、ブラウン運動をもとにしたブラック・ショールズ方程式のシミュレーションが活用されています。さらに、そのシミュレーションを加速するために、FPGAベースの専用計算機が開発されたりしています。それらの仕事のために、物理で学位を取った研究者・学生が金融業に携わることも、今では珍しくありません。
GRAPEプロジェクトで得られたノウハウを用いて、本学でも金融シミュレーションや専用機開発に応用できることがわかっています。興味を持った人たちが集まれば開発を進められるのですが、近年の学生たちは「自分は文系だから......」と避けてしまう傾向があります。

何をやりたいのかがはっきりすれば、文系・理系を超えた学びにつながる

私は商学研究科に所属していますが、主には共通教育の物理学の担当です。そのため、研究分野は引き続き惑星科学・天文学・計算科学ですが、そのせいか、今は私のゼミには学生がいません。文系の学生には敷居が高いのでしょう。なかには私のゼミを希望する学生もいますが、よくよく話を聞いてみると、「何か変わったことがやりたいから」という理由で希望を出したりしています。やりたいと思うのはいいことです。しかし知識ゼロの状態から、わずか2年間のゼミ体験でしっかりした卒業論文を書けるとは思えません。
私はときどき、文系・理系で分ける今の教育に不安を感じることがあります。社会はすでに文系・理系の区分けがなくなり始めています。先ほどご紹介したように、一見、文系の領域に思える経済・金融の世界ですが、物理の方程式を使いこなす能力が不可欠です。そのような時代に、「自分は文系だから」と興味・関心を持たないといったマインドが通用するでしょうか。テコ入れが必要な日本の半導体メーカーに就職し、将来経営者に近いポジションについたとき、技術の根本を理解できない人が適切な判断をくだせるのでしょうか。大切なことは「自分は何をやりたいのか」をはっきりさせ、その目的に向かって必要な勉強をしていくことです。
たとえば天文学者は、宇宙の成り立ちを知りたいというモチベーションがあります。ですから、そのために必要なことはなんでもします。古典を調べることもあります。平安時代に藤原定家が書いた『明月記』には、「M1かに星雲」の超新星爆発のことが記されているなど、貴重な資料があるからです。遠い過去の天体現象が記された古典の資料はほかにもたくさんあり、その記述から暦を調べ、地球の自転・公転の謎に迫ることもできます。「自分は理系だから古典は苦手......」と言っていたら、ほしいデータを集めることはできません。
「グローバルなメーカーで活躍したい」「金融機関で経済を動かしたい」、シンプルでいいのです。学生にははっきりとした目的を持ってほしい。その実現のために私の専門知識が必要なら、応援は惜しみません。(談)

(2013年1月 掲載)