愛護家の立場ではなく、法の可能性に挑むイノベーターとして、動物法を研究する
- 法学研究科教授青木 人志
2013年春号vol.38 掲載
青木 人志
1984年一橋大学法学部卒業。1989年一橋大学大学院法学研究科博士後期課程単位取得退学後、日本学術振興会特別研究員、一橋大学法学部助手、関東学院大学法学部専任講師、一橋大学法学部助教授を経て、2002年4月から一橋大学大学院法学研究科教授。同年博士(法学)の学位を得る。著書に『動物の比較法文化─動物保護法の日欧比較』(有斐閣、2002年)、『法と動物─ひとつの法学講義』(明石書店、2004年)、『「大岡裁き」の法意識─西洋法と日本人』(光文社、2005年)、『日本の動物法』(東京大学出版会、2009年)、『グラフィック法学入門』(新世社、2012年)など。
「法について考えること」の効用
法学には、二つの側面があります。一つは法自体を学ぶこと。そしてもう一つは法について考えることです。前者は、さまざまな法の構造と内容について膨大な情報を吸収していくことが中心です。現在日本にはどういう法律があり、裁判所はその法律をもとにどのような判断を積み上げているのか。これらを一つひとつ学んでいきます。しかし学生を見ていると、今、目の前にある法律を学ぶことに懸命になりすぎて、後者の「法について考えること」の大切さを見失いがちです。
法律上日本では当たり前とされていることでも、外国では必ずしも自明ではない。そういう事例は、実はいくらでも挙げることができます。海外との違いはもちろん、日本国内でも過去〜現在〜未来で見たときに法律はつねに変化しているのです。法律とは相対的なものであり、かつ、その時代の人々の価値観によって変わっていくべきものなのです。私が担当している「比較法」では、このように法について考えるための視座を提供しています。国、時代背景などの要素をいわば「鏡」にして日本法を眺めることで、「現行の法律が絶対不変の権威である」「六法にはすべての問題に対する答えが書いてある」という思い込みを壊し、頭を柔らかくし、多様な視点を身につける。比較法にはそんな効用があります。
比較法を学ぶうえではさまざまなアプローチがありますが、私はそのなかで「動物法」を研究対象にしています。......というとすぐに熱烈な愛護家と誤解されてしまうのですが(苦笑)。私自身、決して動物嫌いではありませんが、ペットを飼っているわけではありません。むしろ「動物法」を研究するモチベーションは、その豊かさや可能性にあるのです。
そもそも比較法の世界では、国・地域・民族・時代によって異なる文化を視野に入れて研究を進めることが不可欠です。そこで文化人類学や民俗学の専門家による書物をひもといていくと、必ず登場してくるのが、人と動物との深い関係についての記述です。アラスカのイヌイットとアザラシや犬ぞり。砂漠のベドウィンとラクダ。草原の遊牧民と羊。例を挙げればキリがありません。独自の自然観・宗教観・価値観などと結びつき、固有性を持った「人と動物の関係」をたくさん見つけることができます。ひるがえって日本の人と動物の関係がわが国の動物法として表れたとき、他の国や地域とどう違ってくるのか。これは文化を視野に入れた比較法、つまり比較法文化論における興味深い課題です。そこに動物法を研究する重要性があるわけです。しかも研究を進めると動物法がより根源的な問題ーー法律学の土台ーーに関係していることもわかってくるのですが、それは後述しましょう。
「人」でも「物」でもない第三のカテゴリー?
権利主体としての「人」。権利客体としての「物」。法世界はこれら二つによって構成されており、それは古代ローマ法以来変わっていません。近代西洋法の流れをくむ日本法においても同様です。では動物はどちらに分類されるかというと、現段階の日本法では明らかに「物」です。しかし、動物保護に関するルールが手厚く整備されているヨーロッパ諸国ではその分類が揺らぎ始めています。たとえばフランスの民法では「動物」と「物」が条文表現上は書き分けられており、「動物」が「物」とは別のカテゴリーとして意識されています。またドイツの民法では、まず「物」を、実際に触れたり知覚したりできる「有体物」と定義しています。そしてそのうえで「動物」は「物」ではないと明言しています。ただし、特別な規定がないかぎり、動物は本・自動車・パソコンのような「動産」として物と同じ扱いを受けるのです。つまり両国とも、動物は物と同じような扱いだが物とは違う、としているわけで、動物の扱いについて悩んでいる様子がうかがえます。
では将来の日本法はどうなるでしょうか。近代法上、日本がまとまった動物保護法を持ったのは、1973年の「動物の保護及び管理に関する法律」(動管法)が最初です。13条からなる小さな法律でした。その後、神戸連続児童殺傷事件を引き金に、超党派の議員による議員立法で1999年改正案が可決され、「動物の愛護及び管理に関する法律」(動愛法)が成立。さらに2005年、2012年と2回の改正を経て、現在の動愛法は条数が65にまで増え、かなり大きな法律になりました。
使役動物・畜産動物・実験動物を対象に19世紀から着々と法整備を続けてきたヨーロッパ各国に比べ、日本は遅れているという向きはあるかもしれません。たしかにイギリスのように動物に関する法整備が進んでいる国を基準にすれば、日本はルールそのものがまだ少ないし、厳しさも足りないと言えるでしょう。しかしイギリスを手本にするのではなく、日本独自の人と動物の良好な関係づくりを目指すのであれば、必ずしも日本が遅れていることにはなりません。実際、この10年で日本の動物法は驚異的な発展を遂げています。動管法が運用されていた時代(1999年まで)は、たとえば他人のペットを傷つけた犯人に対して、同法上の動物虐待罪(3万円以下の罰金)よりも刑法上の器物損壊罪(3年以下の懲役)で起訴する方が重く処罰できました。つまり重く罰したければ、動物を「器物」扱いするのが近道だったわけですが、器物損壊罪は他人の財物を壊す罪なので、自分の所有物である飼い犬や飼い猫の殺傷・虐待には適用できず、せいぜい動管法上の動物虐待罪(刑罰の上限は罰金3万円)での処罰しかできませんでした。しかし1999年改正後の動愛法では、旧法の動物虐待罪が新たに「動物殺傷罪」と「動物虐待罪」に分けられ、刑罰の上限も2012年の最新改正でそれぞれ懲役2年と罰金100万円に引き上げられました。この急激かつ大幅な変化により、今後ヨーロッパと日本の差異は縮まってくる可能性があります。
そうなると、わが国でも、「動物は『物』である」という分類自体に「すわりの悪さ」が感じられてきます。特に日本においては、高齢化・核家族化によって動物(とりわけ愛玩動物)が準人格的性質を帯びてきています。その一方で、医療技術の発達によって人間の臓器・胚を人体から取り出して利用できるようになっています。つまり「物」の「人」化、「人」の「物」化が同時に進み、古代ローマ法以来の「人・物」という二分法自体が制度疲労を起こしている状態なのです。
動物法を通じて比較法を研究する者として、踏み込みたいのはここなのです。すなわち、動物(および臓器等)を「人」と「物」のどちらかに無理をして分類するのではなく「第三のカテゴリーとして保護できないか?」という問いを立てることです。動物法の発展は、法律学の土台に地殻変動を起こし始めていると言えます。比較法研究の立場から、第三のカテゴリーとして保護する可能性を吟味する。動物法研究は法世界の土台を動かすダイナミズムに触れ、それに自らかかわることでもあるのです。
現代人の価値観に合わせて法律が変わる可能性
動物を第三のカテゴリーとして保護するということは、新たな法世界の誕生を意味します。そんなことができるのかと問われれば、私は「これまでの歴史を振り返ってみてください」とお答えしたいと思います。
かつて世界には奴隷制度や人種差別が当たり前のように存在しており、その時代ではそれは「合法」なものでした。日本でも、明治初年までは被告人から自白を得るための拷問は正当とされ、女性に参政権が認められたのは第二次世界大戦後のことです。現代を生きる私たちから見れば、考えられない価値観の違いです。とすれば、同じように100年後の人たちの目には、「動物は物だ」としていたこと自体が滑稽に映る可能性もあるわけです。
たとえば企業のマーケティング面でも、動物法の存在はクローズアップされています。ヨーロッパ市場に進出する化粧品・飲料メーカーのなかには、動物実験を伴わない製品開発に乗り出している企業もあります。動物実験反対を自社の企業理念としてブランディングに採り入れている企業もかなり成功しているようです。
そして、そんなメーカー各社のエンドユーザーである本学の学生にも、変化は起こりつつあります。動物実験をしないメーカーの化粧品を好んで使っている、という女子学生も出てきています。昔は法律学の入門講義では土地の売買契約、離婚訴訟、企業の組織など、学生の日常生活から縁遠い素材を使わざるを得ませんでした。しかし今は動物を法学入門の素材にできます。この10年で日本の動物法は驚異的に発展しましたから、講義素材には事欠きません。学生も、動物であれば何らかの形で日常的な関係を持っていますから、動物を導きの糸として「法について考える」ことができるわけです。動物法から比較法を学び、現代の価値観に照らし合わせて法律を相対的に見つめる学生が増えれば、彼らが将来の学界や法曹界を担い「人でも物でもない第三のカテゴリー」の創出に手を貸してくれるかもしれません。私はそんな未来に期待して、比較法の領域でのチャレンジを続けていきます。
最後になりますが、動物法という、未開の分野を突き進む勇気を与えてくれたのは、一橋大学の自由な学風です。ふと数えてみたら、私の身内には、父(商学部卒)・兄(商学部卒)・妻(法学部卒)・長女(法学部卒、大学院社会学研究科在学中)・次女(法学部在学中)・叔父(商学部卒)・従妹(社会学部卒)・従妹の夫(法学部卒)と、私を含め9人も、一橋大学で学んだ経験を持つ者がおります。経済学部の出身者だけがおらず「4学部コンプリート」ができていないのが少し残念ですが(笑)、私たち、家族・親族には一橋大学の学風が合っているのかもしれません。(談)
(2013年4月 掲載)