宗教社会学は、人間関係を出発点にした学問。 相手のありのままを理解することが最大の目的です
- 社会学研究科教授深澤 英隆
2014年冬号vol.41 掲載
深澤 英隆
1980年東京外国語大学インド・パーキスタン語科(ヒンディー語)卒業。1988年東京大学大学院人文科学研究科宗教学・宗教史学専門博士課程単位取得退学。同年東京大学文学部宗教学研究室助手、1995年一橋大学社会学部助教授を経て、1999年同学部教授。現在に至る。ミュンヘン大学/ベルリン自由大学客員研究員。著書に『啓蒙と霊性』(岩波書店、2006)がある。
信者でもなく、神学者でもない人間が、宗教に興味を持った理由
「宗教を研究対象にしています」と言うと、ときにエモーショナルな反応が返ってくることがあります。その反応が起きるメカニズムは後ほど見ていくとして、先に私自身の立ち位置を明確にしておきましょう。
私自身は、特定の宗教に入信しているわけではありません。また「最初に神の啓示ありき」という神学者の立場もとっていません。私が研究しているのは宗教学、本学で教えているのは人間と人間の「関係」にフォーカスした宗教社会学です。では宗教社会学とは何か。それは、宗教に関わる人間を前にして、先入観や思い込みをいったん排除してあるがままの相手を見つめ、その世界の論理やシンボルを理解しようと試みる学問、と言えるでしょう。
そもそも私が研究対象に宗教学を選んだのは、自らのアイデンティティを構築するうえで、より広い世界と自分との関係が気になったからです。人間は生まれてからさまざまなステージを経て、アイデンティティを構築していきます。まずは《家族》のなかで。次に学校や会社など、帰属する《集団》のなかで。そして利益共同体にしばられない、いわゆる《社会》のなかで......というように。私の場合はさらにその先、より抽象度の高い《世界》ーー自然・実在・存在・目に見えないものと呼ばれる概念ーーとの関係のなかで、アイデンティティを構築しないとどうも落ち着きません。これはもう「体質的にそうだった」としか説明のしようがありません。そんな私にとって、人間の認識の限界をあっさりと、かつ堂々と超えてしまう宗教や宗教家はとても興味深い研究対象となったのです。
もともと「この世を超えたものとは何か?」を考えることは人間の自然な欲求であり、問い自体は誰にも否定できません。これまでその問いの受け皿になっていたのが宗教です。まずはこの前提への理解を促すこと。そして近現代の社会の変化のなかで、宗教はなぜ、どのように受け皿としてあり続けるのか。それを考えるためには、特定の宗教を否定するでも肯定するでもなく、あるがままに見つめ、対象への理解を試みる。宗教社会学は自分以外の他者を理解するという態度を形成していくうえで、非常に有用な学問だと思います。
近代化や科学の発達が排除してきた「宗教の問題」が、公共宗教の復活によってクローズアップされている
近現代において、宗教の存在感は変わりました。1960年代まで、世界は科学によってリードされ、宗教に対する支持は下降するばかりだろうーーというのが社会学者の間でも定説でした。「公共宗教」としてのキリスト教やイスラム教などは、世界が近代化を遂げる過程でその役割を終えた、今後宗教は、一人ひとりが自分の宗教性を生きるという形で残っていくだろうーーそう語られていたのです。しかし1970年代後半から状況は変わり、さまざまな事象を考えるうえで宗教は避けて通れないものになりました。
直接の契機の一つは、イスラム教圏における政治革命でした。特にイランのホメイニ師による帝政からイスラム共和制への革命は、折からのグローバルな人口移動とともにイスラム教世界の脱世俗化を促したのです。宗教が政治的・文化的意味合いを強め、世界が次のフェーズに移ったきっかけとされています。宗教と政治の関係について見れば、グローバルなレベルでの公共宗教の復活はすでに常識となっています。学生には、まずそのことに気づいてほしいと思っています。
宗教の復活を促したもう一つの契機は、1970年代以降の科学主義の揺らぎです。科学論自身が科学を相対化していき、また科学的世界像が描くリアリティーが至高のリアリティーであるという感覚が、次第に薄れていきました。あるいは科学的世界像を疑わないにしても、それがコミットするに値するのぞましい現実であるかは疑わしくなってきたのです。
そこで、近代化、合理化、科学や経済の発達によって、一度は排除・抑圧されてきたもの、すなわち《死》《生》《超越》《霊性》など、「この世を超えるもの」の受け皿としての宗教の相対的地位が高まってきました。これらの問題に向き合うことは人間の自然な欲求であると先に述べましたが、どんなに抑え込まれても決してなくならないこうした問題が、1970年代後半の世界で再度浮かび上がってきました。もちろん宗教の〈復興〉には、政治や経済のさまざまな要素が複雑にからんでおり、またグローバル化のなかで生じたあらたな「貧・病・争」がその原因ともなっています。現代を生きる私たちは、まずこの事実を受けとめる必要があると思います。
否定や肯定ではなく、まずあるがままを理解すること
くり返しになりますが、長い間、近代社会は宗教(が引き受けてきた問題)を排除・抑圧してきました。そのため人びとの宗教に対するとらえ方が一面的になり、「宗教」という言葉にすら過敏に反応する社会が生まれてしまいました。たとえば言語連想実験を行ったら、「科学」はもちろん、「芸術」「倫理」という言葉を聞いて、エモーショナルな反応をする人はあまりいないでしょう。ところが「宗教」の場合、そうはいきません。否定するにしろ、惹きつけられるにしろ、とにかく人は冷静ではいられないことが多いのです。
特に日本はそうでしょう。急速な近代化のなかで、宗教を国家と社会のなかにどう位置づけたらいいのか、日本人は明治以来ずっと悩んできました。また近年では、地下鉄サリン事件などを体験したことも大きなトラウマとなっています。
私は宗教に関する授業を行う前に、学生にアンケートをとっています。すると、この10〜15年の間に、宗教に対する学生の関心は高まり、「弱者の非常手段といった紋切型のイメージを持つ学生は減っていることがわかります。それでも総じて「宗教は、気にはなるけど」というアンビバレント(二律背反)な心理状態からは脱しきれていません。皆が自分なりにパッチワークした宗教像に照らし合わせ、どちらかと言えば否定に走ってしまう。
そこで私は学生に、まずはありのままに理解する大切さを伝えようと試みています。否定するにせよ、肯定するにせよ、まずは自分のエモーショナルな反応をカッコに入れること。宗教社会学が目指しているのは、判断をいわば「一時停止」の状態にして、宗教に関わる人間や社会集団をありのままに見ることですから。神話の内容、儀礼やシンボルの意味、生活様式......先入観を排除して相手を見てみると、部外者からはどんなに馬鹿げた非合理的なことであっても、当事者にとってはまったく別の論理が働いていることがわかります。よい・悪いと判断するのは、その理解に至ってからでも遅くはありません。相手が身を置く意味世界をありのままに理解し、ひるがえって自分が身を置く意味世界を相対的にとらえていく。そんな人間と人間の「関係」を出発点にする視座を、宗教学に携わる者として提供していきたいと考えています。(談)
(2014年1月 掲載)