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ディスアドバンテージを受けた人たちが、ただそこに存在するだけで生み出す価値に経済学は気づき始めている

  • 経済研究所教授後藤 玲子

2014年春号vol.42 掲載

後藤 玲子

後藤 玲子

経済学博士。1981年一橋大学法学部卒業後一橋大学社会学部助手、高校の専任教諭を経て、一橋大学経済学部に学士入学。一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了後、国立社会保障・人口問題研究所、立命館大学大学院先端総合学術研究科教授を経て2013年より現職。主な著書に『福祉の経済哲学』(ミネルヴァ書房、近刊)、『正義の経済哲学』(東洋経済新報社、2002)がある。

「正義論」をきっかけに、被爆者の調査から資源分配を考えるための経済学へ転身

私は一橋大学に、法学部の学生として入学しました。しかし学部2年生の終わり頃、法学部に籍を置きながら、社会学部の「社会調査」というゼミナールにも参加するようになりました。きっかけは故・石田忠先生がお書きになられた『反原爆 長崎被爆者の生活史』(未來社1973年)という本です。1965年、厚生省(現・厚生労働省)が初めて実施した被爆者の全国実態調査に、石田先生は社会科学者として関与しておられました。被爆者調査はその後40年にわたって続けられ、私もゼミに参加後はずっと調査に携わっていたのです。被爆者の話を聞きながら、私は、抽象的で普遍的な言説(思想や理論)が、人の生をぎりぎりのところで支えることに気づかされ、心底、驚きました。
そのときに興味を持ったのが、当時日本で紹介されたばかりの、ジョン・ロールズの『正義論』です。マルクス主義でもなく、近代経済学でもなく、伝統的なーーカント的なーー倫理学ともちょっと違う。でも新しい形で「正義」の問題を語れる可能性を秘めた著書ではないか?そう直感しました。そして母校である一橋大学で、「正義論」を専門に教えていらっしゃる先生がいることがわかり、経済学部に学士入学をしたのです。
被爆者の調査から経済学へ......という流れは、なかなか伝わりにくいかもしれません。でも、実際には非常に密接なつながりを持っています。被爆者が求めていたものは、受けた被害に対する国家賠償です。国家賠償には、私たちの税金が使われます。しかも後世への負担という形をとって継続的に支払われるものです。そうするとこれは、大きな意味で「資源分配」の問題であり、経済学が真正面から考えなくてはいけない問題となるわけです。そして「分配的正義」と呼ばれている領域に分け入っていくことになります。
そこでは、《2時間働いた人は、1時間働いた人の倍の報酬に値する》といった公平性が問題とされます。たとえば、「貢献に応じた」分配や「努力に応じた」分配などいろいろ考えて、どれが妥当か、「効率性」とどうバランスを取るかを論ずるわけです。でも、ここには、これまで視野に入ってこなかった問題があります。それは「人」自身の多様性です。先のルールを素直に拡張すれば、《1時間で5個しかつくれない人は、同じ時間で10個つくった人の半分しか報酬をもらってはいけない》となります。でもここでいう「人」が被爆者であったとしたら?見えない病を持つ人であったとしたら?この社会には、さまざまな自然的・社会的ディスアドバンテージ(不利性)を被りつつ、辛うじて生き続けている人がいます。その人たちへの分配を視野に入れるとき、われわれの公平感はがらりと変わる可能性があります。この視点から、われわれ自身の経済制度観、社会保障や福祉制度観を考え直すこと、それが現在の私の主な研究テーマになっています。

ハンデを持つ人の生を支える。
それが際限のない闘争を続ける社会を断ち切る

現在の経済システムや、さまざまな政策、社会保障、そして国の成長というものは、基本的に標準的な人をターゲットに考えられています。裏返して言うと、ディスアドバンテージを受けている人は「なかったこと」にされがちです。そうなってしまうのは、ディスアドバンテージを受けている人は、価値を生み出していないと考えられているからでしょう。でも本当にそうでしょうか。たとえば被爆者の方々の場合、働きたくても働けないという事情があります。被爆し、病に苦しみながらもその状況に抗して生きる姿を私たちに伝え、反原爆の思想を体現しているわけですから、むしろ大きな価値を生み出しているはずです。
生き続けることですでに価値を生み出している。そんな方々を「なかったこと」にし、切り捨てていく社会はーーホッブズの言葉を借りればーー《その内部で際限のない闘争を続けていく社会》でもあります。成し得た貢献に釣り合った報酬を与えるべきだ、というフェアネス(公平性)は、彼我のわずかな違いを闘争の火種とする、格好の口実ともなりかねません。「報酬が釣り合っていないぞ!」「何故あいつが?」「自分にチャンスが来ない!」ーーキリがありませんね。しかしそれが分配ルールのベースになった社会では、ディスアドバンテージを受け、労働に参加できない人は当然怠け者、フリーライダー(ただ乗り)扱いです。
その流れに斬り込んだのが、アマルティア・センというインドの経済学者です。センは母国インドにおいて、社会ルールが生み出した飢餓や性差別を目の当たりにしながら育ちました。彼にとって、さまざまな偶然の中でハンディキャップを背負わされた人、歴史的な不正義を被ってきた人は、現実の存在だったのです。
社会ルールーー再分配という経済システムーーを考えるうえで、ディスアドバンテージを受けている人たちの存在を考えること。そして、その人たちの価値を再評価する軸を持つこと。自分(たち)のためだけではなく、今は働きたくとも働けない人のためにも働くこと。そういう発想の転換が際限のない闘争を断ち切ってくれる、とセンは主張します。極論すれば、ディスアドバンテージを受けている人たちは価値を生み出さなくてもいいのです。そこにいてくれさえすれば、私たちはつねに、常識になりかけた論理を見直す契機が得られますから。
1998年、多くの経済学者の抵抗にあいながら、アマルティア・センはノーベル経済学賞を受賞します。おかげでセンの思想や哲学が一般の人にも知られることとなりました。とても意味のある受賞だったと思います。

経済哲学は、個人・制度両方を見つめながら現実の経済システムをつくる、発展途上の学問

現在の私の研究は、今までの経済学のなかにはないジャンルを扱っています。「経済学&哲学」「正義の経済学」......呼び方は定まっていません。経済学のなかで、実証科学的な分析と並ぶフレームワークという意味では、「規範経済学」と呼ぶこともできます。一応現段階では「経済哲学」に落ち着いていますが、ジャンルとしては未完成。むしろこれから学生の皆さんとつくっていかなくてはならない学問です。
ただ、通常の哲学にはおさまりきれない点があります。それは現実の経済システムの構築に携わっているということです。一方に、置かれた状態も、モチベーションも、選択もまったく異なる「個人」がいて、もう一方に社会保障や政策などの「制度」がある。両方の関係や整合性を見つめながら、個人のあり方も制度のあり方もそれぞれ「もっとこんなふうにできるのでは?」と問い続ける学問と言えます。
それには経済学で使われるツールーー定式、理論、そして経済学的思考ーーはとても便利です。私は社会科学や哲学を考えるうえで、ツールの有用性を実感しています。ときどき、経済学部の学生さんから転部の相談を受けるのですが、とどまってもいいんじゃない?
と言っています。経済学のツールはさまざまな分野に活用できる、将来社会に出て「実践者」として活躍するときに役立つはずだからと。経済学のツールは決して万能ではありませんが、思考の規律としてはなかなか有用です。実行可能性条件を考慮しつつ、現実に動かすことのできる変数間の関係を整理するなど、現実の経済システム構築に携わっていることが、議論の自己循環を断ち切ってくれます。
つねに現実と接点を持ちながら、経済学のツールを使いこなせるようになれば、将来社会に出たときも「実践者」として活躍できるでしょう。国連、行政官、NPO、教師......。学生の皆さんには、経済学を通じて得たツールを腰に差し、現実に斬り込んでいってくれることを期待しています。(談)

(2014年4月 掲載)