父親のサポートが、母乳による育児の促進に貢献する
- 経済研究所准教授臼井恵美子
2015年冬号vol.45 掲載
臼井恵美子
1997年東京大学経済学部卒。2002年ノースウェスタン大学大学院経済学研究科博士課程修了後、ミシガン州ウェイン州立大学経済学部助教授に就任。2006年イェール大学経済成長センター客員研究員を経て、2007年名古屋大学大学院経済学研究科准教授に就任。2014年より現職。2009年よりドイツのインスティテュート・フォー・ザ・スタディー・オブ・レーバー(Institute for the Studyof Labor, IZA)のリサーチフェロー。専門は労働経済学。
国立大学の授業料値上げの是非に関する議論から、労働経済学の世界へ
私の専門の労働経済学は、労働環境にかかわるあらゆる制度について、経済学の立場から有効性を検証する学問です。今や男女共同参画の時代であり、育児休業制度をはじめ、さまざまな新しい制度が生まれています。そうした諸制度の背景にある「衡平性」の検証を中心に、日々、研究を進めています。
この研究分野を選んだのは、東京大学在学中のことでした。国立大学の授業料の値上げが議論となり、多くの学生が値上げに反対していました。しかし、私自身は、授業料の引き上げが良いことなのか悪いことなのか、本当のところを知りたいと考えました。なぜなら、大学に行けること自体が経済的に恵まれているからのように思えましたし、実際に、周りの友だちは比較的裕福だったからです。高等教育を受ける人に対し、授業料を引き上げるのではなく税金で補助し続けることが本当に良いことなのだろうか。大学に進学しない人々はその恩恵を受けられないけれど、それで公平なのだろうか、しっかり分析してみたい。そう思い立ち、所得分配理論の故・石川経夫教授の下で勉強しました。さらに本格的に分析を行うために、その後、ノースウェスタン大学の大学院へ進みました。
石川教授の下では、経済学者ペイトン・ヤングの『衡平』という本を読んだり、経済学者ジョン・クリーディの、高等教育を税金と授業料のどちらで賄うかという内容の本を通して、経済モデルの構築やシミュレーション分析するスキルを身につけたりしました。石川教授の下で学んだことが、「衡平性」の検証を行っている今の私の原点と言えると思います。
母乳育児の促進に関する、日米の母親の共通点と相違点
2014年、日本における母乳育児の促進と両親の働き方についての論文が、学術査読雑誌「Review of Economicsof the Household」に掲載されることとなりました。これは神戸大学の小林美樹研究員との共著論文です。この論文をもとに、今日はお話ししたいと思います。世界的に母乳育児の促進が推奨されるなかで、日本の子育て支援政策と両親の就業形態との関係は、母乳育児にどう作用しているのか。この論文は、このような問題を分析し、現段階での提言をまとめたものです。
結論から言うと、働く女性が母乳育児を継続するためには、男性(父親)がフレックスタイム制のような柔軟な働き方を選択することが重要な意味を持っています。
世界保健機関(WHO)や国連児童基金(UNICEF)によって母乳育児の継続ーー正確には生後6か月までの完全母乳育児と、可能であれば、2歳を超えるまでの母乳育児ーーが推奨されていますが、それは数々のメリットが認められているからです。乳幼児の感染性疾患の発症抑制、認知能力の発達促進から、母親の卵巣がん・乳がんなどの発症抑制まで、そのメリットは広範囲に及ぶことがわかってきました。
ところが、母乳育児を継続させるには、病院・産院スタッフによる指導はもちろんですが、家族、とりわけ父親のサポートが欠かせません。それでは、日本で母乳育児を促進するためには何が必要でしょうか。
アメリカの疾病予防管理センター(CDC)が集計したデータと、日本の厚生労働省による「乳幼児栄養調査」のデータをもとに、まずは現状を比較してみます。すると「生後6か月までの完全母乳育児」は、両国とも達成されていないことがわかりました。一方で、日本のほうが米国よりも母乳育児率が高いという違いも浮かびあがったのです。
理由は二つ考えられます。第一に、出産時の入院日数の違いです。アメリカでは、産後1〜3日ですが、日本では、5〜8日です。日本では、病院で授乳のサポートを受けられることが、母乳育児率の高さにつながっているようです。第二に、育児休業制度の違いです。アメリカの育児休業は、産後12週間で、1歳未満の子どもがいて就業している母親は50%超です。日本では、子が1歳になるまで育児休業が取得できますが、第1子が1歳の時点で働いている母親は30%未満で、産後も母子の接点が継続している割合が高いことが、母乳育児率の高い日本の大きな特徴です。
LOSEFのデータをもとに、より柔軟なフレックスタイム制の導入を提言
日本の高い母乳育児率が、入院日数と育児休業の長さに起因している可能性が見えてきました。しかし育児休業の長さについては、産後1年経って仕事に復帰している(または新たに就職している)女性が3割に満たないため、とも言えます。
データが豊富なアメリカとは違い、日本では、母親の就業が母乳育児にどのような影響を与えているかなどのデータが蓄積されていません。というのは、現状は、母乳育児に関する情報と母親と父親の経済・社会情報を併せて収集したデータが少ないからです。
そのような環境の下、私は分析のために、「くらしと仕事に関する調査(LOSEF)」に基づく新しいデータの設計に携わり、このデータを分析に用いました。これは、日本学術振興会の科学研究費補助金・特別推進研究「世代間問題の経済分析:さらなる深化と飛躍」が実施した全国規模のアンケート調査で、仕事、結婚、子育てなど仕事と暮らしに関して、母親と父親、子どもについて多岐にわたる質問が行われています。私は、子どもを持つ親3650人をサンプルに、「母乳育児の状況と授乳期間」、「母親の出産前後の仕事の状況の変化」、「父親の出産前後の仕事責任の変化」などのデータを用いて分析を行いました。
LOSEFのデータによってさまざまなことがわかってきましたが、特筆すべきは、母親・父親の働き方と授乳状況に関する分析結果です。
母親の働き方と母乳育児の関係を調べてみると、出産直前と産後1年の間に仕事を辞めた母親に比べて、産後1年以内に仕事に復帰した母親は、授乳期間が1・7か月ほど短いことがわかりました。
それでは、父親の働き方はどうでしょうか。「父親の出産前後の仕事の責任の変化」と母乳育児との関係を調べてみると、「責任が増えた」、「フレックスタイム制で勤務するようになった」、「出張が減った」などの選択肢のなかから、出産後、父親がフレックスタイム制に変更した場合、母乳育児の割合が増え、授乳期間も4か月ほど延びていました。フレックスタイム制への変更で、父親の家事・育児分担が増えている。そして、負担が軽減された母親は、母乳育児がしやすくなったのではないかと推測できます。
現状、父親の育児休業取得はなかなか進んでいません。そこで、父親にフレックスタイム制という柔軟な働き方をより広く可能にしてみてはどうか、というのが今回の提言です。企業にとっては、そうした勤務形態のほうが、完全な育児休業よりも低コストで提供できます。また、働く側にとっては、完全に職場から離れる期間が長いと仕事のうえで空白期間ができてしまう、という心理的な負担が比較的軽くなるはずです。何よりも、母乳育児の促進など女性支援に貢献できるのではないでしょうか。
産後の夫のサポートによって気づいた、母乳育児と労働環境の深いつながり
母親・父親の働き方と授乳との関係という視点は、実を言えば、私自身の体験に基づくものでした。出産後3か月くらいの間は、私も4時間ごとに母乳を与えていました。そのような、眠ることもままならない状況を1人で乗り越えるのはとても大変です。私の場合は、大変なときはすぐに相談し、夫が一緒に考えてくれたおかげで乗り越えることができたと思います。そのときの体験が、母乳育児と労働環境との深いつながりに気づかせてくれました。
現在、日本では「女性が活躍できる社会」が重要なキーワードになっています。どうすれば、どのような制度があれば、女性がもっと活躍できるかを考えるとき、男性の働き方も見直さなくてはならないでしょう。20代、30代という時期は、性別に関係なく、人生のなかでとても大切な時期です。男性、女性それぞれが、持てる能力を発揮し、幸せな家庭を築き、ひいては長い目で見て社会に貢献していくために、どのような労働環境を築いていくのがいいのか、そうした目標を描きながら、状況を分析し、提言していきたいと思います。(談)
(2015年1月 掲載)