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「性善説」を前提として企業統治をとらえ直してみる

  • 商学研究科教授田中 一弘

2015年冬号vol.45 掲載

田中一弘

田中一弘

1990年一橋大学商学部卒。1999年一橋大学大学院商学研究科博士後期課程を修了(博士〈商学〉)。神戸大学大学院経営学研究科・助教授を経て、2003年に一橋大学大学院商学研究科・助教授に就任。2010年より教授。専門は経営哲学、企業統治。現在の研究のキーワードは〈良心による企業統治〉と〈道徳経済合一説〉。両者を結ぶものとして、〈経営倫理への儒学的アプローチ〉にも関心がある。

「コーポレート・ガバナンス」への違和感。その正体は......

企業統治(コーポレート・ガバナンス)改革の必要性が叫ばれている昨今ですが、それに違和感を覚えている人たちも少なくないようです。私自身もその1人です。
企業統治では経営者を性悪説でとらえています。違和感の根源はそこにあると私は考えています。経営者性悪説とは、「経営者は自利心(利己心)しか持っていない」という経営者観です。富や名声、安逸を求める自利心は誰もが持っています。それを利用してアメ(インセンティブ)とムチ(監視)で規律づけようというのが今のコーポレート・ガバナンスの議論と言えます。
そういうスタンスが必要なことは決して否定しません。経営者も人間ですから。しかし経営者であれ誰であれ、人は自分のカネや地位・名声のためだけに、仕事をしているのでしょうか?
そんなことはないでしょう。従業員や顧客のためだったり、社会に対する使命感やトップとしての責任感だったり......自分のためではなく他のためを図ろうとする「良心」もまた、人がなすべきことをする上での動機になっているはずです。
「経営者は自利心のみならず良心も持っている。その良心を当てにならないなどと見くびらずに、良心の力を信頼する」、私はこのような意味での「経営者性善説」に立って「良心による企業統治」ということを唱えています。この立場からすれば、これまでの企業統治は、「自利心による企業統治」と呼ぶべきです。

日本には企業統治がない?それとも空気のように目に見えないものがある?

「日本には企業統治が欠如している」と言われてきました。確かにアメとムチで経営者を規律づける「自利心による企業統治」は弱かったでしょう。しかしそれを「良心による企業統治」が補ってきたように思います。いや補うどころか、「良心による企業統治」こそ日本型企業統治の核心だったのではないでしょうか。
ところがこれまでの企業統治の議論は「自利心しか持たない経営者」を前提になされてきたので、大きな盲点ができていました。良心というもう一つの〈動機=心〉に着目することで、今まで見えていなかったものがハッキリと見えてきます。
人が良心で何かをすることがあるというのは、ある意味では当たり前のことです。ただ、経済活動の場に限るなら、むしろ営利のための自利心が幅を利かせていてもおかしくありません。しかし、日本ではこうした経済活動の場でさえも、良心がことのほか重要な役割を演じることが多いように思います(もちろん他国でもそこに良心が働くことはいくらでもあるでしょうけれども)。良心が当たり前になっている。そうであるがゆえに、良心はかえって空気のようになって見えにくくなっている。それを見えるようにしよう。それが私の試みてきたことです。
経済活動でも良心という「空気」が濃厚であるのが日本なのだとしたら、日本で経営や経済を研究する我々は、その「成分」や「働き」を解明するのにうってつけの場所にいるということになります。
誤解しないでほしいのですが、私は「自利心は捨てよ、良心だけあればよい」と言っているのではありません。とりわけ経済活動には自利心も不可欠です。しかし「行きすぎた自利心」が資本主義の先行きを危うくしていると言われる現在、そこに「良心」をうまく共存させ、二つの「心」を両立させる新たな道を日本から発信することができれば、と思っています(以上の話については、今年の夏に『「良心」から企業統治を考える』(東洋経済新報社)という本を刊行しましたので、ご興味のある方はご一読いただければ幸いです)。

私利は大事だが公益をもっと大事にしよう!これが道徳経済合一のエッセンス

自利心と良心の両立を考える上で多くの示唆を与えてくれるのが、渋沢栄一の実践と彼が唱導した「道徳経済合一説」です。またの名を「論語と算盤」と言います。「良心による企業統治」と並んで、現在私が積極的に関わっている研究テーマでもあります。
日本に近代的な会社制度・企業経営を取り入れた渋沢栄一は、良心による企業統治を体現した経営者と言ってよいでしょう。渋沢は、道徳と経済は合一する、つまり矛盾するものではなく両立が可能だ、と主張しました。では、どうすればそれが可能になるか。ひと言で言えば「公益第一、私利第二」という呼吸がコツだと私は考えています。渋沢は、公益は大事だが私利追求もそれに匹敵するくらい重要だとして、私利追求も積極的に肯定しています。ただし、私利追求よりも頭一つ分、公益追求を優先すべきだというのが彼の考えで、これが道徳経済合一のエッセンスだと思います。
公益第一、私利第二ということは、義務が第一で権利が第二とも言い換えられます。義務が表で権利が裏というのは、日本社会では今でも尊重される態度ですね。

CSVとの微妙な違い

渋沢の道徳経済合一説に似ていると言われるのが、マイケル・ポーター教授のCSV(Creating Shared Value)という考え方です。企業は社会的課題の緩和・解決に貢献することによって、同時に自らも繁栄できるとしています。たとえば、ネスレが途上国のコーヒー農家たちをさまざまな方法で支援することによって貧困の連鎖という社会的課題の緩和に貢献し、それと同時にネスレ自身も同社の人気商品の原料となる高品質コーヒー豆の安定調達が可能になり、大きな経済的恩恵を受けるといった事例が挙げられます。
公益を図ることで企業やその関係者が私利を得ることができる、という点では確かに渋沢の考えと共通しています。しかし、「CSVは社会的責任ではなく、経済的成功を収めるための新たな方法だ」とポーター教授は明言しています。それゆえ少なくともCSVという概念自体は、公益第一というわけではないようです(ただし、CSVを実践している個々の企業の意図がどうであるかは別問題ですが......。
渋沢の場合、あくまで公益が第一で、その結果として私利を満たせるようになる。私利がついてくるから安心して公益第一でいこうーーという考えです。渋沢が愛読した『論語』の中に「君子は義に喩さとり、小人は利に喩る」という言葉があります。君子は何がなすべきことかをまず考えるが、小人は何が儲かるかをまず考える、という程の意味です。渋沢が、何が儲かるかよりも先に、何がなすべきことかを考えたことは明らかです。
渋沢とポーターの考えは似ているようで本質的なところで違いがある、と私は思います。どちらが良いかといった議論は措くとして、こうした微妙な方向性の差が結果的には行動上の大きな違いを生むということもあるでしょう。
ただし繰り返しになりますが、渋沢は「義に喩る」からといって、利を捨てろなどとは決して言っていません。あくまでどちらを先にするか、どちらを重く見るか、の問題です。義(公益)を第一とした上でなら、利(私利)も堂々と追求して良い、ということです。

歓びと快さの区別

人が仕事をするときには、そこに何かしら「嬉しさ」の感情が伴うはずです。たとえば、商売で顧客に奉仕するのは、それによって顧客がよろこんでくれる(人の役に立てる)嬉しさもありますし、自分が儲かる嬉しさもあります。この二つの嬉しさは、それぞれを「歓び」と「快さ」と呼んで区別することができます。前者は良心から、後者は自利心から生まれるものです。
私たちは往々にして、歓びも快さも一緒くたにして「嬉しい」のひと言で済ませてしまいがちですが、両者の区別に敏感になることは大切だと思います。儒学では古くから「義利の弁(義と利を見分けること)」がやかましく言われてきました。それを適切にできるかどうかは、自らの心に生じる「歓び」と「快さ」の違いをきちんと意識できるかどうかにかかっているのではないでしょうか。別の観点から言えば、良心から生じる「歓び」を感じることが少ない限り、義に軸足を置いた行動を力強くとることは難しいのでしょう。

測れないものを丁寧に描く

「道徳経済合一説」は、渋沢が唱えた「合がっぽん本主義」の道徳的基礎にもなっています。私は渋沢栄一記念財団が主催する合本主義の国際共同研究プロジェクトにメンバーの1人として参加しているのですが、その第1フェーズの成果を発表するコンファレンスが昨年11月、パリのOECD(経済協力開発機構)本部で開かれました。全体のテーマは「Pioneering EthicalCapitalism(倫理的資本主義を切り拓く)」でしたが、来聴者の1人だったある国のOECD大使が真っ先に発した質問が印象的でした。「倫理的であることをどうやって計測するのか」。
倫理やその基礎になる良心、そしてそこから生まれる歓び、といった目に見えない心の働きを計測しようという試みも確かに大事でしょう。とはいえ、そもそもどこまで本当に計測できるのかは議論の余地のあるところです。しかし、たとえ計測が困難だとしても、言葉によって丁寧に描き出すことは十分に可能だと思いますし、またそれも大事なことだと思います。私としては、経営という現実の事象を足場としつつ、こうした見えない大切なものの働きを言葉によって、できるだけ丁寧に描き続けていきたいと考えています。(談)

(2015年1月 掲載)