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「心とは何か」という哲学的問題にロボット工学との連携でアプローチ

  • 社会学研究科准教授井頭 昌彦

2015年春号vol.46 掲載

心を持ったロボットはつくれるのか?
社会学研究科の井頭昌彦准教授は、複数ある研究テーマの一つとしてロボットづくりにもかかわっている。
「哲学は基本的には頭のなかで勝負する学問」である。どんなに精緻でも、思考実験では想定する場面で実際に人々がどんなリアクションを取るかは見えてこない。この限界に対応すべく1990年代にエクスペリメンタル・フィロソフィーという考え方が生まれ、哲学者が創出した概念をフィールドでアンケートを取るなどして、検証するようになってきた。哲学研究者が、哲学の知見を用いて、多様な視点からロボット設計に携わっているのである。

井頭昌彦

井頭昌彦

1975年生まれ。1998年東北大学理学部物理学科卒業、2001年同大学文学部人文社会学科卒業、2003年同大学大学院文学研究科(哲学)博士課程前期修了、2008年9月同大学院文学研究科(哲学)博士課程後期修了。日本学術振興会・特別研究員(DC2)、大阪大学大学院生命機能研究科特任研究員、同大学院人間科学研究科特任助教、一橋大学大学院社会学研究科専任講師を経て、2014年4月より現職。著書に、『科学哲学──ブックガイドシリーズ基本の30冊──』(共著、人文書院)、『多元論的自然主義の可能性』(新曜社)がある。

生物物理学から科学哲学へそしてロボット工学との連携に

人は自由に手を上げ下げできる。その手はタンパク質の集合体でアミノ酸からできているので物理的に説明ができるはずだ。物理学が完璧だったら、たとえば5秒後に手を上げていることだって計算できるはずだ。井頭准教授が大学進学にあたって物理学科を選んだのは、こんな発想からだった。
「実はこれは自由意志と決定論という伝統的な哲学の問題だったのです。物理学科に進学すると、そんな研究は誰も行っていません(笑)。そこで、人間の行動にかかわるような脳神経の研究をのぞいてみようと、生物現象を物理学のスケールで研究する生物物理学の研究室に入りました。そこでもちょっと特異な存在だった私ですが、哲学を始めてようやく着陸できたような気持ちでした」
こうして井頭准教授は分析哲学のなかでも科学哲学や哲学方法論、認識論などの問題に取り組むようになった。科学哲学は、科学をメタ的に研究する学問。科学のどんなジャンルとも絡みやすい研究だったことから、大阪大学との共同研究であるロボット工学との接点が生まれた。
「哲学からロボット工学へ貢献できることとして二つのことが挙げられます。一つは概念整理ですが、もう一つは新しいコンセプトに基づくロボットづくりのサポートができる、ということです。大阪大学との連携の話は後者の側面が強いです」

知的探求のためのツールとしてのロボットづくり

哲学とロボティクスとを融合して「心を持ったロボットをつくる」ことにより、哲学研究の新たなあり方を示唆するーーこれが哲学者である井頭准教授がプロジェクトにかかわるもう一つの理由である。「心とは何か」という問いは、哲学では長らく問題にされてきたことであり、その答えはまだ見つかっていない。
「たいていのモノづくりは、人や社会の役に立つことを前提にしています。しかし、このロボット研究は少しニュアンスが違います。心を持っているとはどういうことか?ロボットは心を持てるのか?
......現段階では、純然たる知的探求のためです。共同研究者である大阪大学の石黒浩教授はロボット工学の可能性を今までより広げようと考えています。また心を持ったロボットの研究は、《道徳的配慮の対象として認めさせる》という社会的承認もまた重要なファクターになってくると思います」
「心を持ったロボット」とはどんなものなのか。まず検討されたことは、意識や感覚、情動、思考など「心を持つための必要条件」をあらかじめ確定してから開発する方法を考えることだった。しかし、こうしたフルスペックな心の確定を目指すより、できそうなところから始めて、成果を確認しながら修正していくほうが、議論の着実な進展がみられそうである。そこで、比較的検討しやすい「感覚」、そのなかでも「痛み」に焦点を当て、「痛みを感じられるロボットをつくる」ことを第一ステップとした。

「痛み」を認識するとはどういうことか?

では、痛みとは何か?
神経科学的には、損傷の具合などから痛いはずだと客観的に判断することができる。しかし痛みの感覚は人によって違う。また神経科学的に検証し、痛い理由が見当たらなくても、人は痛みを感じることもある。つまり「痛み」を神経科学的なデータだけで定義することは難しい。痛みに関する主観的感覚は、なおさらだ。したがって、「実際に痛みを感じていると思われる認定基準」を考えてみる必要がある。
たとえば、子どもが泣いている。これでは、痛くて泣いているのか、悲しいことがあって泣いているのか判断できない。一方、子どもの手に針が刺さっていて泣いている場合は、針が刺さって痛くて泣いているのだろうと「痛み」を認定できる。つまり、「針が刺さっている」という「痛みの原因ともいえる適切なインプット」と「泣いている」という「痛みを感じる際の典型的なアウトプット」がともに揃っているときに、「痛み」が自然に認定されるのである。そこでまずは、「痛みと関連づけられる適切なインプットとアウトプット」を軸に「痛みを感じられるロボット」をつくることになった。

単にできのいいロボットと道徳的配慮が発生するロボットとの差

最近ではロボティクスの一つひとつの要素技術が向上してきたこともあって、なめらかな人間らしい動きをするロボットができるようになった。しかし、痛みをナチュラルに表現できるロボットをつくったとしても、それが痛みを感じているととらえられるだろうか。単にうまくできているロボットだと思われるだけではないだろうか。一方、動物や人の場合では、たとえば子どもが犬を叩くと大人は「かわいそうでしょう」と注意する。ロボットと違って犬は痛みを感じるだろうという配慮が入ってくるからである。これを「道徳的配慮」という。それがロボットの場合では、「壊れちゃうでしょう」となり、「物品に対する配慮」として扱われる。
「人間同士のコミュニケーションでは、痛がっていることを疑ったりしません。しかし、ロボットの場合は疑念が発生してしまいます。痛みを与えた場合、同情の対象になり得るようなロボットでなければ、痛みを感じているということにはなりません」

このように「痛み」という感覚一つとっても、それを基準化することは極めて困難なのだ。また人や動物が痛みを示す様をまねたところで、ロボットが痛みを感じていると受け入れられることはない。このように「心を持ったヒューマノイド(人間型ロボット)」づくりに真剣に向き合ったとき、科学哲学の視点が工学に果たす役割は決して小さなものではない。

一橋大生が科学哲学を学ぶ意味

「科学哲学は、一橋大生にとって必要な学問だと思います」と井頭准教授は語る。社会科学は自然科学と比べると科学的な視点を持つことが難しい。なかには、自分たちが進めている研究の科学性について、あるいは科学性とはそもそも何か、といったところに迷う学生もいるだろう。それを、科学哲学を学ぶことで体系的に整理して考えることができるようになってくる。
哲学は問題の宝庫である。もともとあらゆる知的分野は全部哲学に含まれていたといっていい。17〜18世紀頃に主題や方法論を確立させることで諸分野が独立していき、型抜きした後のピザ生地のように残っているのが現在の哲学という分野である。したがって、「まだサイエンスとして取り組むことができないものを、サイエンス化していく」という課題と対峙したときに哲学の知恵が役立つ。たとえば諸科学が発達過程にあるとき、さまざまな仮説を科学的に検証する方法や科学と疑似科学の相違を見極めるための知見が求められる。そのときに科学哲学的論点を持つことで、社会研究の科学性を高めていくための多様な指針を得ることができるだろう。心を持ったロボットづくりも、興味深い問題をサイエンス化していく哲学の試みなのだ。(談)

(2015年4月 掲載)