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令和6年度 大学院入学式 式辞

令和6年4月7日
一橋大学長 中野 聡

 皆さん、一橋大学大学院入学おめでとうございます。

 皆さんのご両親、ご家族、ご親族そして関わりの深い方々にも、教職員一同とともにお祝いを申し上げます。

 ここ兼松講堂に集う皆さんがめざす学位は、修士・専門職学位・博士と多様であり、専攻する学問領域も社会科学・人文科学、ソーシャル・データサイエンスなどの多方面に渡り、主に学ぶキャンパスも国立・千代田と分かれています。また、2023年には大学院の学生数1838名のうち570名、約31パーセントを留学生が占めました。

 このように日本でもっともグローバル化した大学院のひとつであり、社会科学における世界最高水準の研究教育拠点をめざす一橋大学は、世界各地から、紛争と対立に揺れる地域も、平和な地域も含めて、数多くの留学生・研究者とその家族を受け入れています。東アジア・太平洋地域の国際関係、歴史認識、民主主義のあり方などについても、国や体制の違いなどで、立場や背景の異なる多くの大学院学生諸君が学んでいます。

 大学院ともなれば、国や政府を背負って派遣されて来る皆さんもいれば、個人として自由な学問やキャリアを求めて来る皆さんもいます。そして、社会科学・人文科学の学徒であればこそ、様々の問題について対立する見解をもち、それぞれの学問の作法に従って議論を尽くそうとするでしょう。

 一橋は、このように立場や目指すものが異なる皆さんの学問の自由を保障し、皆さんが互いに議論し、互いを鍛え、対話の質を高めていくことができる、安全な場所であり続けたいと願っています。そして、学問の自由と安全が守られた一橋コミュニティで生まれる絆こそが、長い目で見れば、平和の創造に大いに貢献することを私たちは信じています。

 このように多様な皆さんに対して、今日は、それぞれの研究、学問、専門性を追究していくうえで、「セレンディピティ」とは何だろう?と、問いかけてみたいと思います。

 セレンディピティ。「偶然の産物」、「幸福な偶然と、それを手に入れる力」という意味でよく使われている造語です。イギリスの文筆家・政治家のホレイス・ウォルポールが、1754年に友人に宛てた手紙のなかで使った言葉でした。『セレンディップ(セレンディッポ)と三人の王子』というおとぎ話を語源としています。長く忘れられていましたが、20世紀半ばから、とりわけ理工系・生命科学の実験において、失敗実験や偶然を見逃さず、ノーベル賞級の大発見につながった成功事例について、この言葉が引き合いに出されるようになりました。

 実験中に光るはずのないところで不思議な光を発していることを見逃さず、エックス線を発見して、第一回ノーベル物理学賞(1901年)を受賞したウイルヘルム・C・レントゲン。ずぼらの余り細菌の培養皿をカビだらけにしていたことから、アオカビに含まれる抗菌物質ペニシリンを発見したアレクサンダー・フレミング(1945年ノーベル医学生理学賞)。ノーベル賞受賞者たちの物語には、セレンディピティの福音が溢れています。

 2000年、アメリカ人研究者2名と共にノーベル化学賞を受賞した、筑波大学名誉教授の白川英樹博士による、プラスチックなのに金属のように電気をよく流す導電性高分子(ポリマー)の発見も、その独創的な研究のきっかけは、1967年、研究生に指導して行わせていた合成実験で、触媒の量を誤って1000倍にしたことなどから、薄い膜状の物質が合成された失敗実験の結果を見逃さなかったことでした。セレンディピティを代表するエピソードであり、ノーベル賞受賞記念講演の席でも、白川博士ら受賞者3人は、選考委員会の委員長から、「セレンディップの3人の王子」と紹介されたそうです。

 このように、単なる偶然や幸運ではなく、専門分野の知見と経験を徹底的に積んでいることを前提として、試行錯誤や膨大な時間を要する実験を厭わない努力と忍耐と勤勉、好奇心、繊細な感性と観察眼など、その備えがある研究者の前にのみ、セレンディピティは初めて訪れる(備えがなければ見逃してしまう)幸運であるとされています。

 現代の科学において、セレンディピティは、研究者の資質と努力だけでは訪れません。研究者が、その好奇心と信念の思うままに研究を行う自由と時間と環境。応用の成果を性急に求めない、基礎研究に対するリスペクトと正当な評価。研究資源としての時間と資金の配分。これらがなければ、セレンディピティが訪れる確率は急速に下がってしまいます。日本における科学研究の危機が叫ばれて久しい感がありますが、そのひとつの重要な論点は、このような環境が21世紀に入って急速に失われたことであり、それは文理の境を超えた日本の科学が抱えている深刻な課題であり続けています。

 それでは、一橋で研究し、学ぶ者たちにとってのセレンディピティとはいかなるものであり得るのでしょうか。その答えは多様であって、なかには白川博士のようなセレンディピティに備えている仲間がいても不思議ではありません。とはいえ、研究教育憲章において「市民社会の学である社会科学の総合大学」を名乗っている一橋であるということで、やや我田引水の議論をすることをお許し下さい。

 幸運な偶然を見逃さないためには「備え」が肝心だというセレンディピティの教えは、分野を問わず共通です。おとぎ話でも、東洋の国セレンディッポの3人の王子は、もともと素晴らしい資質に恵まれていたうえに、国王が国中から集めた最高の教師たちに囲まれて、座学をやり尽くしたうえで、旅に出ます。そのような「備え」があったからこそ、3人の王子は、鋭い観察眼と推理力で、ラクダに逃げられてしまったラクダ引きに出会ったときに、そのラクダは片方の目が見えず、荷物はバターとハチミツを積んでいるなどの特徴を言い当てられた。これが、このおとぎ話の核心部分です。

 その一方、科学実験で想像されるような「思いがけない幸福な偶然」は、このおとぎ話では語られません。このため、セレンディピティに対する興味から原典を読むと、肩透かしを食らったと感じる人も多いようです。

 だとすれば、あまり原典のおとぎ話には拘る必要がないのかもしれません。しかし、社会科学・人文科学の立場から見ると、このおとぎ話が、座学をやり尽くして、もう学ぶことがないように見える王子たちに、父親の国王が、異国・異文化を見聞させようとして命じた、いわば「可愛い子には旅をさせよ」という話であることには有用な含意を認めることができます。備えよ、備えたうえで異国に旅せよ、そこに出会いがあり、セレンディピティがあるかもしれないという教えとして、です。

 1990年代に本学学長を務め、中世ヨーロッパ社会史研究の名著の数々を著した阿部謹也先生は、小樽商科大学の教員時代、1970年前後の2年間をドイツで過ごしました。このときはオステローデという地域を研究テーマにしていて、三千点に及ぶ先行研究を、まず読むべきものと読まなくてもよいものに分けた後、一つ一つ読んでいきました。その最中です。ある研究書に「この地方にハーメルンの笛吹き男に率いられた子供達が入植した可能性がある」と書かれているのを発見して、「一瞬背筋に何かが走る感じがした」と、自伝には記されています。子供のころに童話で読んだことを、史実を論じる研究書の一節で目にしたときの驚き。そこから、歴史の闇を探りつつ、ドイツ中世農民・下層民の生活世界を浮かび上がらせた傑作『ハーメルンの笛吹き男─伝説とその世界』が生まれました。

 もちろん、仕分した後とはいえ、しらみつぶしに先行研究を読んでいたのですから、阿部先生と笛吹き男の出会いはセレンディピティでも何でもない必然だったのかもしれません。しかし、その出会いに驚く感性、その驚きと発見を、積み上げてきたドイツ史研究者としての知見と結びつけて独創的な歴史研究に発展させていった見事な営みは、先ほど紹介したセレンディピティ・ストーリーズと、確かに相通ずるものがあるのではないでしょうか。

 「3人の王子の異国への旅」は、文字通りの旅と出会いの物語としてだけでなく、旅も含めて、様々な意味での異質・異次元の経験や出会いを重ねることがいかに大事かを示しているとも考えたいと思います。自らが積み重ねた知見・経験・問題関心と、新たな経験が、時として意外なかたちで、意外な直感を通して結び合うことが、皆さんの研究やキャリア形成に向けた専門性の涵養をネクスト・ステージに導くことも、社会科学・人文科学らしいセレンディピティだと私は思っています。

 現実の学びや研究においては、進むほどに、あるいは学位というゴールが近づくほどに、余裕をなくして自分の殻に籠りがちになりはしないでしょうか。実験科学のセレンディピティではラボに籠る忍耐が必要かもしれません。しかし、社会科学・人文科学の場合、密室では、自分の殻に籠っていては、セレンディピティは期待できません。

 そして、皆さんが、学問・研究とともに、自由に、より多くの異質・異次元の経験を重ねられるような環境を用意することは、社会科学・人文科学のトップスクールとしての一橋大学大学院の責務でもあり、色々と努力もしています。ここからは半ば宣伝・お知らせです。

 例えば、一橋大学社会科学高等研究院HIASには、いま、世界からカッティング・エッジな若手研究者が集まっています。交流の機会をたくさん作っていますから、是非参加してください。ポスター、メール、SNSなどで、「ブラウンバッグ・セミナー」というような名前で、お昼時の小さな研究会の案内が、あちらこちらに沢山出ています。これは、参加自由ですから、難しくて分からなそうだと思っても、少しでも興味があったら、英語の勉強だと思って参加して、端っこにでも座ってみてください。

 東京医科歯科大学、東京工業大学、東京外国語大学との大学連合から生まれたポストコロナ社会コンソーシアムや、フランス社会科学高等研究院との協定に基づく博士課程交流プログラムなど、内外の研究大学院との交流も私たちはプロモートしています。大学院レベルのインターンシップ・プログラムの開発にも取り組んでいます。我田引水に話を逸らしていると思われるかもしれませんが、案外、このような環境こそが、やがて訪れるかもしれない、ひとりひとりのセレンディピティのきっかけになるのではと期待しています。

 最後に、重要なお知らせがあります。本学は今年度から、国が進める次世代研究者挑戦的研究プログラムに採択されました。事業名は「『The Bridge to the Future』 一橋大学博士イノベーション人材育成プロジェクト」です。

 この事業は、科学技術・イノベーションの将来を担う、優秀な、志ある博士後期課程学生への経済的支援を強化し、様々なキャリアパスで活躍する博士人材の育成を進めるものです。学内選抜を経て選ばれた学生には、生活費相当額および研究費の支給や、キャリア開発・育成コンテンツの提供を始めとする多様な支援を行います。一橋では、国際学会発表や企業インターンシップに参加する際の支援、本学の社会科学高等研究院(HIAS)と連携した異分野交流プログラムなどを計画しており、今後、皆さんが多様なキャリアパスで社会イノベーションを実現するための環境を整えていきます。今後、学内選抜を行います。博士後期課程の学生の皆さん、また博士後期課程に関心のある皆さんは、近日中に詳細をご案内しますので、是非、情報を見て下さい。

 本プロジェクトだけでなく、あらゆる機会を通じて、私たち教職員は、皆さんが、これから、それぞれの目的に向かって、思う存分、学びと研究を進めていけるよう、そして皆さんそれぞれが、セレンディピティとの出会いを予感できるようなキャンパスであるべく、全力を尽くしてサポートしていきたいと思います。

 皆さん、あらためて大学院入学おめでとうございます。

 ご静聴ありがとうございました。



参考(参照順)
 阿部謹也『阿部謹也自伝』新潮社、2005年。
 クリストフォロ・アルメーノ著、徳橋曜監訳『原典完訳 寓話 セレンディッポの三人の王子』角川学芸出版、2007年。
 五島綾子『ブレークスルーの科学──白川英樹博士の場合』日経BP社、2007年。
 「白川英樹名誉教授による記念講演会~創基151年筑波大学開学50周年記念~」2023年9月30日(https://www.youtube.com/live/bd0qx-bFXE4?si=MajtLr9-boK7N2Q9&t=5098 )。



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