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令和6年度 学部入学式 式辞

令和6年4月7日
一橋大学長 中野 聡

 うれしくてキラキラの皆さん、さくらひらひらまいおちる国立へ、一橋大学へようこそ!と言おうと思っていましたが、まいおちることもなく、完全無欠の満開の桜となりました。入学おめでとうございます!

 また、ご両親、ご家族、ご親族そして関わりの深い方々にも、教職員一同とともにお慶び申し上げます。

 本年、入学される皆さんは、来年、2年生の2025年、本学創立150周年を迎えます。「ひとつひとつ、社会を変える。」を合い言葉に、さまざまな記念事業を展開していますので、皆さんも楽しみにして、また積極的に参加して下さい。さらに、4年生になる2027年は、国立キャンパスがオープンして、またこの兼松講堂が竣工してから100周年を迎えます。そのような節目の時期に在学される皆さんですから、一橋の歴史には、少し詳しくなってください。

 もちろん、150年にわたり、文字通り山あり谷ありのドラマに満ちたこの大学の歴史を、10分やそこらで話すことはできません。春夏学期には「一橋大学の歴史」という授業科目も開講されますから、詳しい話はそちらに譲ることにして、今日は、まずその入門編として、「 一橋ひとつばし」という、この大学の名前について考えてみたいと思います。

 「 一橋ひとつばし」。ご存知のように、この名前は、千代田区の一ツ橋という地名に由来します。ただ、地図を見れば分かるように、千代田区の地名としての一ツ橋は「一」と「橋」の間に、カタカナの「ツ」を挟みます。「ツ」を抜いた漢字だけだと「いっきょう」と音読みも出来てしまいます。実際、皆さんも入学してすぐに気が付くと思いますが、本学コミュニティでは「ひとつばし」、「いっきょう」という二つの言い方が混在しています。その一方、大学の名前としては、「ツ」を抜いた漢字で表記したうえで、「いっきょう」ではなく「ひとつばし」大学と読んでいるわけです。

 なんだかどうでも良いことを学長は喋っているなと、皆さん思っているかもしれません。でも、これが、意外に奥が深い話でありまして、「 一橋ひとつばし」は地名にして地名にあらず、という話を、これからしたいと思います。

 今から149年前の1875年。森有礼が、当初は私設の学校として、銀座尾張町に商法講習所を開きました。本学の起源です。その10年後の1885年から約45年間、本学の校舎は一ツ橋にありました。しかし、1923年の関東大震災を契機に本学は郊外移転を決断して、大学町として新たに開発された国立および小平にキャンパスを移転したのです。

 今日の千代田区一ツ橋には、23階建ての学術総合センターが建ち、その中に一橋大学千代田キャンパスがおかれ、グローバルMBA、社会人向けMBAやビジネス・ロー専攻などのプログラムが展開しています。隣には、日本屈指の大学同窓会である如水会が所有・経営する14階建ての如水会館があります。皆さんとは、そこで行われる新入生歓迎パーティーで改めてお会いすることになります。

 さて、本学が「一橋大学」となったのは、第二次世界大戦に日本が敗戦して連合国の占領下におかれていた1949年、新制国立大学のひとつとして再出発したときのことです。75年前ですから、本学150年の歴史のちょうど中間点にあたります。

 しかし、このとき、本学が一ツ橋の地を離れてから、すでに約20年の時が経過していました。国立にあるのになぜ一橋?これは、毎年、必ず新入生の頭に浮かぶ疑問でしょう。ここからが、本題です。

 実のところ、「一橋大学」になるまでの間、本学の名称は、学長の私でも覚えきれないくらい変遷を重ねてきました。商法講習所(1875年)を出発点として、東京商業学校(1884年)、高等商業学校(1887年)、東京高等商業学校(1902年)。1920年には晴れて官立大学に昇格して東京商科大学となりましたが、戦争末期の1944年には、国家の意向により嫌々ながら東京産業大学と改名され、敗戦後の1947年、東京商科大学の名前に戻ったばかりでした。

 それでは、新制国立大学としての本学の名称は、どうやって決まったのでしょうか。教員、学生、事務職員、同窓会(如水会)が、それぞれ議論・投票を行い、いずれにおいても圧倒的多数の支持で一橋大学に決まったと記録されています。ちなみに、教員の票数は49票、学生は722票、事務職員が108票の計879票で、如水会員については票数の記録がありません。投票の必要がなかったのでしょう。

 投票結果を見ると、教員・学生・事務職員計879票のうち、「ひとつばし」の「ツ」を間に挟む案と挟まない案が、合計で、約3分の2、568票を得ました。他には、東京社会科学大学が約4分の1で224票。今のままがいいという、東京商科大学は55票。 国立くにたちにあるのだから国立くにたち大学という案もあって10票、などでした。

 1948年6月。この兼松講堂に、千人からの学生が集まり、大学名をめぐって学生大会が開かれました。当時はまだ旧制なので、予科・本科・専科の、年の差も6歳7歳離れた学生達が、白熱の討論を交わしました。この時の様子については、当時20歳の本科1年生の自治会委員だった徳田吉男が、その思い出を綴っています。

 徳田によれば、このとき、入学したばかりの「若い学生さん」が、指名もしないのに壇上に突進してきて、「一橋? 大体国立にあるのに、一橋とは何だ。堀割でも切り開いて橋でも作れば別だが。よく環境を判断して発言しろ」と発言しました。もっともな疑問です。しかし、結果は、「よろしく昔の創立の精神に基づき、一橋大学とすべきだ。これこそが最も普遍性のある妥当な名であろう」という意見が圧倒的支持を集めました。

 ではなぜ、20年も前に離れた「一橋」が「創立の精神」に基づく「普遍性のある」名前と考えられたのか。ここに「一橋」の、地名にして地名にあらずの歴史があります。

 時は遡って、1902年。東京高等商業学校発足の年です。この学校が一ツ橋の地に来て、すでに17年が経っていました。しかし、まだ、その名は誕生していません。

 きっかけは、現代から見ると他愛ないようにも思えるかもしれません。旧制一高とのボートレースに負けたことでした。これは応援がダメだからだ、団結させるような強固な団体が必要だと、学生たちが考え始めたのです。この頃は、他の学校と較べても、本学は、校風(スクール・カラー)がはっきりしない、覇気がない、ばらばらだ、という評判だったようです。そこで一群の学生たちが大いに奮起し議論して、学校にも働きかけて、学生団体を作ることになりました。

 学校側も大賛成で、団体を作ること自体はトントン拍子に決まります。困ったのは、その名称でした。良い熟語はないかということで、漢籍に詳しい教員のアドバイスなどももらって、大分悩んだ末に、結局、学校が位置する場所ということで一ツ橋にしようと決めました。しかしここで学生たちを悩ませたのが、例の、「ひとつばし」と云うか、「いっきょう」と云うかという問題です。悩んだ学生たちは、2、3日の間は夜となく昼となく、いっきょう、ひとつばし、いっきょう、ひとつばし、と繰り返し繰り返して考えたそうです。そうして、さんざん考えた末に、全く感覚の問題、つまりどちらでも良いような話だけれども、「ツ」を抜いた漢字二字で表記して「ひとつばし」と読むことにした、と回想されています。これが、東京高等商業学校 一橋ひとつばし会の出発点となりました。

 ふり返れば、1902年、当時の先輩が散々悩んだ末に一橋会と名乗った団体が生まれなければ、1949年に本学の名前が一橋大学になることはなかったかもしれません。

 一橋会は、学生団体とはいえ、会長以下役員には校長・教授が名を連ね、同会が刊行する一橋会雑誌には多数の教員が論説を寄せ、要するに、学校本体に負けず劣らず、この学校のメイン・ボディとしての役割を果たすようになりました。とりわけ大学昇格問題において、教員・学生が一体の運動を展開するうえで、一橋会は大きな役割を果たしました。会が生まれた当時の日本には、学士号を出す大学は、まだ東京と京都などの帝国大学しか置かれていませんでした。早稲田や慶応なども、まだ専門学校の扱いでした。そのような中で、本学の教員・学生・卒業生達は、この学校を、商業、経済学、法学さらには多様な社会科学・人文科学を専門とする大学へと昇格させる運動を展開しました。

 その過程で、1908年から1909年にかけては、いったん学校が東京帝国大学に吸収合併されそうになり、学生が抗議して総員退学、渋沢栄一などの応援により合併が取りやめになるという一大騒動いわゆる申酉事件なども起きました。このような有為転変を経て、1920年、本学は官立(国立)の東京商科大学に昇格したのです(同じ年の大学令で早稲田や慶応なども大学に昇格しました)。

 その頃までには、学生も教員も、当たり前のように自分たちを「一橋」と名乗り、東京商科大学発足のときには意気高らかに「我一橋は大学になるのだ」と宣言するようになっていました。「一橋」は、もはや地名を離れた名乗りとなり、此処、国立に大学が移転したあとも、「一橋」という名のコミュニティが国立に引っ越した、そういうイメージで、教員も学生も、自分たちのことを「一橋」と名乗り続けたのです。

 このように、120年以上も前の先輩達が悩んだ末に生まれ、75年前の先輩達が新制国立大学の名前として決めた「一橋」は、地名に由来するとはいえ、この学校に集う人々の社団・アソシエーションの名称となり、「名乗り」となりました。その歴史を知らない「若い学生さん」から見れば納得できない「国立なのに一橋」が、教員・学生・卒業生の間で自然に受け入れられたことには、個性的な、あるいは個性的でありたいと願う、この大学をめぐる人々の強い思いが表れていたということができるでしょう。

 もちろん、名前は記号に過ぎません。その記号のもとに、彼らはどのようなコミュニティを想像したのか。一橋会雑誌には、100年以上前の先輩達による、一橋とは何か、一橋らしさとは何か、それは精神か、文化か、などという議論が溢れています。しかし、イデオロギーや本質主義とはクールに距離を取るべき現代に生きる皆さんには、気にしなくて良い話が多いので、今日は省略です。

 現代における一橋らしさについても、現実を見据えて実証を大事にする、「ひとつひとつ、社会を変える。」すなわち社会を改善する実践的な志に溢れた学問としての実学を重んじるなど、言いたいことはたくさんありますが、私も色々なところでさんざん喋っていますので、今日は省略です。

 ただひとつ、一橋とは何かという点で、その歴史を変わらずに貫くものがあるとすれば、そのキーワードは「人材」です。その歴史を通じて、本学に集い、また本学から巣立つ人材に対する高い評価と期待こそが、本学の名声の基となってきたからです。

 ここで強調したいのは、一橋が、世間一般で見られているような実業界のエリートを遥かに超えた多様性をもって社会に人材を送り出してきたことです。そして、学生時代には自由を謳歌し、失敗を糧にして、学生生活を思い切り楽しみ、卒業してからは、それぞれの人生の営みを自己の責任において全うしようとする人々の、仕事・世代・性別・国籍などを超えたフラットなコミュニティこそが「一橋」の魅力ではないか、あるいはそういう「一橋」でありたいと私は考えています。その意味でも、本日のご来賓・水野良樹さんのお話を、皆さんと共に私も大変に楽しみにしています。

 最後にもうひとつ。今日は「一橋大学」になってから75年というお話をさせてもらいましたが、ちょうど同じ年、本学は初めての女子学生を迎えました。日本で初めて東証一部上場企業の女性取締役となったことでも知られる石原一子先輩です。先輩は、「大学では、全然、女性差別なんてない……同級生も先生方も、完全な男女平等を実践しようとしていた」と語っておられます。以来、一橋は、日本における女性活躍の場を拡げる素晴らしい人材を社会に送り出してきました。

 そして、今年度の新入生における女子比率は31.1パーセントで過去最高となりました。

 皆さんもまた、ジェンダー平等、ダイバーシティ・エクイティ・インクルージョンを実践してください。そして皆さんが、75年前、120年前の先輩たちに負けず、未来の一橋づくりに思い切り参加して、次代の担い手に成長していくことを、心から期待しています。

 あらためて入学おめでとうございます。ご静聴ありがとうございました。



参考(参照順)
 一橋大学学園史刊行委員会『一橋大学学制史資料 第九巻(昭和20~28年 東京産業大学~東京商科大学~一橋大学』1986年。
 一橋大学学園史編纂委員会『一橋会資料集 東京高等商業学校一橋会』1986年。
 KK生(角野久造)「一橋会創立の当時」『一橋会雑誌』第23号、1906年6月。
 徳田吉男「思い出の学生大会──一橋大学の命名をめぐって──」『如水会会報』第340号、1958年8月。
 石井妙子『日本の天井 時代を変えた「第一号」の女たち』KADOKAWA、2019年。



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