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令和5年度 大学院入学式 式辞

令和5年4月2日
一橋大学長 中野 聡

皆さん、一橋大学大学院入学おめでとうございます。

皆さんのご両親、ご家族、ご親族そして関わりの深い方々にも、教職員一同とともにお祝いを申し上げます。  

今年の入学式は、2019年4月以来、実に4年ぶりに、ご家族の皆さんにも兼松講堂にお入りいただくことができました。未だ予断を許さぬとはいえ、コロナウイルス感染症2019の長いトンネルからの出口に向けて社会が歩みを進めるなか、皆さんと、この兼松講堂で入学式を行えることを、心から喜びたいと思います。

ここ兼松講堂に集う皆さんがめざす学位は、修士・専門職学位・博士と多様であり、専攻する学問領域も社会科学・人文科学の多方面に渡り、主に学ぶキャンパスも国立・千代田と分かれています。そして本年度、大学院修士課程に新たにソーシャル・データサイエンス研究科が設置され、第1期生が入学しました。新研究科の皆さんが、社会科学とデータサイエンスの高度な知識を用いてビジネスの理解・分析・革新や社会課題の理解・分析・解決を実行し、また社会科学とデータサイエンスの高度な知識が有機的に融合した学術領域に貢献できる人材に育っていくことを大いに期待しています。

このように文字通り多様な皆さんに対して、一橋大学を代表して申し上げたいこととして、昨年は、ロシア連邦によるウクライナに対する侵略戦争に関してお話をしました。ここでは繰り返しませんが、まったく同じことを述べなければならない現状であることは大変に残念です。

そして多様な皆さんであるからこそ、共に考えて欲しい課題が、もちろん、まだたくさんあります。なかでも地球環境の将来は、誰も避けて通れない問題でしょう。このことに関連して、皆さんをお迎えするにあたって、ひとつの話題を提供したいと思います。午前中の学部入学式でも触れましたが、「人の新しい世」と書いて、「人新世」をめぐる問題です。

ご存知の方も多いと思いますが、「人新世」は、現在、正式な採用に向けて検討が進んでいる新しい地質年代の呼称です。地質年代と言えば、2020年1月、千葉県市原市で観察できるある地層断面を指標として、中期更新世(約77万4000年前〜約12万9000年前)が新たに「チバニアン」と名付けられたことが話題になりました。国際地質科学連合というユネスコ登録の国際学術団体が国際認証する仕組みが定まっています。

今や地球環境の行方に対して人類が行使する圧倒的な影響は、地層にその痕跡を永続的に残す段階に入っている。地球環境問題に対する強い危機感を背景として、人類にその自覚を促す意図をもって「人新世」が提唱されていることについては、ここでこれ以上説明する必要はないでしょう。

それではいつ「人新世」は始まったのか。また、いかなる地層の痕跡をもって地質科学は「人新世」を同定しようとしているのでしょうか。

国際地質学連合がこの問題を、今から20年以上前に検討し始めたときに有力だったのは、イギリスで産業革命が始まった18世紀後半でした。温室効果ガスCO2の排出量がその頃から増加し始めたシグナルが、極地や氷河の氷から取り出された氷のサンプル──氷床コア──の解析から分かるだろうというのが、その根拠でした。しかし、この案は採用されませんでした。様々な要因で増減する大気中CO2濃度が、不可逆的に増加の方向に向かい始めることが氷床コアから検出できるのは、18世紀半ばよりも、ずっと後のことになるからです。

まったく別の発想から、人類による農耕の開始(約1万1000年前)や、CO2よりも温室効果が高いメタンガスを大量に排出する水田農耕の開始(約6000年前)などが提案されたこともありました。興味深いことに、西洋近代初頭の1610年前後に大気中CO2濃度が大きく下がった事実が氷床コアの解析で検出されており、これをシグナルとして人新世を定義しようという見解も、一時、有力となりました。

コロンブスのいわゆる「新世界発見」以後に始まったヨーロッパによる南北アメリカ世界の植民地化は、ベーリング海峡の出現以来途絶えていた新旧両世界の往来を復活させ、人・文物・動植物さらには細菌・感染症の大規模な交換、いわゆるコロンビアン・エクスチェンジ(コロンブス交換)をもたらしました。このとき、旧世界から新世界に広がった天然痘などの感染症により、新世界の人口は急減してメソアメリカ文明は崩壊します。その影響で農耕地や燃料の消費が急減、逆に森林面積が急激に回復したために、CO2が吸収されて大気中濃度が下降した(271.8PPM)というわけです。

この説は有力候補にはなりましたが、結局、最終候補からは外されてしまいました。地球温暖化の危機感を背景に人新世を考えようというときに、CO2濃度が減少した局面を境目とすることには少し無理があったのでしょう。

こうした議論を経て、いま、国際地質科学連合のなかでコンセンサスとなってきたのが、20世紀後半を境目とする考え方です。3月の大学院学位授与式でも紹介したのですが、その背景にあるのは、20世紀後半に工業化・経済成長・人口の増加といった多くの人間の活動がテイクオフして、人類史上最も急速に自然界と人間の関係が変化したという考え方です。それを裏付ける無数のシグナルが、大気・海洋・地表に表れていることは、素人でも納得できます。

しかし、地質年代を新たに定めるためには、色々なシグナルがあるというだけではダメで、そこには学問的な手続きが必要です。シグナルは、はっきりと年代を確定する役に立たなければならず、それらが複数の地層の間で移動しないことや、変化しないことなども重要な条件となります。そして、地質科学者たちは、新しい地質年代を定める根拠として、前後の地質年代との順序や境界を特定できるシグナルを有する代表的な地層を選び、その地層面上で境界を確認できるポイントを、世界中からただひとつ選ばなければいけません。これを、GSSP──通称「ゴールデン・スパイク」──と呼びます。国際地質科学連合はこのGSSP/ゴールデン・スパイクを選定する認証機関としての責務を担っています。

実はここからが本題なのですが、このような条件に合致するゴールデン・スパイクを選ぶにあたって最も有望なシグナルとされているのが、「1950年代初頭からの熱核実験によって世界中に拡散した人工放射性核種」とりわけプルトニウム239をはじめとするプルトニウム同位体だというのです。

自然界にはごく例外的に微量に存在するに過ぎないプルトニウム同位体は、1945年7月16日に、アメリカ・ニューメキシコ州で行われたプルトニウム型原子爆弾を使用した人類最初の核実験(トリニティ核実験)で初めて大量に大気中に放出されました。そして皆さんご存知のように、8月6日には広島にウラニウム型原爆が投下され、9日には長崎にプルトニウム型原爆が投下されました。

さらに、1952年以降、南太平洋などで本格化した大気中核実験では、1945年の3回にわたる核爆発をはるかに上回る放射性核種が大気に放出され、地球規模の放射性降下物(グローバル・フォールアウト)が堆積したことが氷床コアの解析などから確認できます。このような状況から、現在行われている議論では、プルトニウム同位体をシグナルとしてゴールデン・スパイクを選定する場合、人新世の始点は1950年代初頭あるいは大気中核実験がピークに達した1963年前後に求められる可能性が強いようです。

プルトニウム同位体をシグナルとすることについては、大量破壊兵器の放射性副産物の採用を国際地質科学連合が歓迎するだろうか、ゴールデン・スパイクとして選ばれた地元(例えば別府)が喜ぶだろうかという懸念も表明されています。これらを意識して、地質科学者たちは、プルトニウム同位体をシグナルとする根拠について、その歴史性・政治性とは完全に切り離して、あくまで科学的根拠にのみ基づくことを強調しています。

しかし、社会科学・人文科学の立場からは、プルトニウム同位体のグローバル・フォールアウトがシグナルとなることの意味を見逃すわけにはいきません。冷戦においては、核兵器の存在と相互確証破壊戦略(MAD)によって、対立する核保有国・諸大国同士が直接に相互を破壊する戦争を回避することにより先進諸国には「長い平和」をもたらしました。その一方、冷戦期の破壊と殺戮の大半は、いわゆる第三世界で展開しました。

このことを地球環境的視点から言い換えれば、朝鮮戦争・ベトナム戦争のような局地的代理戦争にせよ、植民地独立戦争にせよ、インドネシア・カンボジア・ルワンダなどで次々と発生したジェノサイドにせよ、これらの破壊と殺戮は、面積・人口比で言えばCO2の排出量やその増加率が──それぞれの出来事の当時にあっては──極めて低い国々を舞台として展開したのです。その一方、欧米や日本などの国々は「長い平和」のもとで──朝鮮戦争特需・ベトナム戦争特需のように場合によっては局地戦争の軍需をテコにさえして──他よりも先に経済成長を実現し、豊かになったと言えるわけです。

このように捉えるならば、1945年から始まり1963年にピークを迎えた大気中核爆発によるプルトニウム同位体のグローバル・フォールアウトは、冷戦の「長い平和」が、まず主要工業国に経済成長をもたらし、開発途上国の発展を後回しにすることにつながる原因物質であったとさえ言うことが可能です。だとすれば、プルトニウム同位体は、むしろ大量破壊兵器の放射性副産物であったがゆえに、ゴールデン・スパイクを定めるシグナルとして採用すべきなのだとも言えるでしょう。

21世紀第1四半期を終わろうとしている現在、世界経済の成長は続いており、その恩恵でグローバルな格差是正の進展が期待される一方で、そのことが気候変動など地球環境問題のさらなる深刻化を招いてしまうのではないかというジレンマが私たちの前には立ちはだかっています。そして、世界史のなかで経済成長の先行者としての果実を享受してきた日本を含む先進工業国は、誰一人取り残すことのない持続可能な人類社会の発展に対して責任を果たすことが求められています。

もちろん、これからどのような問題関心や研究に向かっていくのかは、皆さんひとりひとりの選択に任されています。ただ、それぞれの学問や研究が「現実を考えぬくこと」との対話のうえに営まれる一橋の学風のなかで、皆さんも我々が人新世の時代に生きていることの意味を自らに問いながら、学問と研究に励んでいくことを願っています。

2025年、一橋は創立150周年を迎えます。様々な記念事業を展開していきますから、皆さんも楽しみにしていて下さい。そしてこの機会に私たちは、改めて一橋が「市民社会の学である社会科学の総合大学」として「社会を科学するということは、社会の現実に対峙し、立ち向かうこと」であることを再確認したいと思います。そして、「ひとつひとつ、社会を変える」指導的人材として皆さんを育て、「ひとつひとつ、社会を変える」学問を皆さんとともに創造し、社会に発信していくことを誓いたいと思います。本日、人新世時代の学問のあり方について考えたのも、その一端とご理解下さい。

皆さんが、これからそれぞれの目的に向かって、思う存分、学びと研究を進めていけるよう、私たちとしても全力を尽くしてサポートしていきたいと思います。

皆さん、あらためて大学院入学おめでとうございます。
ご清聴ありがとうございました。

参考(参照順)
国際地質科学連合・人新世作業部会ウェブサイト
Lewis, Simon L. & Maslin, Mark A. (2015) “Defining the Anthropocene”. Nature, 519. DOI:10.1038/nature14258
Head, Martin J. et.al. (2021) “The Great Acceleration is real and provides a quantitative basis for the proposed Anthropocene Series/Epoch”. Episodes. DOI: 10.18814/epiiugs/2021/021031



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