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令和4年度 大学院入学式 式辞

令和4年4月3日
一橋大学長 中野 聡

皆さん、一橋大学大学院入学おめでとうございます。

皆さんのご両親、ご家族、ご親族そして関わりの深い方々にも、教職員一同とともにお祝いを申し上げます。  

今年の入学式も、依然としてコロナ禍のなか、様々の制限のなかで行われており、ご家族の皆さんにはキャンパスに入構いただけず、また、様々の事情からこの式に参加できない学生もいます。ライブ配信を通じて、できるだけ多くの皆さんに、この場を共有していただけていることを願っています。

ここ兼松講堂に集う皆さんがめざす学位は、修士・専門職学位・博士と多様であり、専攻する学問領域も社会科学・人文科学の多方面に渡り、主に学ぶキャンパスも国立・千代田と分かれています。そのように多様な道を歩もうとしている皆さんですが、二月末に始まったウクライナにおける戦争には一様に大きな衝撃を受けたことでしょう。

今回のロシア連邦によるウクライナに対する侵略は、国際関係における武力による威嚇又は武力の行使を禁じる国連憲章に明確に違反する行為であり、決して許されてはなりません。ヨーロッパの歴史では第二次世界大戦以来となる大規模な地上戦によって、多くの非戦闘員・市民が犠牲となっており、すでに四百万を越える難民が国外に脱出し、人道危機が深まっています。ウクライナの戦争は、いま、直ちに停止されなければなりません。

私は長くアメリカ社会史を教壇で講じておりました。そのせいか、このたびの戦争の報せに接してまず思い起こしたのは、一九一七年四月二日、時差も考えれば今からちょうど一〇五年前の今日に発表された、ウッドロウ・ウィルソン大統領のいわゆる戦争教書でした。第一次世界大戦へのアメリカの参戦(対ドイツ宣戦布告)を合衆国議会に求めた、「世界は民主主義のために安全にされねばならないThe world must be safe for democracy」の名文句で知られる演説です。はなはだ個人的な感想で恐縮ですが、戦争に揺れる世界の現在とこの文章を結びつけたときに、私の頭に浮かんだ感想から話を始めさせて下さい。

とりわけ私が想起したのは、この演説のなかで、先ほどとは別の、次の一節です。「我々は、犯された悪に対して、文明国の市民の間で守られているのと同一の基準が、国家間、政府間でも守られねばならぬ時代の始まりにたっている」。

いかなる理由があっても市民の間で暴力を行使してはならないように、国家間でも武力を行使してはならない。ウィルソンがアメリカ国民に向けて示したこの分かりやすい対比は、二〇世紀国際法における戦争の違法化に向けたビジョンを示し、国際連盟規約、パリ不戦条約、国際連合憲章への歩みのなかで具体化されていきました。その結果として、二一世紀の侵略戦争がこうして国際社会から一致して非難を浴び、厳しい経済制裁を受けていることを考えれば、ウィルソンの言葉は不朽の価値をもつと私は考えます。

その一方すぐに思い浮かぶひとつの感想は、現在の戦争がまさに示すように、ウィルソンがその始まりを告げた時代は、それから百年余りを経た現在もなお未完の、極めて困難なプロジェクトであり続けているということです。そして現在の戦争は、この理念に対する最も重大な挑戦のひとつではあるが、唯一ではない。この百年余りの間に、他ならぬ日本も、またアメリカも、この理念を裏切り、あるいは危うくしてきた過去をもつ国に数えなければなりません。その結果として、日本は、第二次世界大戦において武装解除されました。

言うまでもなく、これらの過去を想起することが、現在、犯されている悪を相対化し、許容することにつながってはなりません。むしろ全く逆に、過去を冷静・緻密・客観的・多面的に、また繰り返し検証し、社会が正しく想起し続ける営みこそが、新たに犯される悪を見逃さず、許さず、侵略された人々と心から連帯することにつながるのではないでしょうか。その営みは、安易な政治利用を許さないためにも、細心の注意が求められます。すなわち専門家の関与が必要です。まさに社会科学・人文科学の出番ではないかと思うのですが、皆さんはいかがお考えでしょうか。

もうひとつ思い浮かんだ感想があります。私自身も含めて、心から信じることができる圧倒的な正義が語られている時こそ、何かが置き去りにされていないか気をつける必要がある、ということです。ウィルソンが掲げた高邁な理想はアメリカ世論に歓呼を以て迎えられ、アメリカは短期間に大規模な動員に成功して連合国を勝利に導きました。しかし、そこには置き去りにされた、明らかなダブル・スタンダードと言うべき問題があったからです。

この感想について述べるためには、ウィルソンが、この時代のアメリカ南部出身の政治家のひとりとして黒人差別を当然視し、南部におけるセグリゲーション(人種隔離体制)の熱心な支持者であったという事実を、演説と重ね合わせる必要があります。大統領就任以前、プリンストン大学総長を務めていたことから、プリンストン大学公共政策大学院は長くウッドロウ・ウィルソン・スクールと命名されていました。しかし、二〇二〇年六月、同大学はウィルソンの人種主義思想と政策を理由として、その名を校名から削除する決定を下しました。ウィルソンの人種主義がすでに公知の事実であることを示す出来事だったと言えるでしょう。

第一次世界大戦前後のアメリカは、アフリカ系アメリカ人にとっては、南部における市民的諸権利の剥奪、白人による黒人に対する一方的な暴力・リンチの横行など最悪・どん底の時代として知られています。とりわけ、当時蔓延するリンチに対して法的正義がほとんど実現できなかった事実を踏まえると、「犯された悪に対して、文明国の市民の間で守られている基準」というウィルソンの言葉は、歴史の審判の前で一気に批判の眼に晒されざるを得ません。この演説からわずか二年半後の一九一九年一〇月、病に倒れたウィルソンには、その誤りを正す時間は残されていませんでした。

もちろん二一世紀の基準で一〇五年前のウィルソンを裁くべきではなく、また、このようなダブル・スタンダードに対する批判を、国際社会における正義を相対化するためのプロパガンダにすり替えてはならないでしょう。実際、第二次世界大戦当時の日本も、冷戦時代のソ連も、アメリカの人種問題をプロパガンダ・ウォーに大いに活用しました。アメリカも、両大戦以来、国際秩序の形成者として掲げてきた「世界を民主主義のために安全にする」高邁な理念と人種問題のダブル・スタンダードを批判されてその矛盾に苦しみ、格闘してきたことは事実であり、今もなおその格闘が続いていると言っても過言ではないでしょう。

しかしここで間違えてならないのは、置き去りにすることと格闘することの違いです。自らの社会に欠陥が存在することを認めて直視することは、民主主義の弱さではなく強さを示します。二〇二〇年、ブラック・ライブズ・マター運動が広がるなかでプリンストン大学が先に示した決断を下したことも、その一例に数えることができるでしょう。また、こうした格闘と向き合っているからこそ、世界最高水準の社会科学がアメリカにおいて営まれていることを私たちは忘れてはならないと思います。

先ほどの感想に戻ると、圧倒的な正義が語られている時こそ、何かが置き去りにされていないか。時として嫌がられたり、煩がられたりするかもしれませんが、このことへの気づきを社会にもたらすことも、社会科学・人文科学の重要な任務ではないでしょうか。侵略戦争の被害者と心から連帯するためにも、それは必要なことだと思いますが、皆さんはいかがお考えでしょうか。

さて、式次第が短いことに甘えて、個人的な感想を長く話し過ぎました。戦争に揺れる世界のなかで、この一橋大学において研究・学問の道に踏み出そうとしている皆さんに、もうひとつだけ是非、申し上げたいことがあります。

コロナ禍で国際人流が激減した昨年度においてさえ、一橋大学大学院には、学生数一九二三名のうち五三八名、約二八パーセントの留学生が学びました。このように日本でもっともグローバル化した大学院のひとつであり、社会科学における世界最高水準の研究教育拠点をめざす一橋大学には、ウクライナ、ロシアなど関係諸国をはじめ、紛争・対立に揺れる世界各地から数多くの留学生・研究者とその家族を受け入れています。東アジア・太平洋地域の国際関係、歴史認識、民主主義のあり方などについても、国や体制の違いなどで立場や背景の異なる多くの大学院学生諸君が学び舎をひとつに研究に励んでいます。

また、大学院ともなれば、それぞれの国や政府を背負い派遣されて来る皆さんもいれば、個人として、束縛されることのない自由な研究を求めて来る皆さんもいます。そして、社会科学・人文科学の学徒であればこそ、様々の問題について鋭く対立する見解をもち、それぞれの学問の作法に従って自らの正しさを証明しようと全力を尽くそうとするでしょう。

一橋大学は、このように立場や目指すものが異なる皆さんの研究の自由を保障し、皆さんが互いに臆することなく議論を交わし、互いを鍛え、対話の質を高めていくことができる安全な場所であり続けたいと思います。そして、学問の自由と安全が守られた、一橋大学という卓越した学術コミュニティで皆さんが時を共に過ごすことにより生まれていく絆、培う友情こそが、長い目で見た平和の創造に、これまでも大きく貢献してきたし、これからも貢献していくのではないかと私たちは自負しています。

言うまでもないことですが、一橋大学が今私の語ったような素晴らしい学術コミュニティであり続けるためには、何よりもまず、その担い手である皆さんの自覚と協力が必要です。どうぞよろしくお願いいたします。そして、コロナ禍も続くなか、戦争により国際情勢も厳しさを増し、これからの皆さんの学び・研究には、引き続き様々な困難が待ち受けていることでしょう。その困難を乗り越えて、皆さんが、それぞれの目的に向かって学びと研究を進めていくことに心から期待したいと思います。

皆さん、あらためて大学院入学おめでとうございます。
ご清聴ありがとうございました。

参考
ウッドロウ・ウィルソン大統領戦争教書(一九一七年四月)
https://www.archives.gov/milestone-documents/address-to-congress-declaration-of-war-against-germany
プリンストン大学声明(二〇二〇年六月)
https://www.princeton.edu/news/2020/06/27/board-trustees-decision-removing-woodrow-wilsons-name-public-policy-school-and



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