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令和3年度 大学院入学式 式辞

令和3年4月4日
一橋大学長 中野 聡

「南方から帰って」

 みなさん、一橋大学大学院入学おめでとうございます。
 みなさんのご両親、ご家族、ご親族そして関わりの深い方々にも、教職員一同とともにお祝いを申し上げます。  

 今年は入学式を行うことができましたが、依然としてコロナ禍のなか様々の制限のなかで行われており、ご家族の皆さんがこの美しいキャンパスの杜にお出でいただけないことは大変に残念です。また、様々の事情からこの式に参加できない皆さんもいます。ライブ配信を通じて、できるだけ多くの皆さんに、この場を共有していただけていることを願っています。

 ここ兼松講堂に集う皆さんがめざす学位は修士・専門職学位・博士と多様であり、専攻する学問領域も社会科学・人文科学の多方面に渡り、主に学ぶキャンパスも国立・千代田と分かれています。

 そのような皆さんを一橋大学コミュニティにお迎えするにあたって、今日は、今から78年前の1943年・昭和18年に、本学の学生新聞である一橋新聞に、ある哲学者が寄せた小さな文章を紹介してみたいと思います。「南方から帰って」と題された、三木清のエッセイです。

 哲学全盛、学生と言えば哲学書を読む時代。三木清は世間にその名を広く知られた代表的な哲学者・知識人でした。その彼が、国民徴用令により、戦争で東南アジアを軍事占領下においた日本の宣伝・プロパガンダを手伝う仕事を命じられ、1942年の1年間をフィリピン(南方)で過ごしました。その帰国後に記したエッセイです。

 開戦後1年あまりがたち、勝算のない無謀な戦争の先に破局が待ち構えていることは、事情に通じている者の間ではすでに明らかになりつつありました。しかし、三木が「南方から帰って」で伝えようとしたのは、軍事的な勝敗とは別の問題でした。それは、ひとことで言えば、日本のやり方・考え方が、日本が占領したアジアでは通用しなかったという痛切な経験から学んだ教訓であり、さらには自己批判です。

 この小文のなかで直接には語られてはいないが、深く関係する出来事がありました。1942年9月、フィリピンの知識人を前にしてマニラで行われた文化講演会で、三木は哲学を講義しました。通訳には、アメリカで育ち、日米両国の大学(ハーバードと慶応)を卒業した、バイリンガルのある人物(浜本正勝)が立ちました。

 しかし、三木が話し始めてしばらくすると、会場は無反応となり静まりかえってしまった。気がつくと、通訳は、三木が話す哲学用語満載の難解な日本語を、無意識のうちに、別の、英語に翻訳できる平易な日本語で言い直していたのです。頭の中の作業が思わず口に出たのでしょう。通訳も気がつき、あわてて英語に戻して、その場は事なきを得ました。 講義が終わると、同席していたある日本人作家(尾崎士郎)は、三木の目の前で通訳に向かって「わしは三木の哲学が君の解釈で初めて分かったよ」と冷やかしたそうです。

 「南方から帰って」で、三木はこの出来事を念頭において、このとき通訳を務めた人物を褒め称え、自分に代わって彼こそが「ご本尊」となり自分の影が薄れる有様だったと自嘲気味に語ったうえで、本題に入ります。

 曰く、「全ての観念論はけっきょく自己満足もしくは自己陶酔に過ぎない。ところが戦いにはつねに相手がある」。相手に通じ、相手を説得できなければ意味がない。そして「これは単に語学の問題」ではなく「論理」の問題だと三木は述べます。異国・異文化の相手とは、翻訳可能な「論理」という回路を通じてしかコミュニケーションできないではないか。ところが、戦時体制下で精神至上主義が横行する日本では「論理を無視することがあたかも日本的」であるかのような議論がまかり通っている。それは「前線の現実を考えない後方の観念論」だと、三木は批判したのです。

 さらに、「前線の現実」と向かい合うなかで露呈した日本の弱点として、三木は、当時の日本の学問が思想性を重視するあまり、科学性を問題にせず、特に実証性を無視する傾向があると述べます。これは三木自身の哲学に対する深刻な自己批判を含んだ議論でした。さらに日本人の思想と実行が一致していないことがアジアの人々に見透かされているとも言います。その背景として、三木は、日本人の語る思想があまりに観念的であって、現実を処理するに役立っていない、すなわち思想の実証性に問題があるのだと論じています。

 このエッセイからは、戦争中のフィリピン帰りの哲学者、という特殊性を超えて、学問を志す者にとって普遍的な教訓を様々に読み取ることが可能です。まずは、独りよがりになるな、ということかもしれません。もちろん研究者が、そのオリジナリティを追求するプロセスにおいて独りよがりになり自分勝手になることは、必ずしも責められることではなく、むしろ必要なことかもしれません。しかし、どんな研究であっても、最終的には結果がアウトプットされなければ、残りません。その最後の局面ではコミュニケーションが勝負になる。このことだけは共通して言えるのではないでしょうか。

 そしていちばん注目してほしいのは、このエッセイが、三木自身の従来の理論と方法に対する自己批判ともなっていた点です。その具体的内容には入りません。評価も簡単ではないと思います。ただ確かなことは、歴史の巨大な渦のなかで破局に向かいつつあった日本が迫られていたパラダイムの転換を、三木が自分自身の学問の理論と方法をめぐる課題として受けとめていたという事実です。このことについてある研究者は、「現実から出発した固有の『問題』を新たに見出し、その『問題』に即して考えぬくことから自前の、もはや『哲学』ではない哲学を形成すること」を三木が課題として受けとめようとしていたと評価しています。残念ながら、このエッセイを記してから二年後に三木清は獄中で悲劇的な死を遂げ、その哲学におけるパラダイム転換は行方を示すことなく未完におわりました。

 三木清が「現実の問題に即して考えぬく」地平に立とうとしていたとき、その心境を本学の学生新聞に吐露したのだとすれば、それは名誉なことでもあり、また本学の学風とも響きあう出来事だったのではないかと私は思います。本学西キャンパスのある場所に立つ碑には、「我々が憎むのは虚偽と雷同であり、我々が戒めるのは煩瑣と冗長である」という意味の言葉が刻まれています。そこから窺えるのは、20世紀における神々の争いとしてのイデオロギー闘争から距離をおいて現実を考えぬこうとする姿勢です。もちろん、そこからどのような問題関心や研究に向かっていくのかは個々の選択に任されています。研究分野によっては、狭い意味での現実や科学や実証性に研究が縛られる必要がないことは言うまでもありません。ただ、それぞれの学問や研究が「現実を考えぬくこと」との対話のうえに営まれることは、恐らくは、一橋の学風のどこかにDNAとして生き続けているのではないかと私は思っています。

 コロナ禍が続くなか、これからの皆さんの学び・研究には、引き続き様々な困難が待ち受けていることでしょう。その困難を乗り越えて、大きなパラダイム転換が迫っているに違いない今この時代の現実を考えぬくなかで、皆さんが、それぞれの目的に向かって学びと研究を進めていくことに心から期待したいと思います。

 皆さん、あらためて大学院入学おめでとうございます。
 ご清聴ありがとうございました。

 参考 三木清「南方から帰って」『一橋新聞』第362号、1943年2月25日(『三木清全集・第15巻』岩波書店、1967年)。清眞人ほか著『遺産としての三木清』閏月社、2008年。中野聡『東南アジア占領と日本人─帝国・日本の解体』岩波書店、2012年。上田貞次郎「宣言」雑誌『企業と社会』1926年4月(上田貞次郎先生碑)。



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