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平成28年度学部卒業式における式辞

2017年3月21日
一橋大学長 蓼沼宏一

 卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。また、ご臨席賜りました卒業生のご両親などご家族の方々にも、ご来賓の皆様及び教職員一同とともに心よりお祝い申し上げます。
 皆さんがこの卒業の日を晴れて迎えられたのは、何よりも皆さん自身の努力と研鑽の賜物ですが、ご家族など身近な方々の支え、指導教員や友人からの助言や励ましもなくてはならないものであったことでしょう。さらに、一橋大学が長年にわたり蓄積してきた優れた教育研究環境、本学の諸先輩が築かれてきた伝統と実績、同窓会組織である如水会から受けた恩恵、そして、自由に勉学に打ち込むことを可能にしてくれた社会のサポートにも思いを至らせていただきたいと思います。
 本日、卒業する皆さんに、まず、これからの人生が実り豊かなものであるよう、心からお祈りいたします。一橋大学を巣立つ皆さん一人ひとりが、それぞれの道で、自ら豊かな人生設計をされ、それを実現されることを願っています。

 さて、一橋大学研究教育憲章は、本学のミッションを「日本及び世界の自由で平和な政治経済社会の構築に資する知的、文化的資産を創造し、その指導的担い手を育成すること」と掲げています。この中に含まれている「自由」という言葉には、個人が外部からの束縛、抑圧や強制から解放されているという受動的な意味と、各人が自分の望むように生き方を選択することができるという能動的な意味があります。一方、「平和」とは、戦争・紛争がないことは言うまでもありませんが、英語のpeaceには「平穏」や「安寧」という意味もあります。自由が保障され、戦争や災害のない世界で、それぞれの人が安らかに暮らせる社会を私たちは実現したいものです。
 しかし、現実を見ると、どうでしょうか。世界では争いや災害が続き、ニュースが次々重なり、様々な情報が溢れるようになりました。その中で、6年前の東日本大震災の記憶も、深刻な諸問題への意識も次第に風化し、忘れてはならない教訓までも置き去りになりかねない時代です。日本経済に目を向ければ、バブル崩壊後の1990年代以降、長期停滞からなかなか抜け出せない状態が続き、近年やや良い兆候は見られるものの、莫大な財政赤字を抱え、不安定な状態に変わりはありません。少子高齢化の進行は止まらず、医療・介護と社会保障は最大の社会経済問題になっています。世界では、経済活動の急速なグローバル化が進む反面、自国のみを優先するかのような主張が強まりつつあり、その矛盾がどのような帰結を生じるのか憂慮されます。所得と富の格差は広がり、政治的、経済的、あるいは思想的な対立の溝は、埋まることがありません。一方、人工知能をはじめとする科学技術の急速な発展とともに、それをいかに社会が受け容れ、活用すべきなのかという新たな社会問題に私たちは直面するようになっています。
 これら日本及び世界の直面する社会経済問題の解決に向けて貢献することは、真の実学、すなわち社会に実りをもたらす学問としての社会科学の使命であるとともに、一橋大学で社会科学を学び、今日、巣立っていく皆さんの責務でもあります。若い皆さんは、次の時代を担う立場にあります。大きな転換点を迎えている世界で、ぜひ、社会の改善に貢献する働きをしてほしいと思います。

 商法講習所として出発した本学は、伝統的にCaptains of Industryの養成を標榜してきました。Captains of Industry と聞くと、皆さんは実業をリードする企業経営者をイメージされるかもしれません。しかし、実はそれよりもはるかに深い意味を含んでいるものなのです。Captains of Industryという言葉は、19世紀イギリスの歴史家・思想家、トーマス・カーライルの著書『過去と現在』の第4章に見出されます。その中で、カーライルは次のように述べています。

Captains of Industry are the true Fighters, henceforth recognisable as the only true ones: Fighters against Chaos, Necessity and the Devils and Jötuns; and lead on Mankind in that great, and alone true, and universal warfare.

すなわち、Captains of Industryとは、混沌、必然、諸悪に対して戦い、人類を導く真の勇者であると述べているのです。産業革命期のイギリスにあって、利益のみを追い求める拝金主義の産業資本家ではなく、実業から社会変革を起こすリーダーが求められていたのでありましょう。そして、Captain――船長――とは、世界の荒海の中で未知の問題に直面しても、自分の船の特徴を知り、周囲の状況を的確に把握し、進路を見出していく者です。そのCaptains of Industryのスピリットは、企業経営や経済に限られるものではなく、法、政治、社会、学術などのあらゆる分野に生かされるべきものです。

 私は皆さんの中から、真のCaptains of Industry、つまり、世界の諸問題の解決に貢献するリーダーが生まれることを大いに期待しています。
 しかし、社会改善への貢献とは、リーダーとなることだけを意味するものではありません。社会の諸問題の解決は、政治家、官僚、経営者、あるいは学者等の立場にある人だけが取り組めばよいというものではないのです。一人ひとりの市民が問題に関心を持ち、解決への道筋を考え、他者との関わりの中で議論を経て、社会的価値判断が形成されてこそ、社会はより良い方向へと動き出すのです。この点が、社会と自然との大きな違いです。
 社会とは人間の集合体です。社会における選択は、結局は個人による選択の集積に他なりません。自然界と異なり、社会は人間自身が構成要素であるが故に、ときには社会的選択による大きな変革も可能なのです。社会科学を学び、変化の激しい時代に生きていく皆さんには、社会的な選択の場において的確な判断を下し、より良い方向に導いていってほしいと望みます。

 かつて、近代経済学の礎を築いたイギリスの経済学者の一人、アルフレッド・マーシャルは、1885年のケンブリッジ大学教授就任演説において、cool heads but warm hearts、つまり、冷静な頭脳と温かい心をもつ人々を育てたいと述べました。社会的選択の場で、皆さん一人ひとりに求められるのは、まさにこのcool heads but warm heartsに他なりません。
 皆さんは、一橋大学の伝統である少人数ゼミナールなどで、専門分野を深く学び、社会科学的思考の修練を積んできたことと思います。どの学問分野も、混沌とした現実の問題を把握し、概念化し、論理的思考によって問題の解を見出すための方法・フレームワークを作り出してきました。専門分野を勉強する目的の一つは、知識を豊かにすることですが、それ以上に、汎用性の高い思考方法を習得することが重要なのです。皆さんは専門分野の勉学を通して得られた思考の方法とフレームワークを、これから大いに活かしていってほしいと思います。
 よりよい社会を築いていくためには、問題を客観的に把握し、論理的かつ実証的に分析するだけでは十分ではありません。cool heads、つまり冷静な事実認識に基づきつつ、warm hearts、つまり他者への共感をもち、何が社会的に望ましいかという規範的判断をしていかなければなりません。
 何が社会的に望ましいか、という判断を行うためには、その判断の拠って立つ基本的視座を確立することが重要です。それには、社会とは何か、ひとの幸せとは何か、といった根源的な問いにまで戻る必要があります。

 ここで、はじめに述べた「自由」について、改めて考えてみましょう。外部からの抑圧や強制がないという意味での自由は、人の尊厳を保つために不可欠なものです。一方で、各人が自分の望むように生き方を選択することができるという能動的な意味での自由は、どのように実現され得るのでしょうか。生き方を選択するためには、まず、各人に選択の機会が与えられていなければなりません。
 ノーベル賞を受賞したインド出身の経済学者であり、哲学者でもあるアマルティア・センは、それぞれの人が実際に行い得ること、成り得ることをfunctioningとよび、このfunctioningが、そのひとの状態の良し悪し、つまり福祉の水準を決めると主張しました。例えば、充分な栄養を摂るということは、最も重要なfunctioningの一つですが、公衆衛生が行きとどかないために伝染病にかかって栄養摂取力の弱い人は、同じ量の食べものを与えられても、低いレベルの栄養しか摂ることができません。また、衣服についても、社会的なタブーがあれば、実際に身に付けることのできるものには制限があります。このように、functioning、つまりその人が実際に行い得ること、成り得ることは、モノやサービスの消費量だけでなく、各人の属性や置かれた社会環境にも依存します。
 センのfunctioningの考え方は、私たちが様々な状況において社会的選択を行っていく上で、重要な視座を与えるものです。たとえば、東日本大震災後に投入された巨額の復興資金は、人々の実際に行い得ることの改善やコミュニティの復活などのために真に効果的に使われてきたのか、費用対効果も含めて冷静に検証される必要があります。また、世界における貧困問題の解決は、単に資金を援助するだけでは不十分であり、生活インフラや医療、教育といった、人々のfunctioningの向上に結び付く施策が総合的になされなければならないのです。

 アマルティア・センは、さらに、栄養を摂取すること、自由に移動できることなど、各人の様々なfunctioningの組合せの全体をcapabilitiesとよび、各人の選択機会の豊かさは、このcapabilitiesの大きさによって表されると主張しました。その個人のcapabilitiesの大きさを決めるのは、消費できるモノやサービスの量と、個人的属性及び社会環境です。
 一方、地球上の資源の総量には限りがありますから、社会的決定は常に資源の制約の下でなされなければなりません。稀少な資源を使って得られた限られた成果を分け合わなければならない状況では、すべての人のcapabilitiesを同時に拡大させることは不可能です。したがって、各人が自分の望むように生き方を選択することができるという能動的な意味での自由の実現を巡っては、人々の間に対立が生じる可能性があります。
 それぞれの人が個別の利害を主張し合う中からは、対立を乗り越えて社会的解決に導く道は開かれません。利害対立の状況を解決し得る規範は正義です。正義に適う分配のルールとは何か。私たちは冷静に事実を認識するとともに、自分の個別利害や現実的状況から一旦離れて、可能な限り普遍的な立場で望ましい社会とはどうあるべきか思考し、さらに他者との議論の中で、場合によっては自らの判断を修正していく柔軟性も求められます。
 そのプロセスの中では、事実認識と価値判断という2つの段階のそれぞれで、人々の間に意見の相違が生じる可能性があります。とりわけ、科学技術が急速に発展する時代には、事実認識におけるギャップも大きくなりがちです。
 そこで重要となるのが、他者との対話なのです。ジョン・スチュアート・ミルは、『自由論』の中で、「人が判断力を備えていることの真価は、判断を間違えたときに改めることができるという一点に」あり、「人は議論と経験によって自らの誤りを正すことができる」のであって、「経験のみで正されるわけではなく、議論によって、経験をいかに解釈すべきかが示される。」と述べています。
 ミルのこの主張は、現代において、重い意味を持つに至っています。今やインターネットなどの情報伝達手段が格段に進み、情報が溢れかえって混乱し、事実を見出せないという問題が起きています。どの情報も事実の一面を切り取って解釈したものに過ぎず、情報の荒波の中で、逆に真の事実が見えにくくなっています。様々なメディアやネットという表に出た情報の裏に、たくさんの事実があることを知らなければなりませんが、それは大変な困難と労力を要します。私たちが真の事実を知るためには、個の能力を超えて、他者との議論が必要です。次の時代を担う皆さんは、冷静な現状認識と普遍的な規範的判断という視座に立ちつつ、相互尊重に基づく他者との関わりの中で、説明と議論を経て真の事実を見出し、対立の超克へと導くことに貢献してほしいと思います。

 本学の卒業生の皆さんは、大学での勉学をもとに社会へ出て、あるいは研究を続け、これからいろいろな経験を積もうという意欲を持っている人が多いと感じます。その卒業生にとって、一橋大学は「港」のような存在でありたいと私は考えています。様々な社会経験を経て、多くの課題に気づく時、現場での知識や経験のみでは切り抜けられず、正しい判断をするために基礎となる学問が生きてくることもあるでしょう。そして再び学び思考を深めたいと考えた時、思う存分学ぶことができる、そのような場を大学は提供し続けていきたいと思います。そして大学は、基礎的研究が机上で孤立したものではなく、世の中で抱えている課題を背負った時に生かされるよう、努めていくべきです。
 ですから私たちもまた、今日卒業する皆さんが、それぞれの現場で見出した問題意識を、再び大学に投げかけてくれることを期待しています。学問に終着点はありません。学問とは、事実を把握するために人間が作り出した思考の枠組であり、それは常に新しい経験に晒されることによってブラッシュアップされていかなければならないものなのです。
 大学は、社会をよりよくするための知的資産を創造する場です。経験と理論がぶつかり合う中から、新たな知が生まれてきます。その創造のプロセスを、共に歩もうではありませんか。

 皆さんは、これからあらゆる分野で世界という広い海に漕ぎ出していきます。その前途は洋々としていますが、ときとして困難もあることでしょう。しかし、磨かれた己の「知」と感性を駆使し、懼れることなく道を切り開いていってください。
 そのエールを送り、私からの餞の言葉とさせていただきます。



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