すべては突拍子もない「妄想」から始まる。変わることを恐れず、学ぶことを楽しもう。
- 三井不動産株式会社 代表取締役社長植田 俊
- いきものがかり、HIROBA水野 良樹
- TBSアナウンサー山内 あゆ
- 一橋大学 学長中野 聡
2024年10月2日 掲載
三井グループの元祖・三井高利が日本橋に越後屋を創業した1673年から350年の節目を迎えた2023年、三井不動産の代表取締役社長に一橋大学出身の植田俊氏が就任した。大きな節目を迎えた三井不動産は、翌2024年に「経営理念」を再定義。新たなコーポレートメッセージとして「さあ、街から未来をかえよう」を掲げた。2024年11月3日に結成25周年を迎えるいきものがかりのリーダーで卒業生の水野良樹氏は、4月に行われた一橋大学の入学式に登壇。新入生に向けた祝辞の中で、「学びを通じてあなたはどう変化するのか」と問うた。奇しくも、一橋大学創立150周年に向けてのステートメントは、「ひとつひとつ、社会を変える。」である。それぞれの「変える」について、植田氏、水野氏、TBSアナウンサーの山内あゆ氏、中野聡学長が語り合った。
植田 俊(うえだ・たかし)
1983年一橋大学経済学部卒業。同年、三井不動産株式会社入社。2011年執行役員ビルディング本部副本部長兼ビルディング本部事業企画部長、2015年常務執行役員ビルディング本部副部長兼ビルディング本部業務推進室長、2020年取締役常務執行役員ビルディング本部長、2021年取締役専務執行役員を経て、2023年4月代表取締役社長 社長執行役員に就任。
水野 良樹(みずの・よしき)
2006年一橋大学社会学部卒業。1999年いきものがかりを結成。2006年3月「SAKURA」でメジャーデビュー。グループ活動と並行し、ソングライターとして国内外を問わず様々なアーティストに楽曲提供を行う。2019年より共創プロジェクトHIROBAを主宰。清志まれの筆名で小説も発表している。
山内 あゆ(やまのうち・あゆ)
2000年一橋大学法学部卒業。同年4月、TBSにアナウンサーとして入社。『Nスタ』『バナナマンのせっかくグルメ!!』などのほか、BS-TBS、TBSラジオ、TBS公式 『YouTuboo』でも活躍中。
中野 聡(なかの・さとし)
1983年一橋大学法学部卒業。1990年一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程単位修得退学。1996年博士(社会学・一橋大学)。研究分野は地域研究、アメリカ史、フィリピン史、日本現代史。2020年一橋大学学長に就任。
たった1問の数学の問題との出会いが、人生を大きく変えた
山内:今回は職業上、私が司会進行を務めさせていただきます。まず、皆さんがどのようにして一橋大学に入学することになったのか伺えますか。
植田:実家に近い京都大学を目指していたのですが、高3の夏休み前に担任の先生から「現役合格は難しいぞ」と言われまして。どうしようか悶々としながら受験勉強をする中で、たまたま気持ちよく解けた数学の過去問があったんです。それが一橋大学の問題でした。
早速、下見のために上京。東京駅からオレンジ色の電車に乗って延々と行くので、心がめげそうになりましたが、着いてみると兼松講堂や時計台棟があって、武蔵野の面影を残す素晴らしい環境でした。一橋大学には近代経済学の著名な先生方がたくさんいらっしゃることも知り、ここが私の理想の大学だと惚れ込んで、一橋大学だけを受験しました。私の出身高校では初の一橋(いっきょう)生になります。
あの数学の問題に出会わなかったら、多分、一橋大学には来ていませんし、三井不動産にも入社していないでしょう。社長にもなっていないと思います。偶然の出会いが人の人生を変えることがあると、強く感じています。
中野:私も植田さんと同じ年の受験です。数学は不得手でしたが、赤本(大学入試シリーズ)を読んでいたときに、一橋大学の数学は解けると思い込んだんですね。これが私の一橋大学入学につながるきっかけの一つであったことは事実です。
水野:僕は高校の頃から社会学部に興味がありました。社会学部を受験するにあたって、自宅から通えるトップレベルの大学が、一橋大学だったんです。現役の時は僕の学力が足りなくて、一旦、他大学に入学したのですが、どうしても一橋大学で学びたい気持ちが強く、次の年に再度受験して何とか入学することができました。
山内:私も浪人組です。一度訪れると一橋大学に対する憧れが急に高まるのは、一橋あるあるですね。皆さんはどのような学生時代を送られたのですか。
植田:私の場合、一橋大学の学園祭である一橋祭(いっきょうさい)を抜きにしては語れません。一橋祭運営委員会の後輩に、HQの取材を受けることを伝えたら、私が大学3年生の時の法被を用意してくれました。
水野:一橋愛が強すぎますね。
植田:私が学生だった1980年代は、学園紛争が終わって、何となく無気力な時代だったように思います。そういう中で、一橋祭は、年に1回ぐらいは気持ちを一つにして盛り上がろう、というお祭りでした。ちょうどジュディ・オングさんの「魅せられて」という曲が爆発的に流行っていた時期で、「ジュディ・オング・ショー」を企画しました。時計台棟の前に池がありますよね。あそこに水上ステージをつくって、ジュディ・オングさんの真似をして歌うんです。
山内:ちょっと待ってください。ジュディ・オングさんは来ていないんですか。
植田:ええ、来ていません(笑)。十数人が参加して、誰が似ていたかというコンペでした。優勝は、私ではなかったことだけは間違いないのですが。
水野:植田社長も歌われたんですか。
植田:ええ、歌いました。
山内:同時期に在学されていたとのことですが、中野学長、覚えていますか。
中野:一橋祭の運営委員会出身の方々は、各界で活躍されている方ばかりです。お会いすると皆さん「当時の経験が今に活かされている」とおっしゃるのですが、同級生としての当時の印象は、"やたら元気がいいけど、ふざけたことをやっている人たち"でした。
植田:(笑)もう一つ、「ソフト・エネルギー・パス」という本を出された物理学者のエイモリー・ B ・ロビンス氏をテーマにしたシンポジウムも開催しました。自立・分散型の再生可能エネルギーで社会構造を変革することを提唱した方です。
山内:1980年代に、ですか。
植田:そうです。1982年です。
水野:僕が生まれた年です。
植田:時代を感じますね。当時、東海大学が垂直軸型という縦に回る風力発電機をお持ちだったので、それを借りてきて兼松講堂の前に設置したりして。お祭りらしく会場を盛り上げながら開催しました。今でこそ再生可能エネルギーは当たり前ですけれど、40数年前にやっていたんです。学長、当時の一橋祭へのイメージが変わったのでは?
中野:最近の一橋祭もいい企画がたくさんあるのですが、私たちの時代にもあったのですね。参加しなくてすみません!
植田:硬軟織り交ぜて開催していたことを、アピールしておきたいと思います(笑)。
山内:今に活かされていることがありそうですね。
植田:私は今、「まちづくり」を生業としていますが、「まちづくり」は、「まつり」です。地域の意見をまとめる「まつりごと」と、地域の人びとの心をまとめる「まつり」。それが「まちづくり」に欠かせないことだと私は考えています。「まつり」「まつりごと」「まちづくり」です。思い返せば、一橋祭で祭りを楽しみ、今まさにそれを生業にしている。幸せものだなとつくづく思っています。
大学の友人たちに胸を張れる自分でいようと誓う
山内:水野さんは高校生の時から音楽活動を始められて、大学卒業と同時にメジャーデビューをされています。どのような大学時代を過ごされましたか。
水野:大学時代は、少しずつ東京のライブハウスに出たり、レコーディングを始めたりしていた時期でした。レコーディングで徹夜をして、朝、中央線に乗って国立まで行き授業を受けるという生活をしていました。僕が音楽をやっていることは、大学の友人たちは全く知らなかったと思います。国立での生活とスタジオでの生活、音楽以外の自分と音楽の自分とを、うまく分けて生活していたように思います。
山内:国立で作られた曲もありますか。
水野:デビュー曲の「SAKURA」は、僕の地元・神奈川の相模大橋を描いています。一方で、僕には、国立の大学通りの桜並木のイメージもあるんです。僕は大学の卒業とメジャーデビューが全く同じ時期だったんですね。友人たちがそれぞれ企業に就職したり、ビジネスの世界に旅立っていく中で、自分は全く違う方向に進んでいくことになった。あの曲の中には、友人たちに胸を張れるような自分でいようという当時の僕の気持ちが強く反映されています。
中野:水野さんに祝辞をいただいた今年の入学式は、久しぶりに桜が満開になったんです。
水野:入学式で学長が第一声、「さくらひらひらまいおちる国立へ、一橋大学へようこそ!」と、僕だけに伝わるメッセージをくださったのが非常に嬉しかったです。
山内:新入生の皆さんも分かったと思いますよ。中野学長は、どのような学生生活を送られたのですか。
中野:私は極めて平均的です。演劇青年で、演出を勉強したくて、プロの俳優を目指す人たちの俳優養成所に出かけていったりしていました。大学は行くも自由、行かないも自由という時代でしたね。
突拍子もない「妄想」でも、大義があれば「構想」になり、勇気があれば「実現」できる
山内:中野学長は研究者になり、植田さんはビジネスの世界で、水野さんはアーティストとして、私はテレビ局でアナウンサーとして仕事をしています。それぞれのお仕事ではどのようなことを大切にされているのでしょうか。
植田:私が入社した1983年はバブルの助走が始まっていた時期です。社会人生活の最初の4分の1はバブルへ向かう予兆から崩壊まで、残りの4分の3は日本経済の「失われた30年」です。ここ15年は、日本橋をはじめとしたまちづくりに携わっています。
不動産デベロッパーの仕事は、建物づくりを想像されがちですが、それだけでは済まない時代になっています。本社のある日本橋は江戸時代から薬種問屋が並んでいた街。日本橋をもう一度ライフサイエンスの聖地にしようという「妄想」を立て、ライフサイエンス・イノベーション・ネットワーク・ジャパン(LINK-J)という社団法人をつくって地元の方や業界の方と一緒に活動しています。このプロセスが一橋祭に似ていて、本当に楽しいんです。LINK-Jの参加者であるJAXA(宇宙航空研究開発機構)と一緒に、宇宙ビジネスを手掛けるクロスユー(cross U)というコミュニティもつくりました。
なぜ不動産会社がそこまでやるのかと聞かれるのですが、これこそ私が大切にしていることです。突拍子もない「妄想」でも、そこに大義があれば仲間が集まって「構想」になり、勇気があれば「実現」される。私が仕事をするうえで信条にしていることは「妄想」「構想」「実現」です。
水野:抽象的なものを具現化していく過程が、一橋祭で培われたことと同じなんですね。今お話を横で伺っていると、ずっとわくわくされていることが伝わってきました。だからこそ協働する仲間が集まってくるのだなと感じました。
植田:いい解説をしていただきまして、ありがとうございます。
山内:水野さんのお仕事も、10代の頃はきっと「妄想」に近いものだったのでしょうね。
水野:そうです、「妄想」です。メンバーとよく話し合っていたのは、「これは夢物語であるという現実を受け入れよう」ということでした。99.99%叶わないところからスタートしようと。僕たちは0.01%の可能性からスタートするけれど、それを0.02%にするにはどうしたらいいだろうかと考えながら、少しずつ可能性を広げてきました。
中野:素晴らしいですね。私は学者ですので、どちらかというと分析する側に回ります。ただ、「妄想」で歴史を動かしていく人たちの力を歴史家として見ていかなければいけないと思いました。革命にしても、戦争にしても、ビジョンで動く歴史もあります。そして、その結果が一人ひとりの人生に関わってくる。総理大臣と、戦争に行く兵隊と、まちに住んでいる人々。同じ一つの事実でも全く違う見え方をするし、全く違う結果をもたらしていきます。その一つひとつを丁寧に見る姿勢が、歴史学的な立場だと感じています。
水野:一つの視点だけでは物事はとらえきれません。僕が詞を書くと、それは自己表現のように思われてしまうことがあります。しかし、皆さんが全く違う価値観でこの詞に接するので、書いた本人だけで完結することはあり得ない。読み手がいてやっと完結するものだと思っています。
中野:水野さんが入学式で述べてくださった祝辞も、とても素晴らしいものでした。学生も大変感動していました。我々学術の人間は抽象の言葉をそのまま出してしまいますが、それを生活の言葉に組み上げていくようなプロセスが、水野さんの中で動いているのかなと推察します。
水野さんの入学式の祝辞は、一橋大学のウェブサイトに全文掲載していますし(令和6年度一橋大学入学式 祝辞)、公式YouTube「HitotsubashiChannel」でもご覧いただくことができます。ぜひご覧ください。
変わることを恐れず、「妄想」を大切に楽しみながら学ぶ姿勢を大切に
中野:一橋大学が創立150周年を迎えるにあたり掲げたステートメントは「ひとつひとつ、社会を変える。」ですが、社会を変えていくためには自分も変わらなければなりません。昨年は72年ぶりに新学部「ソーシャル・データサイエンス学部」を設立するなど、一橋大学も今、大きな変革の時期にあります。皆さんは「変える/変わる」ということについて、どのようにお考えですか。
植田:三井不動産は2024年に経営理念を刷新し、コーポレートメッセージ「さあ、街から未来をかえよう」を掲げています。世界では加速度的にさまざまな変化が起きており、日本では失われた30年に終止符が打たれようとしている。ここで変えていかなければいけないと思います。まさしく時宜を得た「変える」だと思います。
水野:個で変わる部分と集団で変わる部分がうまくジョイントしたときに、物事は大きく動いていくのだと思います。一橋大学が"社会を変え、自らも変わる"ということをステートメントにするのであれば、現実と抽象、集団と個といった二つの相反するものをどう一つに成立させるか、両者を一緒に変えるという考え方が大切なのではないでしょうか。大きな組織もただ一人の個人も、全部つながっていて境目もない。そのことをお互いが意識することによって、少しずつ社会が変わっていくのだろうと考えます。
山内:私は今、子どもを3人育てながら、アナウンサーをしています。その間に、社会も変わってきたように感じています。社会が変わる中で、私自身、すごく生きやすく、働きやすくなったという実感があります。自分を大きく変えなくてもフィットする時代がやってくる。そんなこともあるんじゃないでしょうか。
水野:でも、行動するためには意思が必要ですよね。テレビは、ジェンダーに対する考え方など、価値観の変化が強く反映される場所だと思います。それはもちろん一人ひとりが動かしているものですが、大きな渦となって(社会に)影響を及ぼすものでもある。個人の自由な意思表明の重ね合いによって、新しい社会が生まれていくのではないでしょうか。
山内:ジェンダーやダイバーシティという言葉は、大学時代に学びました。それが今になって、とても重要な話題として扱われるようになり、大きな変化を感じています。
中野:ジェンダーやダイバーシティをパイオニア的に学ぶことができたのは、一橋大学の強みです。今日、皆さんのお話を伺っていて、「変わる/変える」についても、複眼的な思考が必要なのだと分かりました。
山内:学生へのメッセージがあればお願いします。
植田:一橋大学は相対的に卒業生が少ない中で、トップマネジメントをたくさん送り出しています。Captains of Industryという名に恥じない大学になっています。卒業生は全般的にバランス感覚がある人が多いという印象ですが、もう少しダイバーシティに富んだ人が出てきてもいいなとは思っています。水野さんのように0.01%を狙うような人がもっといてもいい。いろんな分野に興味を持って、飛び込んで活躍してもらいたいと思います。「妄想」「構想」「実現」ですよ。
水野:すごくストレートな言葉ですけれど、楽しむことが大事だと思っています。現代は「楽しむ」の価値がすごく上がっていると思うんです。効率化の進む社会で残るものは、楽しむ主体だけだと思います。大学で学べるということ自体が非常に幸福なことでもあるので、本当に自分は楽しんでいるか、と問い続けながら学んでほしいと思います。
中野:本学は、非常に多くのトップマネジメントを輩出しています。一橋大学における学びの総合力が評価された結果だと感じる一方で、社会で活躍する卒業生の多くは、とても自由に学生生活を楽しんでおられたようです。せっかくですから、4年間の大学生活で「妄想」を楽しむ時間があってもいいのではないでしょうか。
山内:4年間は本当にあっという間でした。もっといろんなことができたような気もするし、何にもしない自由もあったのだなとも思います。どんなことをしてもかまわない。学生の皆さんのことを、本当に応援しています。
中野:学びは一生続きます。今、80歳を超えたOBが大学院で学んでいらっしゃいます。卒業生の皆さんも、いつでも学び直しにいらしてください。本日はどうもありがとうございました。