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臆せず主張し、不足あらば素直に反省。 謙虚な姿勢で財務次官としての職責を担う

  • 財務次官矢野康治
  • 一橋大学理事・副学長大月康弘

2021年11月1日 掲載

2021年7月8日、初の一橋大学出身の財務次官に就任した矢野康治氏。省内きっての財政再建論者として知られる。正しいと思ったことは国会議員や上司に対してもズバズバ直言する人物として、これまでも多端な重責を担ってきた。「それでも排除されなかったのは、謙虚であろうと心がけてきたから」と話す。そんな矢野氏と同期生であった大月康弘副学長が、矢野氏の学生時代や入省後のキャリアや転機、社会人としての身の処し方などについて語り合った。

矢野 康治氏 プロフィール写真

矢野 康治(やの・こうじ)

1985年(昭和60年)一橋大学経済学部卒。1984年国家公務員上級試験(経済)合格。大臣官房文書課、大臣官房調査企画課、理財局資金第一課、小樽税務署長、国税庁長官官房総務課課長補佐を経て、客員研究員として米国ハーバード大学国際問題研究所に1年間滞在。帰国後は、証券局証券市場課課長補佐、主税局調査課課長補佐、同局税制第二課課長補佐、税制第一課課長補佐、税制第一課審査室長、大臣官房秘書課課長補佐、大臣官房企画官兼大臣官房秘書課を経て2002年(平成14年)主計局主計企画官に就任。2006年(平成18年)主計局調査課長に就任に至るまで大臣官房企画官兼主計局厚生労働係、主税局総務課主税企画官兼主税局調査課兼主税局税制第二課兼主税局税制第三課を歴任。その後、内閣官房長官秘書官事務取扱、大臣官房付兼内閣官房内閣参事官、内閣官房社会保障・税一体改革情報発信推進室参事官、主税局総務課長、大臣官房審議官(主税局担当)、大臣官房長、主税局長、主計局長等の要職を経て、2021年(令和3年)7月財務事務次官に就任。

大月 康弘氏 プロフィール写真

大月 康弘(おおつき・やすひろ)

1985年(昭和60年)一橋大学経済学部卒。一橋大学経済学部助手、成城大学経済学部講師、同大学経済学部助教授を経て、1996年(平成8年)一橋大学経済学部助教授に就任。パリ第一大学客員研究員、一橋大学経済学研究科助教授を経て、2006年(平成18年)一橋大学経済学研究科教授に就任。2015年(平成27年)経済学研究科長、2018年(平成30年)一橋大学附属図書館 館長、一橋大学社会科学古典資料センター センター長、一橋大学学長補佐を経て、2020年一橋大学理事・副学長に就任、現在に至る。研究分野は経済史、西洋中世史、地域研究。

内閣官房に8年間勤務

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大月:このたびは、財務次官へのご就任おめでとうございます。大学を代表して、また1981年に一橋大学に入学した同期生を代表して、まずはお祝いを申し上げます。すべての同窓生がこの度の次官ご就任を誇らしく思っています。

矢野:ありがとうございます。

大月:まずキャリアについてお聞かせください。入省後どのようなお仕事をされてこられたのでしょうか?

矢野:主税局と主計局を行ったり来たりしましたが、今も続いている大借金時代の中、いろいろもがいてやってきたという感じです。その意味ではあまり胸が張れる状況ではありませんね。その中で人と変わっている部分は、たまたまですが永田町のほうで8年ほど勤務したことです。最初は入省22年目の2007年ですが、福田康夫内閣の官房長官秘書官に任命されました。その後の麻生内閣でも続投し、2009年に民主党政権に代わった際に本省に戻るかと思いきや、引き続き内閣官房に残れと命じられたのです。そこでは国家戦略室の一員にもなりました。役人5人、民間5人というメンバーの役員側の最年長の立場で、調整役として苦労した覚えがあります。その後、社会保障と税の一体改革、早い話が消費税増税に関わり、民主党、自民党、公明党の三党合意の一翼を担いました。

大月:いろいろ大変な役回りをこなされましたね。

矢野:その後、2012年8月に本省に戻ったのですが、12月に第2次安倍内閣に政権が再交代すると、再び官房長官秘書官となり、2年7か月務めました。2015年7月に本省に戻り、大臣官房長や主税局長、主計局長を経て、今年の7月に財務次官に任命されたという経緯です。

官邸主導はオーバーシュート気味

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大月:内閣官房が長いのは、財務次官として異色の経歴かもしれませんね。その経験は、財務次官の仕事にかなり生かされるのではないですか?

矢野:論理を重視する役人からすると、政治家のかばん持ち的な仕事は虚業と言う人もいます。しかし、今官邸主導の行政と言われる中、内閣官房での経験はウェイトが増していると言えるでしょう。

大月:官邸主導ということをどのようにとらえていますか?

矢野:官邸主導と言われて四半世紀ほどが経ちますが、否定する人はあまりいません。「日本の総理はもっとしっかりリーダーシップを発揮しろ」というエールでもあったと受け止めています。一方、総理大臣の言うことが常に絶対に正しいかといえば、必ずしもそうではないこともあったと思います。若干、官邸主導がオーバーシュートしているのかもしれません。霞が関の各府省がやや「指示待ち」化している面もあると思います。そうではなく、互いによりしっかりした国家運営をしていくためにもっと協力し合うべきでしょう。その意味で、政権交代や再交代の際に内閣官房を経験したことは、役に立つのではないかと思います。

大月:まさに歴史的な渦中で仕事をしてこられたのですね。今はコロナ禍となって何かと忙しいのではないかとお察ししますが。

矢野:まさにコロナ財政、コロナ税制の渦中です。2020年の春に2つの補正予算で57兆円も計上してしまいましたが、あの時は世の中が動転していました。今から見れば陽性者数の波は小さかったのですが、街から人が消えて、永田町も霞が関も、そして国民もみんながみんな動揺しました。そこで、傷口を塞がなければならないと給付金を手当てしたわけですが、公務員や儲かっている企業などにまで必要なかったと思います。もちろん、必要なところには適切に手当てをする必要はあるからこそ、もっと熟考すべきでした。

下宿の先輩に大きな影響を受ける

大月:初めてのことなので、なかなかうまくいかないことも多々あるのでしょうね。
さて、矢野さんは下関市のご出身と伺いました。なぜ一橋大学を志望なさったのですか?

矢野:田舎の学生の偽らざる事実ですが、大学を紹介する「赤本」を書店で見ていて、一橋大学の本に書かれていることに引かれたのです。ほとんどインスピレーションでしたが、それで決めました。いい加減と言えばいい加減ですね(笑)。

大月:でも、経済学部は国内トップと自負される先生方がおられましたから、良かったのではないですか?

矢野:結果的に一橋を選んで本当に良かったと思っています。ちなみに私は、受験で上京した時に、生まれて初めて兵庫県以東に足を踏み入れました。まさしく田舎者でしたね。

大月:部活は何かやられたのですか?

矢野:体育会系やいわゆるサークルと呼ばれているものは自分には合わない感じがしまして、その中間のような一橋庭球同好会に入りました。テニスは学生の間、よくやりましたね。今だから言えますが、授業には出ずにテニスばかりやっていました。とは言いながらも、経済学の勉強だけは人並み以上に取り組みましたよ。人並み、と言っても、その人とは「授業に出ない」というレベルだったので比べるのは何ですが(笑)。

大月:ほう。どんな勉強ぶりだったのですか?

矢野:国分寺の下宿に2学年上の滝本徹さんという先輩がいて、その人から非常に大きな影響を受けました。滝本さんから「荒ゼミに入れ」と言われたので、荒憲治郎先生のゼミを選びましたし、私が大蔵省(現・財務省)に入ったのも滝本さんが「大蔵省に入る」と言っていたことが直接の動機になりました。その下宿はスリッパを履いて廊下を行き来するところで、滝本さんはよく私の部屋に来ては「ヘンダーソン/クォントの『現代経済学』は読んだか?」「根岸隆は読んだか?」と課題図書を貸してくれるのです。そして、酔っぱらって部屋に来ては、バーッと経済理論の証明をして見せたりしました。ものすごく勉強家で、面白い人で、人間性も豊かな人でした。滝本さんのおかげで経済学が非常に面白くなり、夢中で勉強できたのです。
その滝本さんは、卒業後は大蔵省ではなく通産省の面接官にほだされて入省し、九州経済産業局長まで務められましたが、残念ながら56歳で心筋梗塞で亡くなってしまいました。

荒ゼミで「思い込みはだめ」との教訓を得る

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大月:そうでしたか。いい先輩に恵まれましたね。荒ゼミはいかがでしたか?

矢野:ケインズの一般理論を塩野谷九十九さんが訳した旧字体の難解な本を15名のゼミ生が輪読して、少しずつ自らが咀嚼した内容をレポートに書いて発表し、先生がコメントするという講義を1年間やりました。いまだに強く印象に残っているのは、学生が必死に理解し数式交じりの文章で説明した内容を、荒先生は「〇〇君は分かって書いているんだろうけど」と学生が傷つかないような言い方をされつつ、ケインズのインプリケーションについて極めて明解な解説をされたことです。その内容には毎回目から鱗が落ちる感じがしました。そんな連続でしたね。

大月:教師の鑑のようですね。荒先生は毎回違う角度から切り込んでみせ、発見する力や考える力を学生に授ける方でした。

矢野:分かっているつもりで分かっていなかったことがいかに多いか思い知らされました。このことは、「思い込みに陥っていてはだめだ」という教訓になりましたね。

大月:いやしかし「思い込み」もビジョンを持つという点では大切なことではないでしょうか。自分の世界観から出てくる「思い」をパッションを持ってことばにする。そんな作業を、ケインズを読まれながらなさった、ということではないでしょうか。荒先生は、ゼミの皆さんの「思い」を大切にされながら、しかしその中で、いろいろなオルタナティブがあることを示されたのではなかったかと思います。先生と学生との本物のコミュニケーションをなさっておられたのではないでしょうか。

矢野:おっしゃる通りですね。当時、大学での学びと実社会で行うことの間には違いがあり、その間をどうつなげるかが問題だといった議論がありました。理論経済学を学ぶにしろ、統計や経済史を学ぶにしろ、今思うのは「理論と実態は二律背反である」といったことではなく、何が真髄なのかを追求すべきということです。公務員であろうが、企業人であろうが、研究者であろうが、事の本質は何かを一生懸命つかもうとすることが大切ではないかと。裏を返せば、ディベートは頭の体操には役立つけれども、それが日常化するとポジショントークに陥ることになると思うのです。そうではなく、頭の中で葛藤するというか、自分の直観やビジョンは大事だけれども、別の見方もあるのではないかと疑ったり、この人はなぜそういう見方にこだわるのかと考えたりして、自分の考え方を変容させるべき時は柔軟に対応することが大切ではないかと。それが真髄をつかむ訓練になると思います。

石弘光教授の遺影を飾る

大月:我が意を得たりという感じですね。荒先生という良き師に恵まれて研鑽を積まれたからこそのお話しのように思います。研究者の世界でも、隣の人のやっていることに理解を示さない人もいますね。理論経済学だけ、あるいはフィールド・ワークだけやっていればよいという甘い世界ではないでしょう、現実の世の中は。こう話していると、荒先生の面影が浮かんできました(笑)。

矢野:実は、荒先生から研究室に残らないかと誘われたんです。役人になると決めていたのでお断りしましたが、魅力的ではありました。

大月:荒先生は、毎年優秀な学生の1人を研究室に残されることを希望されていましたね。私としては矢野さんにアカデミズムの世界に残ってほしかったという思いもありますが、先生の思いが叶わなくて良かったのかもしれませんね。荒先生以外では、印象に残っている先生はいますか?

矢野:石弘光先生ですね。実は、石先生が政府の税制調査会長を務められた時に大変お世話になりました。消費増税で苦心していた時に助けてくださった恩人です。海外出張にも同行させていただきました。お亡くなりになる直前までメールでやり取りしていましたが、私が官房長で財務省の不祥事の矢面に立っていた時には「いい経験したじゃないか」と励ましてくださいました。実は、今の財務省の執務室の椅子の後ろに石先生の遺影を飾っているんです。「しっかりやれ!」という恩人のお叱りを感じて自分に緊張を与える意味と、自分も石先生のように闘いたいとの思いがあり、その守護神としての意味があります。その石先生の授業は、表現の良し悪しはさておき、独特のねちっこさが面白かったですね。また、大川政三先生の財政学は非常に分かりやすい授業で印象に残っています。無駄なことを言わず、的確かつ平易に説明されていたことをよく覚えています。
それから、野口悠紀雄先生は、授業中に黒板に書いたことに「あ!」と言って消し、その場で何か計算をし、考え込んでまた書くという授業をされていたことが印象に残っていますね。まさに研究プロセスを共有している感じがしました。

市場の失敗を補う仕事をしようと公務員に

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大月:まさに多士済々でしたよね。卒論は何を書かれたのですか?

矢野:「非自発的失業の解明」というテーマです。統計データを使わず、コピペ的なことも一切せず、マクロとミクロの中間のような観点での論文です。独善的でしたが、書き始めたらのめり込みました。

大月:そして、卒業半年前の公務員試験に合格されたわけですね。

矢野:4年になる直前の3月1日にテニスを封印し、ラケットを放り出して6月一杯まで、1日15~16時間ひたすら試験勉強をしました。

大月:公務員を目指した動機は、先輩の影響以外にも何かありましたか?

矢野:高校まで数学が大の得意でした。3年になると文系・理系のコースに分かれるわけですが、にもかかわらず文系を選びました。そのまま理系に進んでも、白衣を着て研究室にこもるイメージしかできず、自分には向いていないと思ったからです。自分の文系選択は学年中に驚かれましたが、理系崩れとして数学に縁の深い経済学部に進学しようと考えました。その経済学にのめり込んだわけですが、勉強すればするほど、完全競争が社会の便益を最も高めることだと信じるようになるわけです。利潤を独り占めする独占企業があってはならないとの先入観があったため、大企業に入ることはためらいました。さりとて起業して大企業と競争する勇気も知恵もありません。ならば、自らの理想と矛盾しない道として、公務員となって市場の失敗を補う仕事をしようと考えたのです。そういう意味で公正取引委員会にも関心がありましたが、ネームバリューのある大蔵省を選んだという経緯です。ですので、会社訪問はせず公務員試験しか受けていません。青臭いですが、そんなプリミティブな発想でしたね。

自分ほど直言する役人はいない

大月:なるほど。よくわかります。その公務員として、どういったことを大切に考えて仕事に取り組まれてきましたか?

矢野:これも青臭い話ですが、役人として当たり前のこととして、国家国民のため、社会正義のためになることをするということです。現政権におもねるためではない、と。政治主導では、役人は政治家のしもべであるように映りますが、国民や社会正義のしもべであって官邸のしもべではないということです。当然過ぎることですが、微妙にずれる人が少なくないのです。現に、取り違えてか不祥事も起こしました。ですから私は、そこだけは絶対に間違えないと意固地になるほど思って取り組んできました。

大月:矢野さんは、霞が関や永田町では自分が正しいと思ったことは国会議員や上司に対してもズバズバ直言する人物として知られてきたようですね。

矢野:私ほどそうしてきた役人はいないと確信しています。正しいと思ったことは主張します。しかし、相手に打ち返され、自分が間違っていたり不足があると思えば謙虚に検証します。そのうえで、やはり自分が正しいと分かれば再び意見をしに向かいます。そこを勘違いして居丈高になったり、劣勢になると必死になって反論する人もいますが、それは単なる厄介者です。自分はそうではなかったからこそ、噛みつきまくったのにスポイルされることなく生き残ってこられたのではないかと思っています。

よりよい政策をつくり笑って死にたい

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大月:ご自分ほど臆せず意見を言う役人はいないという存在になったのは、何か経緯があったのですか?

矢野:入省してから3年ほどは大人しいイエスマンでしたが、3年目に突然変異的に変わりました。実は、私の姉がその頃亡くなることがありまして、自分もいつ死ぬかわからないと思ったのです。その思いが自分を変えました。大蔵官僚として、どんな小さな政策でもより良いものにすることに寄与して、にっこり笑って死にたいと痛切に思ったのです。

大月:御家族にとって身を切られるようなご経験をなさったと思いますが・・・・そこでご自身の存在を見つめ直されたということですね。それから、意見を言うようになったと。

矢野:上司も政治家も怖い存在でしたが、死というもっと怖いものが身近になった。上司や政治家の怖さは、死の恐怖に比べれば何百分の一です。入省同期には、「矢野は3年目で様変わりした」と思われています。

大月:それでも矢野さんが素晴らしいのは、自分の意見に少しでも齟齬があれば謙虚に再考するという姿勢があるところですね。

一橋大学出身だからこそ謙虚になれる

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矢野:実は、多分に一橋大学出身であることがその要因です。一橋大学はマラソンでいえば常に先頭集団にいますが、先頭ランナーから一歩下がった位置を走っているランナーですね。10代の多感な時代に、私は上には上がいるという現実に直面し、自ずと自制的というか謙虚にならざるを得なかったと感じます。この姿勢が、社会人として生き抜くうえでは貴重な素養や持ち味になっていると思っています。

大月:コンプレックスにもならない、非常にいいポジションにつけている大学ということですね。

矢野:これがトップ・オブ・トップにいると、周りはみんな下ですから上からの目線で見たり、肩で風を切って歩くようなことになるでしょう。そして非常にプライドが高くなる。このプライドが社会では邪魔になると思うのです。意見を言って間違っていたら名誉に傷がつくことを恐れ、言い出す勇気が出ない。言い負かされて引き下がったらプライドがズタズタにされると、ディベート術を磨く。それは自分のためであって、世の中のためではありませんね。ですから私は、おかしなことは言わないよう勉強はしますし、言っておかしいと気づかされたら引き下がって検証しますし、プライドトークはしません。

大月:非常に大切なことですね。それが一橋大学ならではというところがいいですね。

矢野:入省同期は25人ですが、東大以外は3人で、東工大と京大と私でした。全員国立なのはそれはそれで問題かもしれませんが、私はマイノリティとして肩身が狭い思いもしました。しかし、そうであるがゆえに省内の一橋出身者の結束力は強かったですね。ニュース番組のキャスターも務められている7期上の村尾信尚さんにも随分可愛がってもらいました。そんな斜めの上司から処世術や公務員道といったものをよく教えてもらいましたね。

大月:斜めの上司は社会人にとって貴重な存在と聞きますね。では、最後に一橋大学の学生にメッセージをお願いしたいと思います。

矢野:中島敦の「山月記」という短編小説は、プライドの高い主人公が平凡な仕事に満足できず詩人になって名を上げようとするも、自尊心から才能を浪費し、尊大さから人と交わることもできず、羞恥心に苛まれて虎になってしまうという話です。この作品が反面教師として強く印象に残っています。一橋大学生の皆さんは、社会に出ても謙虚さひたむきさを失わずに学び続け前進し続けてほしいと願っています。

大月:今日は貴重なお話しを有難うございました。