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ユニークな着眼と発想の"踊れる小説家"

  • 作家二宮 敦人

2021年7月1日 掲載

「ALL一橋大学体育会競技ダンス部」で活動した学生時代をモチーフに小説『紳士と淑女のコロシアム 「競技ダンス」へようこそ』を2020年3月に発表した二宮敦人。そのプロフィール欄には「フィクション、ノンフィクションの別なく、ユニークな着眼と発想、周到な取材に支えられた数々の作品を紡ぎ出し人気を博す」と書かれている。まさしく、この小説には実際の部活動を通じた二宮自身の充実感や苦悩が、競技ダンスの魅力とともに克明に描かれている。そんな二宮の学生時代と、この小説に込めた思いについて聞いた。(文中敬称略)

二宮 敦人氏 プロフィール写真

二宮 敦人(にのみや・あつと)

経済学部卒業。2009年に『!』(アルファポリス)でデビュー。フィクション、ノンフィクションの別なく、ユニークな着眼と発想、周到な取材に支えられた数々の作品を紡ぎ出し人気を博す。『最後の秘境 東京藝大 天才たちのカオスな日常』(新潮社)、『最後の医者は桜を見上げて君を想う』 (TOブックス)など著書多数。

主人公は自分自身をモデルに

三角屋根の駅を出ると、桜並木が延々と大学まで続いていた。心地の良い春の陽気が顔を撫でていく。受験勉強が終わり、新しい生活に一歩踏み出す実感がようやく湧いてきて、大船一太郎の心は浮き立った。

との書き出しで始まる小説『紳士と淑女のコロシアム 「競技ダンス」へようこそ』。部活動の先輩から"ワンタロー"というニックネームを授かった主人公の大船一太郎は、作者である二宮自身がモデルだ。

「実際の自分はもっと嫉妬深く、意地悪だったり、ずる賢いところもありますが、ワンタローはそういったところは美化して書いています。描いたシーンやエピソードは、実際にあった重要な事実だけを抽出し、あとは脚色して書きました」と二宮は言う。

入学初日にキャンパスに足を踏み入れたワンタローは、部活動の新入生獲得に色めき立つ先輩に囲まれ、結果的に競技ダンス部への入部を決める。そこから4年間、競技ダンスの魅力に取りつかれたワンタローは、部活中心の学生生活を過ごすことになる。1~3学年までは、メキメキ上達するプロセスが面白く、試合でも活躍して主力選手の一角を占めるようになるまでの充実ぶりが描かれている。

頂点から、ぼろぼろの状態に

3年生の11月に出場した試合で、ワンタローはファイナルで転倒するものの3位入賞に輝く。そんな頂点にいる時の心境は、次のように描かれている。

大船は今、音楽に合わせて踊っているのではなかった。自分の体から音楽が聞こえてきた。

しかし、活躍できたのはそれが最後。4年生になると、後輩の指導や部の運営という役割が加わることの重圧が忍び寄り始める。競技ダンスは男女のペアを固定しなければならず、"シャドー"と呼ばれる選外者を最上級生が決めなければならないシーンは、部活の雰囲気を一遍に暗くするものとして描かれる。そして、いいところを見せたい後輩に追い抜かれることでワンタローのプライドは傷つき、女子学生パートナーと意思疎通ができなくなって迷路にはまる。その後は何かと理由をつけて練習から逃げるようになり、毎日のようにしていたダンスを1か月もしなくなるなど、坂道を転げ落ちるように苦悩を深めていく。

そんなタイミングで重なった就職活動に失敗し、それをバネに練習に復帰するものの、調子は取り戻せずじまい。さらに、下級生の離脱が続き、雰囲気はどんどん悪くなっていく。

全てが、ぼろぼろだった。大船が積み上げてきたものが、砕けて砂になって消え去っていった。

部活動の小説を書いて、やっと気持ちよく卒部

最後の納会を終え、帰宅したワンタローは、賞状やトロフィー、ダンスシューズ、アルバムなど部活の想い出の品を段ボールに詰めて"封印"する。

この小説は、学生時代と、その12年後の現在という2つの時制が交互に絡み合いながら展開されていく。その現在編の初めの方で、封印された段ボールを開けるシーンが描かれている。その心境の変化が、ワンタローこと二宮が本作品を書く動機となった。二宮は次のように説明する。

画像:インタビュー中の二宮 敦人氏 1

「競技ダンス部の最後の打ち上げに出ても、みんなに気持ちよく話しかけて終われなかったことがずっと心に引っかかっていたんです。借りを残したままという気持ちのような。競技ダンス部の想い出を封印しても、しまい込んだところから臭いが漂ってくるような時もありました。どこかできちんと総括したいと心の底で思い続けていたんですね。それが10年も経つと心の傷がだいぶ癒えて、当時に向き合う勇気が湧いてきたんです。また、当時組んだパートナーが結婚後に暮らしていた海外から帰国するというタイミングがたまたま重なり、再会したいと思いました。そんな一連の話を出版社の編集担当に話すと、面白い本ができるかもしれないと言ってもらえ、押し入れから段ボールを出してきて構想を練り始めたわけです。こうして本として完成すると、やっと気持ちよく卒部できた感覚が持てました」

父親のプレッシャーから逃れるために一橋へ

二宮の父親は一橋大学法学部の出身で、母親とともに教育熱心であったという。「妹とともに、しっかり勉強していい大学へ行けと言われて育った」と言う二宮は、都内の中高一貫校に進学する。東京大学に進学することが当然で、教師はやる気のある生徒に熱心に指導するような校風があった。しかし、勉強が好きではなかった二宮は落ちこぼれ、常に下から数えて何番目といった成績であった。当然、親からは叱られる日々が続く。

「どうすれば親は納得するかと子どもながら考え、出した結論が、父親が出た一橋大学に入ることでした。同じ大学なら父親も納得してくれるだろう、と」

そこで二宮は初めて一橋大学を意識するようになる。そして、願書をもらいに訪れた国立のキャンパスに足を踏み入れ、歴史的な趣のある校舎群を見てこの大学に入る運命のようなものを感じたという。

「他のいろいろな大学にも行きましたが、ここが一番だ、ここに入りたい、と」

それ以外に、一橋大学の入試問題にも惹かれた。世界史が好きだった二宮は、400字の論述問題3問という内容がいたく気に入った。細かな暗記をする必要がなく、自分の考えを述べるというスタイルに共感したからだ。また、数学では整数問題が好きだったが、一橋大学の入試問題では1問目に出題されているところも気に入ったという。

「難しいけれど、いい問題が多い印象がありました。そういう問題を作る大学は何か他とは違うだろうと思えたのです。父の母校、キャンパスの雰囲気、試験問題、と些細なことが積み重なるうちに、一橋大学に入りたいという意識が固まっていったように思います」

経済学部を選んだのは、親から「潰しが利く」と勧められたのと、センター試験を突破できる点数が他学部より有利であったから。「とにかく、父親のプレッシャーから脱出することだけが頭にあり、その先はまっさらで、取りあえずは学生生活を楽しめればいいと思っていた」と振り返る。

言葉巧みに勧誘され競技ダンス部に

画像:インタビュー中の二宮 敦人氏 2

初日の部活の勧誘で競技ダンスを選んだのは、どんな動機からだったのか。そもそも二宮は、幼少期から運動は嫌いだったという。小児喘息持ちで、アトピー性皮膚炎もあったからだ。運動して発汗すると症状が悪化するので、小学校の体育の時間はよく見学していた。「スポーツは自分以外の人がやるものという思いがあった」と話す。大学生になったそんな二宮を、母親は人から紹介された金沢大学医学類の名医のもとへ行かせた。すると喘息が快癒し、アトピーの症状も軽くなってスポーツができるようになった。とはいえ、球技や格闘技は苦手意識が強かった。そんな二宮に、競技ダンス部の女子部員が勧誘に近づいてきた。

「中高一貫校は男子校で、女子に免疫がなかったのです。きれいな女子学生の先輩から声をかけられて、思わず足を止めました。しかも先輩は『スポーツが苦手な人でもできる』『苦手な人でも活躍している』と、こっちの心配を見透かしたように言葉巧みに誘いました。アトピーの改善には血行を良くすることも必要だったので、ちょっとやってみようかと思いました。そこから後は競技ダンス一色で、気がついたら就活の時期、という感じです」

競技ダンスは、やはり足を使う競技や、器械体操などバランスが重要な競技の経験者の方が有利ではあったが、実際にスポーツが苦手でも活躍する人はいたという。ワルツやタンゴ、ルンバなど8つの種目があり、強者が特定の種目に偏ってそれ以外の種目でチャンスが生まれた。高校で文化系だった選手でもセミファイナルに残るといったことがあった。

二宮が部活にのめり込んだ要因の一つに、入部した年に全国大会で団体優勝をするなど当時の一橋大学競技ダンス部が強豪だったことがある。

「全部員で戦っている感じがありました。自分は予選落ちしても、部全体のために全力で応援しよう、もっと練習を頑張ろうという雰囲気がありました。それに乗せられたという側面はありますね」

俄然面白く感じた一橋大学の授業

一方、本業であるはずの学業のほうはどうであったのか。「さまざまな授業がある中、90分(現在は105分授業)が全く苦にならない面白い授業もたくさんあった」と述懐する。他学部の授業も履修できるという一橋大学のメリットを活用した二宮は、特に法学部の現代政治についての講義を楽しみにしていたという。

「そのほかにも面白い授業がありました。先生ごとに違う解釈があり、先生独自の考え方が伝わってきて、学問の幅がぐっと広がったように感じました。高校時代までの勉強はひたすら正解を覚えてテストで書くだけの受験勉強に終始していたので、自由に解釈していいんだということが、自分にとてもフィットする感覚がありました。歴史の場合は、史実を覚えることがすべてだったところから、史実の検証を自らが行いその意味を考えることへと変わり、初めて学ぶ面白さに出合ったという感触がありました。本来の学問としては、当たり前のことかもしれませんが」

中高一貫校では、与えられたものをいかに吸収できるかが全てで、それを飲み込めない生徒や考え方の違う生徒は「言うことに従えない者」「ダメなやつ」と認識されているように感じていた。そんな二宮にとって、一橋大学の自由な環境は揺りかごのように心地よいものだったのだ。

ダンス中心・時々勉強、という日々

画像:インタビュー中の二宮 敦人氏 3

大学近くのアパートでの一人暮らしを選んだ二宮は、朝起きて朝食を自炊し、登校して授業に出た後は部室に行き、必ずいる誰かとおしゃべりをしたり、ダンスのビデオを見たりゲームをし、体育館が空いていれば自主練習を行った。空いていなければ、部員たちと1000円ほどで使い放題の西国分寺にある貸練習場に行った。部全体の組織的な練習は、月、木、土、日の週4日で、二宮はほぼ休まず参加した。夕方まで練習し、みんなで食事をして帰宅する、という日々を過ごした。

「大学近くの中華レストランで、みんなで試験勉強もよくやりましたね。ほとんど勉強をしないという先輩もいて、その先輩と一緒に試験を受けるということもありました。先輩も自分も、ダンスの比重が大きかったので、勉強はどちらかといえば"試験を切り抜ける"ためにやっていたように思います。そんな時間に疲れると、好きな現代政治の授業で発散していました。無事4年で卒業しましたが、一浪していたうえにダンスに必要なお金も親に出してもらっていたので、さすがに留年はできないというプレッシャーがありました。今でも時々、単位が足りずに焦る夢を見ますよ(笑)」

入学前に持った「大学4年間はモラトリアム期間」という意識は、ほぼ4年間続いたという。将来をなんとなく意識はして教職課程も履修したが、部活との兼ね合いや体調面の問題で難しくなり、途中で断念。「これといった将来のビジョンはなく、フワフワしていた」と話す。

その背景には、競技ダンス部の多くの先輩が大企業に就職していたり、企業の重鎮となっていた先輩との酒の席で「困っていたら拾ってやるからウチに来い」と言われていたこともあったという。

結果的に先輩の世話にはならず、自らの就職活動でIT企業から内定をもらうことができた。

鬱憤晴らしに書いた小説が認められる

しかし、その就職活動時期はワンタローの苦悶の日々のモデルになったほどの暗い日々。競技ダンスで自身がこだわっている要素が審査員になぜか響かず評価されなかったり、パートナーの女子学生と話が噛み合わなかったり、アルバイトで失敗したり、交際していた彼女ともうまくいかなくなるといったように、悪いことが重なった。

そんな鬱屈を抱えながら臨んだ就職活動は、不合格の連続となった。企業に行き来する電車の中で、二宮は鬱憤晴らしに小説を書き始める。

「鬱憤晴らしですから、人がたくさん死ぬという恐ろしい話を書いたのです。子どもの頃からマンガが大好きで、よくノートに描いていたからストーリーを考えるのは得意だったかもしれません。その小説はウェブで公表したのですが、多くの人から評価してもらいました。ある人が『出版社に持ち込んだら?』と勧めてくれたので、そのとおりにしてみたら出版が決まったのです。デビュー作の『!』という小説で、IT企業に入った1年目に出版しました」

『!』が売れ始めると、仕事の依頼が舞い込むようになる。3年間は会社員との二足の草鞋状態を続けたが、作品執筆に向き合っていくうちに作家活動に専念したいと思い始め、退職する。

「最近です、ようやく小説家として覚悟を決められたのは。10年続けてもまだ飽きず、ますますのめりこんでいるので、この職業は自分に向いているのかも、と思い始めています。行き当りばったりなのは昔から変わらないですね(笑)」

書籍画像:『紳士と淑女のコロシアム「競技ダンス」へようこそ』

『紳士と淑女のコロシアム「競技ダンス」へようこそ』(2020年3月/新潮社刊)

競技ダンスは、人間関係を学ぶ最適な素材

そんな二宮は、競技ダンスをどのように捉えているのだろうか。「ダンスで脱皮できた」と二宮は言う。まず、学問やスポーツに対して抱いていた「自分には無理」という思い込みが消えた。他学の競技ダンス部の選手などを含め、いろいろな人と交わることで多様な価値観に触れることができた。男子校で女子に対して持っていた偏見や苦手意識が払拭された。

「払拭されるどころか、女子がいなければ成立しない世界です。女子がいるから試合に出られるわけで、存在自体がありがたいと思うようになりました。そして、競技ダンスをやる以上は勝ちたい、と。ペアを組む相手は自分が選んだわけではなく、先輩が強制的に選んだ存在です。したがって、この相手のいいところはどこかと探し、どうすればその強みを活かせるかと互いに考える。まさに見合い結婚の夫婦のようなものです。実際にダンスペアがカップルになるケースも数多くあります」

審査員に評価されるためには、大きく目立つように動く必要がある。ダンスの中で自分が気持ちよく足を前に大きく踏み出せるのは、ペアの女子が思い切って後退してくれるから。そこを、相手を無理に押そうとすると、体勢を崩してしまう。つまり、ペアの息が合っていなければならず、その前提としての信頼関係が必須だ。「相手を思い切って信頼してみることから始まるというのがある。4年間限定だからできるということもあるかもしれないが」と二宮。ドイツでは、思春期になると子どもをダンス教室に入れて男女が支え合う意義を学ばせる習慣があるという。競技ダンスは、そんな人間関係の最小単位を学ぶ最適な素材というわけだ。

回り道も大事。味わい深い、濃い4年間を

最後に、後輩の学生や高校生へのメッセージ、学生生活へのアドバイスを聞いた。

画像:インタビュー中の二宮 敦人氏 4

「行き当りばったりな自分でも、こうして作家として生きていられているので、やりたいようにやればいいと思います。学生時代の自分に声を掛けるとしたら、『悩みや苦しみもよく味わっておけ』と言うでしょうね。もちろん、病んでしまう前に逃げ出さなければなりませんが、余裕のある学生時代にしか味わえないことは思う存分味わってほしいと思います。一見無駄に感じることも、今思えば全部味わっておいてよかったと思います。もっと効率的に過ごせたと思いますが、それが楽しかったかは疑問ですね。回り道も大事。味わい深い、濃い4年間を過ごしてください」

『紳士と淑女のコロシアム 「競技ダンス」へようこそ』の一部は、神奈川の県立高校の国語の入試問題にも使われた。この小説には、"学生生活について学ぶ副読本"といった内容が盛り込まれている。大学生はもちろん、高校生にも読んでほしい一冊と言えるだろう。