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ユニクロの中国生産体制をコーディネートし、躍進を支えた。 その経験を活かし、グローバル人材を育成

  • 株式会社パーソナルケアシステムズ代表取締役社長長谷川 靖彦

2016年夏号vol.51 掲載

カジュアルウェア小売店チェーン「ユニクロ」などを展開するファーストリテイリングの躍進に貢献した1人のエージェントが一橋大学OBにいる。長谷川靖彦。高度成長時代から近年までの、貿易を巡って激動する国際関係の真っただ中を生き、時代の変化を読んでユニクロの中国生産に道を開いた。また、東レOBとして「ヒートテック®」をはじめとするヒット商品誕生の触媒ともなった。そのグローバルな思考と行動力は、一橋大学OBの面目躍如の感がある。(文中敬称略)

長谷川 靖彦

長谷川 靖彦

1963年3月一橋大学商学部卒業。同年4月東洋レーヨン株式会社(現:東レ株式会社)入社、輸出部に配属される。1970年11月〜1974年8月まで米国ニューヨークに駐在。帰国後貿易部に配属転換。1976年香港TAL社出向、ニットディビジョン、ガーメントディビジョンに配属。1983年9月帰国。東レインターナショナル株式会社、1988年6月東レ株式会社トレシー事業部、1991年6月東レインターナショナル株式会社を経て、1994年7月同社退社、株式会社パーソナルケア システムズ設立、現在に至る。

一橋大学で学んだバックグラウンドは社会に出てから活きた

ユニクロの放った歴史的大ヒット商品といえば、「フリース」と「ヒートテック®」が挙げられるだろう。前者は2000年の秋冬に約2600万枚を販売し、「フリースブーム」を巻き起こした。一方、2003年に販売を開始した後者は、2011年には約1億枚を売り上げ、2013年には累計3億枚に達するという空前のヒットが続いている。この「ヒートテック®」の繊維を開発したのは、合成繊維やカーボンファイバーなどの素材メーカー大手の東レ。「ヒートテック®」の大ヒットは、東レの経営にも大きなインパクトをもたらした。
「日本では、繊維産業は長らく衰退産業の代表でした。ところが、『ヒートテック®』で成長産業に復活したのです。ユニクロと東レの提携は、繊維やアパレルの世界でも革命を起こせることを世界に知らしめたと思いますね」
そう語る長谷川靖彦は、繊維産業をフィールドとするエージェントとして、東レとユニクロを結びつける媒介役を担った存在である。1940年に横浜で生まれた長谷川は、中華街の脇にある市立港中学校に通った。
「在日の中国人や韓国人の子どももいました。そういう意味では、子どもの頃からグローバルな環境で過ごしましたね」
そんな環境が、長谷川の目を世界に向けさせることになったのかもしれない。中学を卒業すると、市立横浜商業高校に進学する。「Y校」の愛称で親しまれ、硬式野球部は1983年に春夏連続で甲子園で準優勝した強豪校としても知られている。長谷川が同校に進学したのは、貿易科があったからだ。当時、貿易科を擁する高校は、全国には長野商業高校とY校しかなかった。その貿易科の担任が、一橋大学出身だったのである。
「先生は、将来は貿易の仕事がしたいという私に、ならば国際経済を学びなさいと一橋大学への進学を勧めてくれました」
Y校には、当時大学受験のための特別クラスである「経営科」があり、担任の勧めに従った長谷川は経営科に移籍。そして、一橋大学商学部に合格する。「安保闘争のさなかでしたが、私は当時の学生としては"ノンポリ"でした。4年間、横浜から片道2時間かけて通い、授業には真面目に出席しましたね」
海運学や会計学などいろいろな学問を選択し視野を広げた。高校時代に簿記1級は取得していたので、会計学は学問として学び直した。
「この学問的バックグラウンドは、その後社会に出てからの実務でも大いに活きたと思います。財務諸表をきちんと読むといった基本的・普遍的知識をしっかり身につけたことで、時代が変化してもついていきやすかったように思いますね」
ゼミは吉野昌甫まさとし助教授の国際経済。「先生のご自宅でやりました。皆で侃々諤々かんかんがくがく議論したことをよく覚えていますよ」と長谷川は遠い目で話す。

「QUOTA」がビジネスのテーマに

1963年に卒業して、入社したのは東洋レーヨン(1970年に東レに社名変更)。同社は1960年に輸出部を設けていたからだ。総合商社も志望したが、結果的に東レに決まった。
「輸出部をつくったのは、おそらく東レが日本のメーカーとしては初のことだったと記憶しています。進取の精神を感じました。入社して当然のように輸出部を志願し、無事配属されました。それ以来今日まで、繊維貿易の世界に関わることになります」
当時の東レはナイロンやポリエステルといった合成繊維のトップメーカー。ほかの合繊メーカー6社の売上高を合計しても東レには届かなかったほどだ。主力の合繊などの商品は、国内の需要を満たすだけでなく海外にも積極的に輸出し始めていたのである。輸出部は、ニューヨーク、ハンブルク、ベイルート、ヨハネスブルグ、シドニー、リマ、香港、バンコクといった世界の都市に拠点を展開していった。同社のグローバリゼーションの先導役を担う輸出部ができて3年目に、長谷川は配属となった。しかし、入社した時はまさに、日米間の繊維製品の貿易には暗雲が垂れ込めようとしていた。
当時のアメリカは、朝鮮戦争やベトナム戦争など度重なる戦争で国力を低下させ、インフレとなり始めていた。アメリカは1955年に繊維製品の関税を引き下げたことで、日本から安物の綿製品の輸入が激増していた。当時は1ドル360円の固定相場制で、"ワンダラー・ブラウス"と揶揄された。当然、
アメリカの繊維業界は黙ってはいない。日本からの綿製品の輸入制限運動が巻き起こり、米国政府は日本に自主規制を迫った。その結果、1957年に「日米綿製品協定」が締結されたのだ。繊維製品は日米間の貿易不均衡の象徴としてターゲットにされたのである。
この動きは、綿製品からウールや合繊にも及んでいった。ウールや合繊にも輸入量をコントロールする国際的な取り決めを導入することを公約に掲げたニクソンが大統領に当選。その翌1969年、米国政府はさっそく日本に当該繊維製品輸出の自主規制を要請してきた。しかし、日本政府は拒否。そこで、アメリカ議会は繊維製品の輸入割当(QUOTA制:数量制限制・管理貿易)を法制化する方針を発表する。こうして日米繊維交渉が始まったが、19714年、結果的に日本はQUOTAをのむことになる。その背後には、沖縄返還のバーター取引があったとされている。当時「糸を売って縄を買う」などと揶揄された。
以来、QUOTAは結果的に2008年まで38年間も継続することになる。このQUOTAが、長谷川のビジネスのテーマとなった。長谷川には、まさに渦中の1970年11月25日、輸出部のニューヨークの拠点に赴任するという運命的な符合があったからだ。
「着任した日、日本では三島由紀夫が市ヶ谷の陸上自衛隊総監室で割腹自殺を遂げるという事件があったことをよく覚えています」

香港の繊維業界に飛び込み信頼関係を構築

QUOTAの下では、「ウールのズボンは何本まで」「シルクのブラウスは何枚まで」と品目別に細かく制限されていた。割当量の根拠となったのは、過去10年程度の輸出実績である。実は、その10年前の時点で、アメリカはGATT(関税貿易一般協定)の支持も得て綿製品の国際貿易に関する短期取り決め締結を主導していた。輸入国は自国の繊維やアパレル産業が輸入品の脅威を受けたと認定された場合、1年間の輸入制限期間を設けて中長期的な対応を協議できるという取り決めである。
「日本政府は、この取り決めに鈍感でした。この段階で綿密な調査に動いていたら、いずれQUOTAが発動されることになり、割当量はそれまでの実績がベースになると分析できたはずでした。分析できていたら、QUOTAが発動されるまでの間、できるだけ実績量を積んでおこうと対策を講じることができていたはずです」と長谷川は指摘する。一方、敏感だったのは香港であった。統治していたイギリスから情報を得て、ダンピングまでして輸出実績を積んでいったのである。この香港のQUOTA割当量の大きさが、後に長谷川を同地に向かわせることにつながる。日本では、割当量は商社とメーカーが50%ずつを分け合うことになった。4年間のニューヨーク駐在
中、長谷川の主要ミッションは、在米の日本商社に対して東レの商材を扱ってもらうよう取り計らうことであった。「メーカーの割当枠だけでは足らないので、商社の枠も使わせてもらおうという作戦です。ニューヨークなどで日本の商社関係者をつかまえては、肩を抱いて働きかけていきました」と長谷川は述懐する。
そんな長谷川を、1971年に起きた「ニクソン・ショック」が襲った。「ニクソン・ショック」には、ニクソン大統領自身が戦後の冷戦関係を解消するための中国訪問を宣言したことと、ドルと金との兌だ換かんを停止し、「ブレトン・ウッズ体制」の崩壊につながった、いわゆる「ドル・ショック」の二つがある。固定相場制から変動相場制に移行し、それまで1ドル360円だったものが、一気に16%ほど円高となってしまったのは、貿易に関わる長谷川に、まさに大きなショックをもたらしたのだ。
「なにせ値段が急激に跳ね上がったわけですから、商品はパタリと売れなくなりました。しかし、そこは日本人、妙手を考え出したのです」
東レ輸出部は、アメリカに直接売るのではなく、QUOTA割当量を豊富に持っている香港に繊維素材を輸出し、当地で生産した繊維製品をアメリカに売る「三国貿易」を考え出したのだ。そして東レは香港で最大のQUOTAを保有するガーメントサプライヤーであったテキスタイルアライアンス社(TAL)と資本提携し、海外事業として推進した。香港では、後に中国がWTO(世界貿易機関)に加盟
するまで、世界の繊維産業の中心地として欧米のアパレル会社がこぞって生産していたのである。TALは香港の紡績や染色、縫製などの工場のほか、タイ、台湾にも工場を持ち、QUOTA枠を持つ業者として欧米のアパレル会社を相手に稼いでいた。長谷川はTALに出向し、ニットディビジョンで3年間、ガーメントディビジョンで3年間、汗を流した。
「この間は、数多くの中国人にもまれ、また信頼関係をつくることができましたね」と長谷川は振り返る。

二つの大きな出来事で「時代が変わる」と予見

インタビューの様子1

「ドル・ショック」で一転、繊維製品の輸入国に転じた日本であったが、国は輸入制限にそれほど関心を示さなかった。そうした要因で、1980年代以降は特に中国から安価な輸入品が急増し始める。日本の産業構造が大きく変わっていった。その中国では、1976年に文化大革命が終わり、鄧小平による「改革開放」で市場経済の導入が図られ、急激な経済発展が始まることになる。
「香港から帰国の際、鄧小平によって『第二の香港にする』といわれた深しんせん圳に寄ってみました。次はこの発展著しい中国と関わることになると予感させられましたね」
帰国後、長谷川は商品開発に関わるポジションに就き、1986年に発売されたメガネ拭きなどに使われる「トレシー®」の開発を手がけた。「開発したら、上司に『東レは素材をつくる重厚長大メーカーだ』と怒られてしまいました(笑)。けれども、その後入社してきた新卒社員の入社動機に『トレシー®に魅かれた』というコメントが目立ったのです。嬉しくなりましたね」
この「トレシー®」は、約2μmという極細繊維で織られた布を3層重ねてつくられている。このため、通常厚さ1〜2μmという油膜汚れもきれいに拭き取って繊維の中に閉じ込めることができるという機能を発揮する。また、極細繊維による緻密さがあるので、「紙よりも印刷に適しているといわれるほどの適合性も有している」と長谷川。この機能を活用して、長谷川は贈呈用に干支のイラストを印刷した「トレシー®」を毎年売り出して、現在まで販売が継続している人気商品に育てた。
「それまでメガネ拭きは無料でメガネに付けるものでした。『トレシー®』で新しいメガネ拭き市場を創出したと自負しています」と長谷川は胸を張る。1994年に、長谷川は東レを退職し、株式会社パーソナル ケア システムズを創業する。これから起こるであろう二つの大きな出来事で「時代が変わる」との予見に突き動かされたからだ。
一つは、中国のWTOへの加盟である。中国は、1986年に旧GATTへの加盟を申請。1994年頃には「5〜6年後には加盟となることは間違いない」といわれ始めた。実際に中国は2001年に、GATTから引き継がれたWTOに加盟となった。
「香港から帰国する際に垣間見た中国の市場経済は、WTO加盟によってますます加速することは間違いありませんでした。中国とのビジネスの可能性が格段に高まったと思えました」
もう一つは、QUOTA制度の廃止である。QUOTAは、競争力のある国の無闇な輸出拡大を抑制するための制度であったが、同時に後発国の参入に対する制約要因にもなっていた。そこで、GATTウルグアイ・ラウンドでの協議の結果、漸進的に撤廃し、2004年12月31日をもって全廃されることになったのである。
「再び自由貿易の世界に戻るわけです。ビジネスへのインパクトは計り知れません。世界の繊維業界もこの行方を強い関心を持って見守っていました。なぜなら、WTOに加盟する中国がQUOTA撤廃で解き放たれれば、繊維産業で圧勝すると思われたからです」
ところが、為替の問題もあって国内志向を強めていた東レは、そうした動向にさして関心を示さなかったという。輸出部はその後東レインターナショナルという別会社となり、本体から切り離されていた。
今から動かなければ、時代が変わった時にチャンスを逸する。そんな事態になるのを、長谷川はみすみす看過できなかった。そこで、自ら香港や中国、アメリカなどで築いた繊維業界のネットワークを活かしてビジネスをコーディネートする仕事をしようと決めた。

たった1人「面白いからやりましょう」と言った人物

インタビューの様子2

長谷川が顔見知りとなっていた香港のアパレル工場は、欧米の著名な小売り向けにカジュアルウェアをつくっていた。そのどこもが、QUOTAが撤廃されたら一気にシェアを奪おうと考えていた。しかし、それまでの10年間、工場の設備や従業員を維持しなければならない。そこで長谷川は、そんな工場一軒一軒に「アメリカのQUOTAが撤廃されるまでは、日本を相手に商売をしたらどうか?」と提案して回った。日本が欧米のように輸入制限を設けなかったことを逆手に取った形だ。品質に厳しい日本企業を相手にすれば、さほど儲からなくても腕は磨かれるし、キャパを確保できる。工場はマシーンや人だけ有しても、オーダーが無く稼働していなければ、マシーンはさび、人は草取りに追われるだけで、工場の維持はできない。稼働してこそ効率も上がってコストダウンもできるようになる。そうすれば何よりも日本向けのキャパをそっくり本命のアメリカに向けることができ、QUOTAが撤廃された暁には、ダッシュスタートが可能になる、というロジックを考え出したのだ。
「日本企業なんて、ロットが小さいし、品質にうるさい割に買い叩くから興味がないと言う経営者も少なくありませんでした。しかしながら、面白いと言って興味を示す人もいたのです。そうやって香港に日本向けの生産基盤を築いていきました」
一方、日本のアパレル会社も開拓する必要がある。繊維メーカーの東レで30年近く働いた長谷川は、GMS、アパレルメーカー、専門店、カタログハウス等直接アポイントを取ることができた。「ところが、日本の商慣行においてはあくまでも会社対会社です。いくら東レにいた人間であったとしても、一個人となった私の話を聞こうというところはほとんどありませんでした。そうした中でたった1人、『面白いからやりましょう』と言ってくれたのが、ユニクロの柳井正さんだったのです」
長谷川はさっそく日本向けの生産に前向きであった工場と交渉。アメリカの一流アパレルブランド向けに服を生産している縫製工場や生地メーカーが、"ユニクロ価格"の代わりに長期継続を条件に生産に応じてくれたのだ。
「中国の方々は、私が東レにいようが独立していようが関係ないというのです。あくまでも私個人が信用できるか否かを見てくれる。日本人との大きな違いを感じましたね」
ユニクロは翌1995年から、香港企業の、小規模ながらすでに欧米向けに稼働している中国工場で、ユニクロ向けの生産を開始し、快進撃がスタートする。長谷川は柳井氏と知り合ったタイミングで古巣の東レにも紹介している。両社で開発した「ヒートテック®」が爆発的にヒットしたことは前述のとおりである。その後、長谷川は"ユニクロプリーチャー"(伝道師)を自任し、中国の生産工場を開拓していった。「私への報酬はいらないから、ぜひユニクロと付き合ってみてくれ、柳井というのは信用できる男だからと言って話をつけていきました。一方、柳井さんには、紹介する企業は、香港で長期にわたり欧米向けカジュアルウェアを主導してきた企業群で、ファッションに対する造詣も深く、特にアメリカンカジュアルの生産は品質や着心地など世界最高水準であるというプレゼンテーションを通して、提携を実現させてほしいとお願いしました」と長谷川は言う。こうしてユニクロは長谷川が耕した一流の工場群との提携により、高品質でかつ圧倒的にコストパフォーマンスの高い生産基盤を手に入れることができたのである。100万ドルほどからのスタートであったが、1999年にはフリースをリリースして一大ブームを巻き起こすなど、規模を拡大していった。
1999年、ユニクロは初の海外拠点として生産管理業務を担う上海事務所を開設。本格的な生産体制を整えた。
「知り合った当時のユニクロは年商250億円ほどの企業でしたが、みるみる1000億円、2000億円と成長していきました。柳井さんは、日々ベストを尽くすということを本当に毎日毎日限りなく続けている人です。だからこそ、一代でここまで来られた。柳井さんを紹介した中国の方々は皆、柳井さんに心酔していますよ」

"真のグローバル人材の育成"にチャレンジする日々

1994年に時代の変化を読み、勤務先の大企業を飛び出して始めた長谷川の活動は、ユニクロの躍進という形で大きな花を咲かせたのだ。
「あの当時、世界の動きを見て私のような考えを持つ人は、私の周りには皆無でした。勝算などありませんでしたが、結果的に飛び出して良かったと思っています。自分をあちこち海外に行かせて学ばせてくれた東レを飛び出した時、私は会社に何も返せていないままでした。しかし今、東レの収益の少なくない部分をユニクロとの取引が占めています。結果的に東レにも恩返しができたと思っています。ほっとしていますよ(笑)」
そんな長谷川は、すでに76歳。2015年に従来の事業を収束させ、投資会社に定款を変えた。運営資金を稼ぐために株式投資なども行うが、主目的はインキュベーションファンド。長谷川は今、後進の育成に力を注ぐ日々を過ごしている。テーマは、"真のグローバル人材の育成"だ。
日本においては、以前からグローバル人材の育成が急務といわれている。しかし、実際に大企業の海外拠点で働いている人材は、一定の限られた期間という保証の下に赴任し、現地では自社の社員や他社の日本人社員と食事し、ゴルフなどをして過ごすというパターンが一般的だ。それでは到底、グローバル人材とはいえないだろう。
「5年前に、当社の社員を上海に送り込んだのです。手を挙げてくれた8人に、片道切符のつもりで行け、と。しばらく現地で頑張ってくれましたが、"石の上にも三年"の適応期間にも耐え得ず、5人が帰国したいと言ってきました。仕方ありません。しかし、残っている3人はもはやユニクロとのビジネスの中枢として活躍してくれています。その3人は、グローバル人材の有力な候補だと思います」と長谷川は目を細める。
真のグローバル人材となるためには、語学の習得はもちろん、外国の文化や風土、ビジネススタイルになじむ必要がある。企業に所属していると、海外に出てもどうしても中途半端な環境に身を置きがちだ。そこで、衣替えをした投資会社では、ある程度の仕事は確保した前提で、独立して海外でビジネスを手がける人材を育てる実験を始めている。
「すでに2社に出資し、当社の社内にデスクを置いています。成功率は数パーセントかもしれませんが、まずはやってみようと思っています」
しかし、長谷川1人ではスケールに限界がある。そこで長谷川は、一橋大学基金のアクションプランに着目し、基金に寄付をした。
「一橋大学の基金の使途目標の第一に、グローバル・リーダーの育成が挙げられています。これは私の目指すところと完全に一致しています。そうであるならば、まとめて学生を教育できる一橋大学を通じてのほうが効率的でしょう。ということで、わずかばかりですが支援させてもらいました」
長谷川は、東レ時代から一貫してグローバルなビジネスを手がけてきた。「ユダヤ人や中国人、ロシア人から学んだことも大きい」という。同じ一つの物事であってもそれに対する見方は、国が違えば全く異なることは当たり前だ。逆に、言葉や文化は違っていても、同じような価値観を抱くことも少なくない。そうしたことは、海外に出てみなければ何一つ分からないのだ。長谷川は、今でも毎日『ウォール・ストリート・ジャーナル』や『フィナンシャル・タイムズ』に目を通し、情報収集に余念がない。
「今、アメリカ大統領選挙の真っ最中で、誰が大統領になるかによってパラダイムが劇的に変わる可能性もあるのです。日本企業がその時になってあわてて対処しようとしても、時すでに遅しとなるのではないでしょうか。そういった危機意識や肌感覚は、海外に出てみなければ身につかないのではないかと思いますね」
この言葉はそのまま、一橋大生にも向けられている。

(2016年7月 掲載)