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平成24年度学部卒業式における式辞

明六の有礼

一橋大学平成24年度学部学位記授与式
山内進

 みなさん卒業おめでとうございます。

 本日、学位を授与されるみなさんのご両親、ご家族、ご親族そして関わりの深い方々にも、ご来賓、教職員一同とともにお祝いを申しあげたいと思います。

 みなさんの卒業をお祝いするにあたって、私は祝辞の表題から話を始めたいと思います。みなさん、この表題をどう読むか、お判りでしょうか。素直に読むとよいのですが、「あけむつのゆうれい」と読みます。「明六」とは、明け方の六つどき(午前6時頃)と「明六社」の「めいろく」をかけたものです。「有礼」は、ゴーストの幽霊と森有礼の「有礼」をかけています。

 その説明はあとからしますが、森有礼(1847-89年)は言うまでもなく本学の創設者です。一般的には明治維新期の最も啓蒙的な思想家にして政治家として知られています。森は明治六年に福沢諭吉や加藤弘之、津田真道、西周、中村敬宇などの思想家たちとともに、明治日本を啓蒙するための結社、彼らの言葉を使えば「学舎」を結成しました。明治6年(1873年)設立の年にちなんで、「明六社」と名付けられました。この学社は、機関誌『明六雑誌』を発刊して、青年たちに大きな影響を与えます。

 「明六社」の目標は、日本の文明化と西欧化にありました。福沢諭吉や加藤弘之など、それぞれの社員はみな個性的でしたが、その本筋がおおむねそのあたりにあることは明らかでした。とりわけ森有礼の西欧化への姿勢は際立っていました。森は、国語を日本語ではなく、簡易英語に変えよという提案すら行った、ということもいわれています。必ずしもそうではない、という説もありますが、普通はそのように受けとめられています。

 なかでも「明六雑誌」に掲載された「妻妾論」は日本で初めて男女の平等と夫婦の対等を主張したものとして有名です。この論説は明治の言論界に衝撃を与え、男女同権をめぐる論争を引き起こしています。

 しかも、森有礼はこの考えを実践に移しました。森は、洋学教育を受けた開拓使女学校出身の19歳の聡明な女性と婚約を取り交わしました。名を広瀬常といいます。広瀬常は幕臣の娘でした。物おじしない知的で魅力的な女性のようで、女学校時代に、そこの外国人教師が彼女と結婚したいと申し出て、ひと騒動になったという話が残っています。

 薩摩出身の森と幕臣の娘の結婚というだけでも、維新間もない当時にあっては、世間の注意を引くに十分でしたが、森はそれ以上のことをしてのけました。京橋区木挽町の新築の洋館(後にこの建物は銀座尾張町から移転してきた商法講習所の一部になったと思われます。現在の新橋演舞場のあたり)で洋風の結婚式を断行したのです。犬塚孝明『森有礼』(吉川引文館、1986年)によりますと、式の一か月前に連名の招待状が発送され、当日は200名を超す参会者の前で、婚姻契約書が読み上げられたといいます。証人に福沢諭吉がなりました。両人と証人の署名で式は終わり、その後、別室で立食式のパーティーが催されたといいますから、徹底していました。明治8年(1875年)2月6日のことでした。翌日、東京日日新聞は、「森有礼のハイカラ結婚式」という見出しで、このありさまを皮肉交じりに伝えたといいます。ちなみに、森有礼が本学の前身である商法講習所を銀座尾張町(現在の松坂屋のあたり)に開設したのも、同じ年(明治8年、1875年)の9月でした。

 「明六の有礼(あけむつのゆうれい)」という言葉が巷に流布したのは、このころのことでした。人々は、森のこのような欧化主義に呆れて、「めいろく」と「明け六つ」、「ありのり」と「ゆうれい」をかけて揶揄したのです。

 ところが、森有礼はただの欧米かぶれの幽霊ではありませんでした。森は啓蒙的であると同時に、ナショナリストでもありました。森が西欧主義だったのは、ある面では西欧に有為な点があることを認めるとともに、日本が同じことをすることによって、西欧に対抗し、競争するためでした。このことは、森が海外に関心をもったきっかけをみるとわかります。森は、周知のように、薩摩藩が1865年にひそかにロンドンに送り込んだ留学生の一人でした。森有礼が優秀だったからなのは当然なのですが、森自身が海外の見聞を切望していたからでもありました。森がそう思った直接のきっかけは、篤姫の御用人を務めていた、森の兄の義祖父が薩摩に持ち帰った書籍のなかに林子平の『海国兵談』(1791年)があり、それを借りて読んだことでした。1860年、森が14歳の時のことでした。森有礼は、海外事情を知ることの重要性を感じ、洋学を学び始めました。 

 さて、林子平(1738-93年)というと、よくいわれるのは「隅田川の水はテムズ川に通じる」という言葉を発し、海防の必要性を説いた、ということです。これは必ずしも正しくないのですが、とにかく彼の書いた『海国兵談』のなかで語られたということになっています。

 林子平は日本史の教科書にも必ずでてくる有名人ですが、意外と彼に関する本は少なく、その生涯も一般にはよく知られていないようですので、ここで少し彼のことに触れておきたいと思います。森がどこに感じ入ったかを探るためです。

 その生涯の概略をみますと、子平は幕臣の子として江戸に生まれましたが、彼が三歳の時に父が殺人を犯して逐電したために、叔父に預けられています。姉が仙台藩主伊達宗村の側室となったことから仙台藩士となった兄とともに20歳の頃に仙台に移り、無禄厄介の身分を得て自由に活動を続けました。地利(地理)に関心をもち各地を遍歴、その気候、地勢、政治、風俗を熟知したといいます。江戸、長崎にも遊学し、江戸では大槻玄沢らと交わり、オランダの地理や船舶の在り方も深く学びました。

 子平は1786年49歳で『三国通覧図説』を著し、朝鮮・琉球・蝦夷そして小笠原の風土について詳述しています。これは、ただ知的関心から出たものではなく、対ロシア防衛の観点から蝦夷地の開発などを説いています。子平にとって、最大の関心は国防でした。

 国防の関心から執筆されたのが『海国兵談』です。『海国兵談』は1786年にその第一巻が出されましたが、世人の理解を得られず、売れ行きは悪かったそうです。その後も苦心しつつ巻を重ねましたが状況は変わりません。窮乏の中、ようやく友人の助けを借りて自費出版の運びとなり、全16巻・3分冊に及ぶ完成版が仙台で出されました。1791年4月のことです。製本した総数は僅か38部でした。

 「隅田川の水はテムズ川に通じる」という名文句が語られたのはこの『海国兵談』でのことだ、といわれています。しかし、読んでみると、それらしきものはありますが、そのものズバリの言葉はありません。どうやらこの名文句は後世の人々が作ったもののようです。それにしても、なかなかのフレイズなので、いつ、どのようにしてこの警句がつくられたのか、興味がわくところですが、いまのところはよくわかりません。

 その似た文章というのは次のようなものです。

 「細カに思へば江戸の日本橋より唐、阿蘭陀迄境なしの水路也」(林子平/村岡典嗣校訂『海国兵談』第1巻、岩波文庫)。

 オランダは出てきますが、テムズ川はでてきません。よく考えてみると、鎖国下の日本では西洋といえばオランダですから、こちらのほうが自然です。子平は「境なしの水路」ということをここで強調しています。これは、日本が海国だからです。

「海国とハ何の謂ぞ、曰、地續(ツゝキ)の隣国無して四方皆海に沿(ソヘ)ル国を謂也」(同前「海国兵談自序」)。

 四方が海ということは何を意味するのでしょうか。子平にとって、これは日本がはるか遠方からでも直ちに侵略されやすい、ということを意味しました。「艦船の制」が巧みで「船軍」に長じている「欧羅巴の諸国」であれば、短時日のうちに艦船を到来させるであろう。その意味で、南北の諸島は重要である。もし外国に占拠されるなら、侵略の拠点とされるからだ。子平はそう主張します。子平が『三国通覧図説』を書いたのはそのことに警鐘を鳴らすためでした。それだけではありません。子平は、長崎だけを防備するのは不十分と考え、「日本国中東西南北を不論、悉く長崎の港の如クに備置度事、海国武備の大主意なるべし」と主張しました。

 江戸と西洋とは一個の「水路」で繋がっていると子平は主張します。子平は、この水路のために、日本には「外寇」が来やすいと考え、これを恐れました。日本は海で囲まれているから安全だというのが当時の通常の考え方でした。いまでもそうでしょう。その意味で、子平の認識は革新的でした。

 このような理解は当然、鎖国政策をとり、外国に対する防備や外交を考えてこなかった幕政に対する批判を内包していました。時の老中、松平定信は『海国兵談』と版木を直ちに没収し、子平に対し仙台での蟄居を命じました。1792年5月のことです。蟄居した子平は病を得、翌1793年6月に没します。享年56歳でした。

 蟄居した子平は、「六無の歌」を創り、自ら「六無斎」と号したそうです。

「親も無し、妻無し子無し版木無し、金も無ければ、死にたくも無し」

 驚くべきことに、子平の警告は的中しました。それも、子平が蟄居を命じられて僅か4か月後の1792年9月のことでした。蝦夷の根室に突然一隻のロシア船が現れたのです。船長はラクスマンといい、日本人である大黒屋光大夫を伴っていました。命じたのはロシアの女帝エカテリーナ二世です。これは、日本に開国を迫る動きの嚆矢となりました。日本だけではありません。東アジア全域が、その後、大変な激動に見舞われることになります。

 森有礼に戻ります。森有礼は1889年、大日本帝国憲法発布の日に暗殺されます。彼の姿勢が単なる欧化主義、欧米追随と誤って理解されたためです。また、私的にも、最初の結婚は失敗に終わります。理由は必ずしもはっきりしません。常が森のロンドン駐在に同行しその間に欧米人と不倫し子をもうけたからだという説もあります、常の実家の養子が伊藤博文等の政府高官暗殺計画に連座して逮捕されたためだという説もあります。真偽のほどはいまだにわかりません。とにかく、森は合意のうえで婚姻契約を破棄しています。明治時代の啓蒙主義がぶつかる壁だったのかもしれません。また、常も離婚のショックで精神に異常をきたしたという話も残っていますが、ひとつの話にすぎません。いずれにしても、その後の常のことではっきりしたことはなにもわかっていません。これも、先駆者が甘受しなければならない痛みなのかもしれません。

 しかし、歴史はとにかく進みます。森は「明六社」と「商法講習所」を創り、そこに日本の将来の希望を見出そうとしました。明六社はその後、解散され、いまではその跡形もありません。しかし、商法講習所は、森の衣鉢を受け継ぎ、多くの困難を乗り越えて、東京商科大学となり、わが一橋大学に結実し、今日にいたっています。森有礼がいま一橋大学を見るならば、そして今日の式典に出席するならば、おそらくその堂々たる在り方に感慨を覚え、深く感動することと思います。

 森有礼は、帝国主義の時代の中にあって、日本の存立と発展を願い、西欧に倣い、西欧と競争することを求め続けました。商法講習所は、武器ではなく、ビジネスで西欧と対等に戦える人材を育成するためにつくられました。森は、偏狭なナショナリズムとは無縁でした。森は世界を見、世界の中で堂々と生きることを日本に望んでいました。おそらく、森有礼が林子平から学んだのは、国防の思想だけでなく、むしろ世界を見渡す広い視野、海のかなたの世界を考え、政策を唱える構想力とそれを実現しようとする実学性ではなかったかと思います。

 一橋大学は、商法講習所、東京商業学校、高等商業学校、東京高等商業学校、東京商科大学をへて、今日にいたるまで、世界を考え、海を越え、世界に生きる人材を輩出してきました。みなさんはその末裔であり、その担い手です。どうかこの伝統と精神を、これから進んでいく実社会でいかんなく発揮してください。

 みなさんのこれからの航海が素晴らしいものとなることを期待します。そして、みなさんが航海に疲れたとき、あるいは針路に悩んだとき、その他どのような時でも、いつでも一橋大学という永遠の、優美で強靭な港に戻ってきてください。このキャンパスは皆さんを黙って、温かく受け入れることを約束いたします。 私は、このことを約束して、私の祝辞を終えさせていただきます。

平成25年3月22日(金)

   

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