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平成24年度学部入学式における式辞

2012年4月2日

平成24年度入学式挨拶
「社会科学の精神」

一橋大学長 山内進

 みなさん、一橋大学に入学おめでとうございます。また、本日この場に参加されている保護者、ご家族、ご親族などの方々にも、来賓のみなさまや一橋大学教職員とともに、心より入学をお祝い申し上げます。  一橋大学の学生となった、この記念すべき最初の日に、私はこれからの4年間で、みなさんにぜひ身につけてほしいものについてお話したいと思います。それは「社会科学の精神」です。
 一橋大学は、「一橋大学研究教育憲章」にありますように、「市民社会の学である社会科学の総合大学」として、「日本における政治経済社会の発展とその創造的推進者の育成に貢献して」きました。一橋大学は今年で創立137年周年を迎えますが、これまでの卒業生は8万人程度ときわめて少数です。それにもかかわらず、一橋の卒業生は政治経済社会のさまざまな分野で大きな足跡を残してきました。私の考えでは、そのような成果を生み出し、支え、推進してきたものの一つ、非常に重要な一つが、「社会科学の精神」でした。それは何かということについて、説明したいと思います。

 かなり遠回りになりますが、これを説明するために、一橋の歴史にとってたいへん重大なある歴史的事件にふれておきたいと思います。それは1908年から09年にかけて起こった申酉事件です。
 一橋は当時、神田一ツ橋にあって、東京高等商業学校と呼ばれていました。制度的には大学ではありませんでした。しかし、通常の課程のうえに、2年からなる専攻部をもち、専攻部の卒業生は商学士と名乗ってよいとされていました。専攻部での研究教育は高度の内容をもっており、たしかに大学といってよい内容を備えていました。
 日露戦争をへて急速に伸張していた日本の経済界は、欧米の企業人と対等に競える人材を求めていました。そのような人材を育てる機関として、商科大学の設置を求める声も強まっていました。当然のことながら、東京高等商業学校は、専攻部を大学に昇格させることを強く望みました。
 ところが、当時の文部省は東京に国立の大学を二つ作る気はありませんでした。文部省は、東京帝国大学法科大学内に商科大学を置くという案を作り、1909年の4月に東京帝国大学にその諮問を行いました。それだけならまだしも、文部省は東京高等商業学校の専攻部を廃止することを決めました。1909年5月6日のことでした。
 このような文部省の方針に対して、後に第七代大阪市長となり御堂筋を造ったことで有名な関一など4名の教授が辞表を提出し、学生は強く抗議しました。学生たちは、5月11日に開かれた学生大会で総退学を決議しました。総退学した学生数はほぼ1300名でした。
 決議の後、学生は学生の自治組織である一橋会の会歌を歌ったのちに、マーキュリーの帽章をとり、地上になげうって一ツ橋を去りました。また、総退学を指導した委員有志80名が、午後5時頃、正門前で「校を去るの辞」を朗読し、学校に最後の敬礼をして一橋をあとにしたことも有名です。この「校を去るの辞」は現在、如水会館14階の記念室に飾られています。
 この異常事態は、本学の創設者であった森有礼の死後も強力な後援者であり続けた渋沢栄一や同窓会、各地の商業会議所などの斡旋、交渉によって、学生の復学と専攻部の存続が決まり、ひとまず解消されました。しかし、東京高等商業学校が東京商科大学となるにはなお11年の歳月を必要としました。
 この一連の動きをさして、申酉事件といいます。申酉とは1908年と09年の干支にちなんでいます。この事件は一橋の言わば「神話」となりました。この事件によって、東京高商は、文部省と対立しつつも、その存在を全うし、ついには自主独立の商科大学となり、多くの人材を世に送り出すことに成功したからです。5月11日は「申酉事件記念日」として第二次大戦前まで、東京高商そして東京商科大学で祝われました。

 ところが、明治のある文豪はこの事件について、実に冷ややかな日記を残しています。夏目漱石です。漱石は、次のように書いています。

 『…由来高商の生徒は生徒のうちより商売上の駆け引きをなす。千余名の生徒が母校を去るの決心が恫喝(どうかつ)ならずんば幸也。況んや手を廻して大袈裟な記事を諸新聞に伝播せしむるをや。渋沢何者ぞ。それ程渋沢に依頼するなら大人しく自己の不能を告白して渋沢にすがるのが正直也。高商の教授二、三辞職を申し出づ。尤也。早く去るべし。』

(1909年4月25日)

 また、紆余曲折をへて学生の復学が決まったときにも、こう書いています。
『高商生徒無条件にて復校と決まる。仲裁者は実業家也。高商生徒は自分等の未来の運命を司る実業家のいふ事はきくが、現在の管理者たる文部省の言ふ事は聞かないでも構はないといふ料簡と見ゆ。 要するに彼等は主義でやるのでも何でもない。あれが世間へ出て、あの調子で浮薄な乱暴を働くのだから、実業家はいゝ子分を持ったものである。』

 (同年5月24日)

 夏目漱石はなぜこれほど冷ややかだったのでしょうか。夏目漱石の作品に『野分(のわき)』(1907年)という著作があります。このなかで、漱石は、白井道也(しらいどうや)という文学者に、ある演説会で次のように語らせています。

「一般の世人は労力と金の関係に就て大なる誤謬を有している。彼等は相応の学問をすれば相応の金がとれる見込みのあるものだと思う。そんな条理は成立する訳がない。学問は金に遠ざかる器械である。金がほしければ金を目的にする実業家とか商売人になるがいい。学者と町人とは丸で別途の人間であって、学者が金を予測して学問をするのは、町人が学問を目的にして丁稚に住み込む様なものである」。

 白井道也の主張が漱石の考えと一致していたとすると、漱石には大きな誤解があったとしか、私には思えません。たしかに学者は金持ちになるために学問はしません。私が知る限り、学者で金持ちになったという人は、残念なことに、私を含めてまずいません。しかし、金、いや富というべきでしょうが、富を対象として学問をすることは可能なのです。

 社会科学の初期の代表的著作にアダム・スミス(1723-1790年)の『The Wealth of Nations』というのがあります。ご存知のように、その訳は『国富論』とか『諸国民の富』です。この著作は社会科学史のうえで燦然と光り輝いています。それが輝いているのは、実は富の問題をはじめて学問の対象とし、体系的に論じ、国民の豊かな生活を可能とする術を探ったからです。ここに生まれた学問が経済学です。
 漱石は、金という言葉は知っていても、富つまり国の富、国民の富、社会の富という概念を知らなかったようです。Wealthとは富であり、福祉です。国民の富とはまた国民の福祉のことです。知的個人の生き方に焦点を絞る漱石には理解できない考え方だったのかもしれません。
 漱石にとって、学問とは文学や哲学でした。それは、人間の心のあり方や生き方、精神的宇宙をつかさどるものでなければなりません。世俗的な金や富のことなど、対象の外でした。学問は世俗を超越するのです。
 私はここで、ある偉大なヨーロッパの学者のことを思い起こします。マックス・ヴェーバー(1864-1920年)といいます。ヴェーバーは、みなさんこれから始終その名を聞くことになる偉大な社会科学者でした。そのヴェーバーの生涯の課題は、なぜヨーロッパに自生的に資本主義あるいは近代が発生したのか、というものでした。中国のように偉大な文明がなぜヨーロッパに遅れをとることになったのか。彼はそのことを問い続けました。
 そのなかで彼は、ひとつ面白い指摘をしています。

「中国では、千二百年来、教養、とくに科挙の試験、によって確認された官職就任資格のほうが、財産よりもはるかに多く、社会的等級を決定した。中国は、もっとひたむきに─ヨーロッパの人文主義時代や、最後にはドイツなどよりもはるかにひたむきに─文学的教養だけを社会的尊敬の尺度にした国であった」(M・ウェーバー/木全徳雄訳『儒教と道教』(創文社、1971年、187頁)

中国では、官吏に必要とされたのは「文学的教養」でした。それだけでした。教養をもたない民衆との間には大きな隔たりがありました。民衆の世界は民衆の世界であり、官吏はこれに関わろうとはしませんでした。王侯貴族や知的エリートは民衆を蔑み、世俗世界の民衆を放置し、それとは無縁の美的世界、精神世界に生きることに高い価値を置きました。知性は社会との関連に欠け、社会に貢献する手がかりを持ちませんでした。
 しかし、このような価値観や姿勢は、民主的な近代世界にはなじみません。普通の人々が暮らす世界や日々の営み、そして商業活動など世俗的な事柄に価値を認めるのが近代です。普通の人々の生に価値を認め、普通の人々の生活のことを真剣に考え、普通の人々の世界をよりよいものにしようとすることがここでは重視されます。

 さて、ここで私はようやく「社会科学の精神」について語ることのできる地点にたどり着きました。そもそも社会科学とは何でしょうか。私はこう考えています。社会科学とは、(普通の人々から成る)人間社会に生起する諸問題を感知、発見する学問、その諸問題を冷静に分析し、理解する学問、そして最終的にはこれを解決するための学問のことです。
 「社会科学の精神」とはこのような学問をするための心構えです。それは、「(普通の人々から成る)人間社会に生起する諸問題に誠実に立ち向かい、知的かつ学問的にその諸問題を解決しようとする精神」のことです。
 この意味において、社会科学は新しい学問です。先ほど名前をあげた経済学の開祖、アダム・スミスは18世紀の人ですし、商学や社会学などは19世紀以降に始まったといってよいと思います。法学は12世紀に始まるローマ法の復活と大学における教育研究によって発達したので、例外的に古いのですが、これもイタリアにおける都市国家の誕生や商業の繁栄と深く関わっています。
 これに対して、哲学や文学、歴史や神学などは古代ギリシアや古代中国においてすでにその姿を見せ、成熟していたといってよいほどの長い歴史をもちます。ヨーロッパでも中国でも日本でも、他の文明圏でも、およそ学問とは哲学や神学、倫理学や文学であって、非実用的で抽象的性格をもちました。それはいわば士大夫の学問であり、非実用的であるところに価値があるとされたといってよいかもしれません。文学者の夏目漱石はこの系譜に属します。
 ところが、16、7世紀のヨーロッパにおいて、画期的な出来事が起こりました。それは、世俗の生活世界に高い価値を認める考え方が登場したことです。この考え方にあっては、普通の人々の世界は醜いもの、蔑むべきものではありません。むしろ、真剣に向き合うべきものでした。それは、知性が関わるべき存在となったのです。
 その結果、知性と生活世界における経験、実務の智恵、実用的知識の相互交流が始まりました。経験と実務は知性によって整理され、文字化され、学問化されました。ここに実務的性格をもった学問、広い意味での実学が生まれたのです。
 具体的にいえば、地学、地理学、鉱山学、農学、軍事学、築城術やそれと関連した数学、実践哲学としての国家学や政治学などです。学問化の課程で、古代ギリシアやローマの文献も大きな手がかりとなりました。その一連の作業はまさしく実用的でした。たとえば、科学革命の先駆者といわれるオランダの数学者シモン・ステヴィン(1548-1620年)は、10進法を確立した人物とされますが、同時に、星型の城を計算、設計し、風車を効果的に動かすためのギアや陸上ヨットを考案しました。工学が生まれたのです。

 重要なのは、生活世界の改善を目指す実務的学問が登場したこと、それが学問としての価値を認められていった、ということです。言い換えると、日常世界、生活世界に意義を見出し、そこでの智恵を学問化し、体系化し、教育することを有意義とする考え方が登場したということです。この認識が、人々の経済活動や商業活動、政治活動や紛争の平和的処理へと向かうとき、そこに社会科学が成立します。
 それは、通常の人々の経済的、商業的、法的、社会的な経験や活動、その日常的、世俗的営みの知的把握と理論化を行います。したがって、社会科学は、人間の多面的な実践的活動や目的、そこから発生する諸問題を対象とし、最終的にはその改善をめざす学問というところにその最大の特質を有します。ヨーロッパ中世の学問がきわめて高踏的かつ抽象的なものであったことを思えば、これは知的革命ともいえるものです。

 社会科学は、王侯貴族、権力者あるいは知的貴族のための学問ではありません。それは、人類や市民のための、普通の人々の広い意味での利益、そして諸国民の豊かな生活と福祉を目指す学問です。社会科学は、そのための広い意味での実学であり、市民社会の学であるのです。
 さらにいえば、経済学はその典型ですが、社会科学は、社会を構成する市民の自律的活動、自由な行動を前提とします。権力が命じ、規制し、決定するのではなく、市民が権力から自立し、権力に頼らず、自己責任のもとに自由に活動することを自明とします。経済社会そしてリベラリズムとはそのようなものです。明治時代の文部省が東京高等商業学校の大学化を嫌い、東京帝国大学内に商科大学を設置しようとした一つの理由は、東京高等商業学校という存在そのものに自由とリベラリズムの香りを感じたからでもあった、と私は理解しています。

 一橋大学が日本近代の黎明期に商学という実務性の強い学問から出発しているのは、一橋大学が優れて市民的かつ近代的な大学だった、ということです。一橋大学はなによりもリベラルであることを誇りにしてきました。そして、一橋大学が社会科学の総合大学をうたうのは、普通の人々の社会に生起する諸問題に誠実に立ち向かい、知的にかつ学問的に解決することをめざすため、そしてそのための人材を育成するためなのです。
 みなさん、この4年間でぜひ「社会科学の精神」を身につけ、世に巣立ち、世のために働いてください。この社会科学の精神こそ一橋大学の精神にほかならないからです。そのことへの期待をこめて、最後にもういちどいいます。
 「みなさん、一橋大学に入学おめでとうございます」。

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