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平成23年度学部卒業式における式辞

2012年3月23日 学位記授与式
山内進

We’ll never go hungry again.

 みなさん、卒業おめでとうございます。

 本日、学位を授与されるみなさんのご両親、ご家族、ご親族そして関わりの深い方々にも、ご来賓、教職員一同とともにお祝いを申し上げたいと思います。

 昨年は、東日本大震災という日本史のうえで稀なほどの震災がありました。ここで改めて、震災でなくなられた方々のご冥福をお祈り申し上げるとともに、被害にあわれたみなさんに心よりお見舞いを申し上げます。

 さて、昨年はそのような未曾有の大事件のために、ついに学位記授与式を行うことが出来ませんでした。大変残念なことでした。ただ、これにかえて、「区切りをつけたい」という卒業生のみなさんの気持ちに応えるために、私たちは5月のホームカミングデーの日の午前中に卒業記念式を行いました。通常の学位記授与式と同様の姿と形式で厳粛に式を行いました。すでに職につき、全国に展開していたにもかかわらず、200名を優に超えるみなさんが式典に参加され、緊張感あふれるよい式典を行うことができました。

 人間の社会では、思いがけないこと、残念なこと、悲しいことが突然起こり、私たちがこれに振り回される、ということはよくあります。震災はその最たるものです。そのために、昨年は正式な学位授与式は中止になりました。同様の出来事は過去にもありました。第二次世界大戦のさなか、学徒出陣が始まった翌年の1944年10月、学業のさなかに徴兵された東京商科大学学生のために、ここ兼松講堂で卒業式ではなく、出征学徒壮行会が行われました。幾人かの教授が壮行の辞を送りましたが、なかでも印象的だったのは山口茂教授の言葉でした。教授は学生たちに死なずに帰ってこいと明言しました。「一億玉砕なぞと、死にたい奴は死なせたらよい。しかし、諸君には生きていてもらわなければ困る。戦争に勝っても負けても、国家が直ちに必要とするのは君たちなのだ」と訴えたそうです。

 この壮行会では、壮行の辞の後に、ピアノの演奏もありました。ショパンコンクールに日本人ピアニストとして初めて入賞し、「東洋の奇跡」と称えられたといわれている原智恵子さんによって弾かれたものです。原智恵子さんは、壮行会で弾くことに躊躇いを感じていたようですが、日本に3台しかないといわれていたドイツ製の最高級ピアノ、ベヒシュタインが兼松講堂に備えられているとの話を聞いて、これに惹かれて演奏にきたそうです。曲はショパンのポロネーズでしたが、演奏後、原智恵子さんは「行く日があれば必ず帰る日もあるはずです。ご凱旋のときにはぜひともまたお招きをいただきたい。みなさま、お健やかに・・・・・・」と涙ながらに挨拶されたそうです。

 みなさんは今日、素晴らしい卒業式を迎えました。みなさんは学業の課程を完全に終え、希望をもって社会に進みます。私は、そのことを心からおめでとうと称え、喜びたいと思います。そのうえで、社会のリーダーへの道を歩み始めるみなさんに、「We'll never go hungry again」という言葉を、みなさんの記憶にとどめてほしい言葉として、贈りたいと思います。まず、背後の画面に注目してください。これは、ある映画の有名な場面です。

 多くのみなさんは、この場面を見たことがあるに違いありません。映画『風とともに去りぬ』の第一部の最後の情景です。ここに登場している女性は主人公スカーレット・オハラといいます。場所はアメリカ南部で、時期は南北戦争時です。スカーレット・オハラはアトランタ近郊のタラという地の大地主の娘で、豊かな生活を送っていました。しかし、南北戦争はその豊かで楽しい生活を破壊しました。アトランタで看護をしていた彼女は、南軍が大敗を喫して燃え盛るアトランタを後にし、必死にタラへと戻ろうとしました。何度も生命の危機にさらされ、飢えと渇きに襲われますが、ようやく実家に戻ります。しかし、母は死に、父は精神に異常をきたし、壮麗な家は静まりかえっていました。豊かな大地も荒れ果てていました。飢えていた彼女は、畑にわずかに残っていた赤蕪にかぶりつきますが、すぐに吐き出し、大地に身を沈めます。しかし、やがて彼女は、気を取り直します。土のついたその蕪を手に握りしめ、ゆっくりと立ち上がっていいました。

 "As God is my witness, I'll never be hungry again."

 次に、その部分の文章をあげておきます。

 As God is my witness, as God is my witness, they're not going to lick me. I'm going to live through this and when it's all over, I'll never be hungry again. No, nor any of my folks. If I have to lie, steal, cheat or kill. As God is my witness, I'll never be hungry again.

 私がみなさんに記憶にとどめてほしいといったのは、"I'll never be hungry again" ではなく、"We'll never go hungry again."です。「私は二度と飢えない」だけではなく、その「私」を含めて「われわれは二度と飢えない」、そのために全力を尽くす、としっかりと心に誓ってほしい。私はそう望んでいます。"We'll never be hungry again"にしなかったのは、go hungryのほうが、現代的だからです。

 日本は、明治維新以降、近代化に向けて驀進してきました。一橋大学は1875年に作られた商法講習所を起源としますが、その目的はビジネスの世界で欧米と対等に戦える人材を育成することにありました。武器ではなく、商売で戦うこと、それができる知識と人間を育てることが目的でした。高度な知識と戦略、緻密な分析と広い視野、語学力と精神力がなければ、国際的なビジネスの世界ではとうてい戦えません。商法講習所の創設者である森有礼、その創設を助けた勝海舟、高等商業学校から東京高等商業学校そして東京商科大学にいたる本学の後援者であり続けた渋沢栄一はその思いを共有していました。

 日本は近代化に成功し、産業も商業もそして学問も発展しました。日本は豊かになり、市民社会の精神を育て始めていました。東京商科大学はその重要な推進者であり、担い手であり、キャプテンズ・オブ・インダストリーの創造者となりました。本学の同窓会である如水会の代々の理事長の名前を見るだけでも、それは歴然としています。しかし、戦争がその営みをすべて破壊してしまいました。キャプテンズ・オブ・インダストリーの卵たちは商売ではなく、武器で戦うことを余儀なくされました。その結果はどうだったでしょうか。日本の重要な都市は灰燼に帰し、多数の人びとが死に、みなが飢えに苦しみました。

 そのとき、私たちの父母、みなさんの祖父母たちは、このような事態を前にして、二度とこのような失敗はしない、「われわれは二度と飢えない」、との思いをもって再出発しました。生きることが、そしてそのために経済の復興がなによりも大切でした。この点で、一橋大学出身の先輩たちの活躍ぶりは見事でした。社会科学的知性と自由主義の精神をもった本学の出身者たちは、日本を再興し、新しい、自由で豊かな日本を創ることに多大な貢献をしました。

 みなさんの大先輩に武井大助という実業家がいます。武井先輩は、海軍中将にまでなった人ですが、その後安田銀行(現みずほ銀行)頭取となり公職追放の後に文化放送の社長となった人です。武井大助先輩は、一橋大学創立75周年記念アルバム(1951年)にこう記しています。「今手許にある経済同友会の役員名簿を見ると、合計80人の中、一橋出身者23名に上り、東京大学法学部の25名と並んで圧倒的多数を占めて居る。東京大学経済学部の6名、同工学部の5名がこれに次ぎ、其の他の諸大学は1、2名に過ぎない」。このように、一橋の卒業生たちは戦後の経済界を指導しました。

 ちなみに、武井大助先輩は、申酉事件の指導者でした。申酉事件とは、1908~9年にかけておきた事件で、文部省が本学の前身である東京高商の専攻部を廃止、東京帝大法科大学内に商科を設置し、東京高商の大学への昇格を否定しようとしたのに対して、一部教授が辞表を提出し、全学生が退学することを決議、これに抗議した一連の出来事を指します。総退学の決議は1909年5月11日の学生大会で行われました。決議の後、学生は一橋会歌を歌ったのちに、マーキュリーの帽章をとり、地上になげうってこの地を去りました。また、委員有志80名が、午後5時頃、正門前で「校を去るの辞」を朗読し、学校に最後の敬礼をして一橋をあとにしたことも有名です。この異常事態はその後のさまざまな交渉を経てひとまず解消されるのですが、この総退学を指導し、「校を去るの辞」を起草したのが、武井大助でした。「校を去るの辞」は現在、如水会館14階の記念室に飾られています。

 さて、このような苦難をへて、東京高商は1920年に東京商科大学となりました。1923年の関東大震災で多大な被害をうけましたが、直ちに復興のための知的な活動を始め、岩波書店から全5巻からなる「復興叢書」を発刊しています。と同時に、多大な被害を受けたキャンパスの再建については、より広大な新天地を求め、国立への移転を決めます。これは大変な決断でしたが、文化の復興、より優れた大学教育を行うためでした。兼松講堂を始めとして、優れた建築物を擁するキャンパスが計画的に創造されました。こうして、われわれはいまここにいます。

 東京商科大学は1949年に一橋大学と名称を変えました。一橋はその過程で多くの人材を産みだし、さきほど述べたように、1950年代の日本の復興に多大な貢献をしました。私はここで二人の名前だけを挙げておきたいと思います。一人は1949年に一橋大学の初代の学長となった中山伊知郎先生です。中山学長は一橋大学を近代経済学のメッカとし、戦後の経済成長の理論的総本山とすることに貢献されました。そして、もうひとりは実業界の人で、中山素平先輩です。中山先輩は日本興業銀行の頭取、経済同友会の代表幹事として活躍し、戦後日本の経済復興と成長に大きな役割を果たされました。

 日本は見事に復興しました。それどころか戦前よりもはるかに経済力を増し、世界第2位の経済大国にまでなりました。私たちの祖父母や親が、私たちの世代が、そしてみなさんの親御さんたちが必死に努力した成果です。つい最近GDPが世界3位にまで下がりましたが、とにかくこれは偉大な成果です。われわれは、その成果のうえに生きています。

 しかし、とみなさんは思うかもしれません。自分が物心ついて以来、日本が伸びていくところなど見たことがない。日本は没落しているのではないか。先行きは暗く、自分たちの世代は損をしている、と。実際、日本はいま大きな不安に包まれています。年金制度は信頼を失い、医療制度は危機的です。日本の国債残高は絶望的なまでに多く、人口は著しく減少し、多くの企業が円高に苦しんでいます。日本を追いかける新興国の勢いは強く、日本の産業は長期低落傾向にあるように見えます。そして、昨年は東日本大震災が起こりました。

 にもかかわらず、だからこそ、私はみなさんに訴えたいと思います。戦後の瓦礫のなかで、われわれの先輩たちは、"We'll never go hungry again."という思いを胸にしっかりと抱いて、日本再生のために死力を尽くし、それに成功しました。現在の日本は、そのときに比べるならば、はるかに恵まれた環境のもとにあります。経済規模は強大で、インフラの整備は国内の隅々におよび、安全で平和な社会が確固として存在します。国際社会が日本に寄せる信頼は厚く、国外には多大な債権があり、強い円があります。私たちは、この資産を生かし、困難を乗り越えていけばよいのです。ただ、これまで以上に真剣にこの作業に取り掛からねばなりません。私は、"We'll never go hungry again"という気持ちで現在の事態に本気で取り組まなければ、日本は再び、本当にhungryになってしまいかねない、と思っています。

 私はみなさんに、なによりも日本を、そして世界を決して飢えさせないぞ、という自覚のもとに社会に出て活躍し、自分のためだけでなく、われわれが再び悲しく悔しい思いで土くれを握り締めることがないように努力してほしいと思います。もちろん、大学もそのために全力を尽くします。そして、みなさんのために、しっかりと存在しつづけます。一橋大学は、みなさんが心から、一橋に学び一橋を卒業してよかった、と思えるような存在であり続けることを約束します。

 みなさんのこれからの人生は素晴らしいものであると同時に、厳しいものになるに違いありません。みなさんには嬉しいときもあれば、悲しいときもあるでしょう。疲れることもあれば、じっくりと考えたいときもあるはずです。迷うこともあるに違いありません。そんな時、いつでも国立を訪れてください。みなさんのキャンパスは、静かに、力強くそして温かくみなさんを迎えてくれるはずです。一橋大学は、なによりもそのような大学でありたいと考えています。

 みなさん、卒業おめでとうございます。

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